夜だしね?

 翌日の午前1時ぴったり、俺は昨日座ったベンチに腰かけていた。実は5分前には既に到着していて、その時から若干緊張気味ではあった。今でもスマホをちらちら見ては夜の住宅街を1人キョロキョロ見渡す不審者になっている。

 正直昨日のランニングのせいで太ももとふくらはぎがかなり痛んでいる。何もしなくても少し痛いし、動くたびにビシっとした痛みに襲われその度に顔を歪ませている。

 そんななかではあるが、今日この場に来ないという選択肢は無かった。水上さんを1人待たせるのも悪いと思っていたというのもあるが、自分自身久々に家族以外の人間と交流を持てたというのが嬉しくて仕方ないのだ。

 大学には一応付き合いの友達というものはいるものの、夏休みに遊ぶほどの関係ではない。お互い課題を見せあうような大学生活を円滑に進めるための打算的な関係。


「お、来てるじゃん上原さん」

 1時になってから数分過ぎた時水上さんは現れた。昨日と同じランニングウェアで金髪ポニーテール。


「筋肉痛が凄いけどね」

「だろうねぇ。凄いよ上原さん。わたし絶対こないって思ってたもん」

「そうなの?俺は絶対行こうって思ってたけど」

「なんで?もしかしてわたしに会えるから?やーらしー」


 水上さんは口元に指先を当てて、ニヤける。

 いや実際それもあるけど!図星だけど!


「ち、違うって!そのー、あれだよ。あれ、やっぱりすぐに辞めるといつまで経っても習慣にならないでしょ?こういうのは続けることに意味があるんだよ」

「なんか浮気した男が言い訳するような口ぶりだけど、まぁいっか。せっかく来てもらったんだし走ろうよ」

「それはそうなんだけどさ、さっきも言ったけど筋肉痛が酷くて……」

「あーそっか。じゃあ今日はジョギング程度にしとく?」

「そうしてくれるのはありがたいんだけど、ちょっと申し訳ないな。ほら水上さんは走れるわけだし」

「良いの良いの。わたしは身体が動かせれば何でもいいから」

「そうなの?じゃあお言葉に甘えようかな」

「じゃあ準備運動だね」


 そういうと水上さんは早速屈伸を始める。準備運動とかすっかり忘れていた。そう考えると筋肉痛程度で済んで良かったのかもしれない。肉離れとかになっていた可能性もあり得た。

 俺も水上さんに合わせて屈伸運動をしてみるが、正直裂けるかと思った。痛すぎる。やばい。


「……やめとく?」

「え?」

「いやだって、屈伸するたびにうぐっとかあっとかゲームでダメージを受けた時みたいな声出してるし」

「いけるいける。ほら」


 俺は勢いよくひざを曲げた。うん。シャレにならない痛さ。無理。


「うがっ」

「あははっ。それ斬られてる人の声じゃん。雑魚キャラが死んだときの声だってそれ」

「もう……大丈夫……走ろう……」

「そう?無理だけはしちゃだめだよ?約束してね」


 俺が分かったと言うと早速一緒にジョギングをする。走る速度が昨日より落ちていて、すぐ息が切れることはないだろうが、いかんせん太ももとふくらはぎが痛む。

 

「これってどこまで走るつもりなの?」

「えーっと、木崎病院の近くにあるファミモを折り返し地点にしてここまで帰ってくる感じだよ。わたしがいつも走ってるルート。5キロくらい?」

「結構あるね……まぁこのスピードならなんとか」

「それより足は?大丈夫?」

「痛むけど、このくらいなら」

「そう。良かった」


 俺と水上さんはその会話をしてからしばらく無言で走り続ける。昨日と同じくらいの暑さで走っているうちに背中が徐々に汗で湿ってくる。

 時間は深夜で、住宅とコンビニしかない田舎ということもあって、この時間に外で活動しているのは俺と水上さんだけ。

 俺はふと視線を右にいる水上さんに移すと、その表情は真剣そのもので額からは一筋の汗が垂れていた。

 

