第14話

 世界が遠ざかっていく。

 さっきまで両脚で立っていたはずの学舎は、あっと言う間に小指の爪くらい小さくなっていた。眼下に見える景色全てが玩具で作られたレプリカのようだ。その光景は飛行機から見るそれと大差なく、特別珍しいとは感じない。

 唯一違うことをあげるとするならば、だ。

 肌を刺すまだ冬の残り香を感じる冷気が、ここが現実であることを再認識させてくる。

 そのたった一つの要因ファクターにより、俺は飛行機のように優雅な空の旅を楽しむどころか、か細い傘に腰掛ける彼女の腰にしがみ付いたまま微動だにすることができなかった。


「初めて空を飛んだ気分はどうかしら?」


 そんな心情に陥っているとは露知らず、呑気な調子でミーアは呟いた。

 こうなったのも元を正せば自身の無警戒過ぎる発想が原因だ。

 乗れと促されて跨ったが最後、彼女の持つ日傘はグングン上昇をしていき、気が付けばこの有様。

 自らの魔力で難なく事を成している天才の彼女からすれば、空を飛ぶという行為も道を歩くことも一つの移動手段とぐらいにしか捉えていないらしい。

 が、凡人代表である俺は全く違う。


「おい、ゲロを吐く時はどうしたらいいんだ……?ミーアの服がエチケット袋だと思っていいのか?ねぇ?」


 鋭い衝撃が顔面を直撃。ミーアからの肘打ちを貰う。


「エチケットが必要なのは貴方の発言にでしょ?なに?折角このわたくしが人生で初めて人を乗せて空を飛んだというのに、まさか怖いなんてデリカシーの無いこと言うんじゃないでしょうね?」


「言うに決まってんだろ?!命綱無しでこんな棒切れのような傘一本で何百メートル上空を飛んでると思ってんだ?人のことを鳥頭みたいに言うのは別に構わないけど、カラスか何かに見えたっていうなら知り合いの医者を紹介してやる」


 ミーアのきゅっと括れた腰部分を万力のようにガッチリ掴んだまま、背中部分に顔を埋めた状態で情けなく喚き散らす。

 垂れ下がる銀灰の髪がシルクのような心地よい肌触りと、脳が蕩けそうになるような甘い甘いバニラの香水に奇妙なな多幸感を覚えつつ、この天国と地獄の狭間を往復させられている感触に平常心がどんどんと擦り減らされていく。


「医者は要らないわ。専属医が何人かいるから事足りているわ」


「そういうことが言いたいんじゃないんだよ!!」


 誰も彼もが空を飛べるわけじゃない。

 いや、寧ろ全体比率で言えばごく一握り、日本でも数百人程度しか存在しないのだ。

 もちろん、その飛ぶという行為にも様々種類があるため一概には言い切れないが、基本は魔力という燃料を何かしらの動力に変換しながら行うものだ。だが人類が体内に溜め込める燃料まりょく量を鑑み見れば良くて数十秒、悪ければ浮くことすらできない。

 そして切れた魔力は再び空気中の滞空魔力から吸収するか、何か別の手段で回復する他ないのだ。

 要は酸素と同じ。水中で息を止められる時間は普通と分類される凡人ならば数秒から数分。訓練された者で数十分。それを凌駕する数時間以上の天賦の才の持ち主。

 ミーアは言わずもがな勿論天賦の才の持ち主で、いくら魔力を使っていても尽きることがないと本人は豪語しており、垂れ流すように魔力を風のような運動エネルギーに変換しつつ半永続的に空を飛び続けていられるらしい。

 つまりだ。この世に第五次産業『魔学』という技術があったとしても、未だに漫画やアニメのように箒を使って飛び回る連中は少ないし、航空事故と呼ばれる飛空者同士の衝突事故も年に一件か二件ある程度で収まっている。

 そして俺のように空を飛ぶなどと無縁の人種からすれば、今の状態がどれほど恐ろしいかは検討が付くだろう。高所恐怖症とかは関係なく。

 だからもう一度言おう、彼女は天才だ。俺達常人の苦悩など分からないほどのな。


「ちょっと、あんまり強く抱きしめないで。あと、錯乱した振りして胸とか触ったらタダじゃ置かないから」


「無茶言うな!今のお前は俺にとって命綱なんだから軽く握ることなんてできるか。あと気にするくらいならもっとエルみたいなたわわな物を持ってから言え」


 クロノス学院の制服は腰部を抑えるコルセットスカートということもあって、胸部が強調されやすく各々もっているものの大きさも分かりやすい(伊嶋曰くうちの制服には胸が大きくなる『バフ』が掛かるとほざいていた)

 しかし、ミーアの場合はそんなバフが掛かっていても分からないほど小ぶりなものがある程度。仮にエルレリーチェのような豊満なものを『山』と定義するならば、彼女のそれは『丘』にも満たない校庭の砂山だ。正直、下着も付けているのかすら疑っているくらいだ。

