第3話 月の中に束稲
「
「はいはい、承知いたしました」
呼ばれて現れたのは、黒い縮緬の羽織を纏った、人の良さそうな中年の男だった。にこやかで品も良く、それでいて気弱な感じはしないから、番頭あたりの役目なのかもしれない。大島紬の人の陰に庇われた千早にも、四郎は微笑むと軽く頭を下げてくれた。
(月の中に、
四郎の羽織に描かれているのは、細い三日月で作った輪の中に、稲の束を曲げて収めた意匠だった。この見世の屋号紋なのだろうが、そんな見世があっただろうか。
「
「さて、うちには心当たりがございませんねえ」
四郎が追手とやり取りする間に、綺麗な男の人は千早を暖簾の奥に隠してくれた。そこには土間が広がり、その一角は台所になっていて井戸と
(
四郎という人に言いつけた様子からして、この人が楼主なのか。こんな若い、それも美形の楼主がいるなら、姐さんたちやお嬢様が必ず噂にしていただろうに。
千早の不思議そうな眼差しに気付いたのか、綺麗な人は静かに彼女の唇に指をあてた。声を立てるな、との無言の言いつけに、千早は頬が熱くなるのを感じながら小さく頷いた。
息を潜めていると、暖簾越しのやり取りがはっきりと聞こえてくる。
「……おい、こんなとこにこんな見世があったか……?」
「怪しいな。念のために中を覗かせてくれよ。やましいことがなければ良いだろう?」
「良いわけないでしょう」
でも、四郎は毅然とした態度で応じてくれている。
「花魁たちはやっと休んだところなんですよ。ねえ、じゃあその娘さんの顔かたちを教えてくださいよ。誰か見かけてないか、くらいなら聞いてみますから」
「……十六の娘だが、痩せてるからもっと幼く見えるかもしれない。色白で、顔かたちは悪くない。細面で、目元もすっきりしている。いつもはへらへら笑ってるが、今はどうだろうな……」
(へらへら……)
あんまりな言われように、千早は自分の顔を両手で包み込んだ。何も考えずに──考えないように──過ごしていたのが、きっとそう見えていたのだ。にこやかに聞き分け良くしていたつもりでも、たぶん、それほど役に立ってはいなかった。
千早の着物や帯の色まで聞かされて、四郎は首を捻ったようだった。暖簾に映る彼の影が、腕組みをする。
「へえ、そんな娘さん、さっき見たような見なかったような……」
「だから、すぐその辺で見失ったんだ! どっちへ行った!?」
千早が悲鳴を上げずに済んだのは、大島紬の綺麗な人が、肩に手を置いてくれたからだった。安心しろ、と言うかのように。会ったばかりの、何も知らない人だけど、その掌は温かくて心強くて──信じて良いと、思えた。
それに、四郎は千早を引き渡してしまうつもりではないらしい。いきり立つ花蝶屋の者たちと裏腹に、彼の声はまだ朗らかな響きをしていた。
「まあまあ、落ち着いて。今、思い出してるんだから。その娘さんは──こんな顔、でしたかねえ?」
暖簾に映る影からして、四郎は追手たちにぐいと顔を突き出したらしかった。四郎と千早はもちろん似ていないし、似顔絵を描くような暇もなかったのに、と思ったのも一瞬──
「っぎゃああぁあ!?」
「お、お化けだあ!」
耳を劈(つんざ)く悲鳴が響いた。次いで、男たちの慌ただしい足音が遠ざかる。鈍い音も幾つかしたのは、派手に転んだかぶつかり合ったかしたのではないだろうか。
(お化け……?)
四郎は、どこにでもいそうな穏やかな顔をしていた。声を荒げてさえいなかったし、怖い顔で脅かすなんてできそうにない。いったいどうやって、と思っても、綺麗な人はまだしっかりと千早の肩を抑えているし、彼女も暖簾の外に踏み出す勇気はない。
「やれやれ、帰っていただきましたよ。お嬢さん、難儀なことでしたねえ。でも、この
訝しむうちに、四郎が暖簾を潜って戻って来た。話を聞いただけ、顔をちらりと見ただけの千早を気遣ってくれる彼こそ優しい。でも、千早は四郎の慰めに答えることができなかった。
「きゃああっ、お化け……!」
代わりに、さっきの男たちとそっくり同じ悲鳴を上げてしまう。
だって、四郎の顔には目も鼻も──それでいったいどうやって喋っているのか──口もなかった。凹凸も何もない、肌色がのっぺりと広がるその「顔」は──
(のっぺらぼう……本当にいるんだ……)
怪談でよく聞く名前を思い浮かべながら。
「お嬢さん!」
「おい、大丈夫か……!?」
四郎と、綺麗な人の狼狽える声を聞きながら。千早は意識を手放していた。
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