「転んでも知らないよ?」


 水上さんは変わらず正面を向き続けながら口だけを動かす。俺はごめんと一言入れるとまたしばらく無言で走り続ける。

 少しすると街路灯以外の眩い光源が眼に入ってきた。ここが折り返し地点のコンビニ。あと半分か。

 2キロ走っただけでも首筋から汗がだらだらと垂れてきて、息も若干きつくなってきた。


「ここで半分だよね?」

「そう。もうちょっと」

「そういえばさ、水上さんはどうして走ってるの?」

「嫌なことを忘れられるから」


 俺は特に変哲もない質問をしたつもりではあったが、その返答は妙に冷えていて、これ以上聞くなと言われているようだった。俺自身もこれ以上はそう簡単に踏み込んではいけない部分だと直感的に感じる。


「ご、ごめんね暗いこと言って」


 水上さんはひたすら見続けていた正面から視線を俺にやって作ったような笑顔を見せる。その笑顔を見て俺はなんとなく、俺が思っていたような人ではないんだろうなと思う。


「良いんじゃない?夜だし」

「そ、そっか。夜だしね?」

「あ、そうそう昨日久々にあんなに寝たよ。寝付きも今までにないくらい良かったしそこだけは走って良かったなーって思った」

「わかるー。ランニングした後って凄くよく眠れるよねー。ってわたしに会えたのは良くないことだったのー?」

「なんて意地悪な質問だ」

「答えてよー上原さーん」


 ……調子に乗りすぎた。折り返し地点から会話が思ったよりも弾んだからずっと喋っていたら息が結構苦しくなってきた。


「ちょっと、だいぶ辛そうだけど大丈夫?」

「はぁ、はぁ」

「もー。そんな喋ってるからー」

「はぁ、はぁ。水上さんもっ、喋ってた、じゃんっ」

「わたしは良いんですー。普段動いてるからこれくらいじゃ息切れしませんー」


 水上さんは額から汗を少し流してはいるものの、余裕綽綽といった様子。綺麗なフォームをずっと維持したままで、本当にずっと運動をしてきたという事実が垣間見える。

 太ももとふくらはぎの痛みも走り始めたときよりもだいぶ痛みが増してきて、踏み出すたびにズキズキする。それにつられて走る速度もさらに少しずつ落ちてくる。

 水上さんが呆れた顔を浮かべているのが横目で分かる。「もー仕方ない人」と小さな声で呟いた後、急に距離を縮めてきた。耳元に吐息が聞こえてくるほどの距離。今まで感じなかったすっきりとした桃のような香りが鼻腔を撫でる。そして水上さんは小さくけれど鮮明に囁く。


「がんばって」

「あと少し」


 蕩けてしまいそうなほどの優しい高音と、全身に力が強く入る励ましの言葉は俺の心に深く刻まれる。

 それらの形のない栄養が俺のなかに浸透していくと、自然と足取りが軽くなって疎かになっていた両腕も生き返ったように動き出す。


「じゃ、あと少しだから……頑張ってね」


 水上さんはそう言い残すと少しずつ加速していって、後ろ姿しか見えなくなってしまう。そのときに街路灯に照らされた横顔はほんのりと紅く染まっていた。

 

「お疲れ様ー」

「お、おづかれ」

「ははっ。昨日と同じじゃん」


 1人になってから5分程度走っているとようやく公園についた。昨日と同じく水上さんは自販機の前に立っていて、すっかり息も整っている様子。


「大丈夫だった?足は」

「いやぁ大丈夫とは言い難いかも」

「ちょっとちょっと、じゃあ先に座っててよ。わたし飲み物買ってくるから」

「あ、待って」


 俺はポケットの中に忍ばせておいてあったプラスチックのポチ袋を水上さんに差し出す。


「これは?」

「昨日と今日の分の飲み物代」

「1000円も?」

「小銭が無かったんだよ。それで水上さんの分も買ってね。昨日のお礼だから」

「えー気にしなくてもいいって言ったのに。ま、そこまでしてくれるならお言葉に甘えて。それじゃあ座っててよ。スポドリで良いよね?」

「うん。頼んだ」

「頼まれた」


 俺は昨日のベンチに座って足を伸ばしながら一息ついていると早々に水上さんはやってきた。


「はいスポドリ」

「ありがとう」

「はいこれも」


 そう言って水上さんはお釣りが入ったポチ袋を俺に渡そうとする。だが俺は受け取ったスポドリを右手で飲みながら左手で要らない要らないとジェスチャーをする。


「っはー。それは今日のお礼と言うことで」

「お礼?」

「そう。『がんばって』って言ってくれたじゃん。あれめっちゃ効いたよ。女の子の応援は凄まじい力を持っているっていうのは本当なんだな」

「や、やめてよあれ結構はずかしかったんだから」


 俺の左に座った水上さんはうわずった声を出しながらスポドリを開ける。ポニーテールを揺らしながらぷいっと視線を左にそらしてスポドリを飲んでいる。


「っていうかさ。昨日も思ってたんだけど、親とかは何にも言わないの?あ、言いたくなかったら言わなくても良いよ」

「別に家庭環境が悪い訳じゃないよ。最初は心配されたけど、かれこれ半年くらい続けてるから最近は何も」

「意外と寛容というかなんというか」

「ある程度は好きにしていいよって感じの親なの」

「良い親御さんだこと」

「小さい頃はそんな感じでもなかったんだけどねー」

「へぇ。って半年って言ったよね?学校がある日も毎日走ってるの?こんな時間に」


 俺がそう言うと水上さんは「あー」と言って少し困ったような表情を浮かべる。まずい、これあんまり触れてほしくない部分だった。そりゃそうだ、つい昨日まで見ず知らずの人間が自分のパーソナルな部分にぐいぐい来られても困るはずだ。

 自分のコミュニケーション能力の乏しさが嫌になる。


「そうだなぁ。隠してるわけでもないし言っちゃっても良いんだけど……また明日にでも話すよ」

「別に話さなくてもいいよ。言いたくないことなんて人間たくさんあるだろうし」

「んーん。わたしもね、このこと人に話したことって一度もないの。でもさ、一回くらい話してみても良いかなって思ったの。良かったか悪かったかは話してみないと分からないけどさ、良かったらそれはそれで良いし、悪かったらそれっきり会わなければいいだけ。学校とか職場とかじゃないんだしさ」

「ラフで良いね」

「そう。ラフで良いんだよね。昨日まで顔すら知らなかった赤の他人だったんだからさ、人間関係なんて傷ついて傷つけての連続でしょ?」

「凄く良いことを言ってると思うんだけど、金髪JKだから色々ギャップが凄い」

「なんじゃそりゃ。じゃあ黒髪に戻そうかなぁ……なんてね」

「似合ってるからそのままで良いよ」


 そう本音のままを伝えると水上さんはまたぷいっと視線を見上げていた夜空から左へと移してしまう。

 最初はクラスの中心で生きているような人だと思っていた。見ず知らずの人間に話しかけて、飲み物を奢るくらいなのだから俺とは正反対の性格で苦手なタイプかもなんて考えたくらい。

 でも今になってみると、気遣いがよく出来て、少し達観した感性を持っていると思ったら褒められ慣れてなくてすぐに照れる。それが分かりやすくて可愛らしい。

 そんな水上さんを俺はもっと知りたいと思い始めた。

 

「それじゃわたしそろそろ帰るよ。やることもあるしね」

「そっか。じゃあまた明日も今日と同じ時間に待ち合わせで良い?」

「りょーかい。ちゃんと休むんだよー?」

「水上さんも。帰り道気を付けてね」

「ふふ、ありがと。じゃあね。おやすみ」


 公園から出ていく水上さんを見送るとやはりこれは夢なんじゃないかと思う。あんな魅力的な女の子と出会える機会に恵まれるなんて。明日はどんなことが知れるんだろう、どんなことを話そうかと考える。

 俺もそろそろ帰ろうと飲みかけのスポドリを持って立ち上がると、しばらく忘れていたふくらはぎの痛みに襲われる。その痛みを感じたことが今に限っては嬉しかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る