 そう考えたら思わず失笑を零しそうになった俺の顔面に、今度はグーパンがめり込む。


ったぁ!?なにすんだよこの馬鹿!」


「それはこっちのセリフよ!わたくしが一番気にしていることをずけずけと……っ、今ここで惨死なさい!!」


「バ、バカ!押すな!落ちる、落ちるって!」


 ポカポカポカ。

 傘の上にも関わらずミーアは力無い拳で何度も何度も俺の頭を叩いてくる。

 端から見ればじゃれ合っているようにも視えなくはないが、それにしてもなんなんだこの茶番は。

 俺はある目的があってこの学院に来たというのに……これじゃあまるで本当にただの高校生そのものじゃないか。


「それで、どうしてこんなところにまで俺を連れてきたんだ?」


 しばらく空の旅を続けた後、無言だった空気に耐えきれず俺から口を開く。

 理由が無ければ学年一の優等生がサボるなんてするはずない、そう踏んでの問いかけだった。


「別に、午後の授業が面倒そうだったからこうやってサボっているだけよ」


 訂正。想像していたよりもミーアこいつは不真面目な生徒なのかもしれない。


「なーにその眼は。もしかしてわたくしが優等生だから理由が無いと授業をサボらないとでも思ったのかしら?」


「そうだよ。さっきまで散々人には真面目に授業受けろなんて言ってたくせに……」


 苦言を漏らす俺へ彼女は呆れたように溜息をついた。


「それは午前の科目が座学だったからよ。編入生である貴方はただでさえこの学院の常識が抜けているのだから必要でしょ。だけど午後の授業はそれらを用いた訓練や決闘。要は実戦的なカリキュラムが組まれているの。ね?今の貴方には必要ないでしょ?」


「ね?って、全然説明になっていないんだけど……」


「なに、まだ白を切るつもり?それともわたくしの口から直接言わせたかしら?全くホントはしたない駄犬ね」


 まぁいいわ。不機嫌な調子を崩さずミーアはそう吐き捨てた。


「二回もわたくしから逃げたのよ?それだけで十分、貴方が実践的実力を兼ね備えた人物だと証明できるでしょ?」


「だからたまたまだよ。偶然が色々と重なっただけだ」


「じゃあなんで貴方が今年の編入試験をパスしているのかしら?」


 その何気ない問い掛けに、背筋へ一瞬嫌な汗が流れる。


「さぁな、どんな不真面目な生徒だろうと採点するのは教師だからな。たまたまお眼鏡に叶ったんだろ」


「ふーん……?」


「なんだよ……」


 ニヤニヤと鼻に付く笑みをミーアは浮かべていた。

 まるでこちらの心の内を見透かしているような。


「いいことを教えてあげる。実はわたくしも受けたのよ。貴方と全く内容が一緒の試験を」


「一緒……だと?」


 貫いていたポーカーフェイスが崩れてミーアは嗤った。

 試験内容は対策防止の名目上、公開されていない。

 しかし彼女も今や俺と同じ編入生ベンダー。この学院内で教授を除き、彼女だけがその試験内容ひみつを知っている。


「学院長が言ったのよ。編入したければ『イチル君と同じ試験を受けなさい』ってあらどうしたの?随分と顔色が悪くなったようだけど」


「……」


「流石は世間でも最難関と言われるクロノス学院の編入試験ね。まさか試験内容が『教師三人との』だったとは。このわたくしの実力を以てしても少々苦戦したわよ。でも不思議ね。学年一の実力を持つらしいわたくしでも何とかクリアできた試験を、どうして自称凡人の貴方が無事にパスすることができたのかしら?」


「……何度も言うけど、たまたまだよ。お前と違って運がよかっただけだ」


「運も実力のうち、という日本のことわざがあるのを知らなくて?例えもしそうだったとしても貴方には『国内最難関試験』を突破できるだけの────」


「もうしてくれ。俺はミーアが思っているような人間じゃない」


 突き放すようにミーアの言葉を遮る。

 色々な制約や条件が重なり合っている今の俺では、彼女の望むような返答をすることはできない。それは何より自分のためになんかじゃない。これ以上、ミーアのようなの子を巻き込まないための俺なりの思いやりだった。

 しかし、そんなことがミーアに伝わるはずもなく、彼女は酷く幻滅したように盛大な溜息を吐いた。


「判った。貴方がそこまで言うのなら、わたくしもこうするわ────」


 ガスンッ!


「え」


 巨大な大槌で身体の側面をぶっ叩かれたような衝撃が走る。


 ミーアがそう告げている頃には既に、彼女の緋色の瞳が

 有ろうこと、ミーアは俺の身体を蹴り飛ばしたのだ。

 上空数百メートルを飛行する日傘から。


「はぁっ?!」


 気流に揉まれながら伸ばした指先の隙間を空虚な悲鳴が掠めていく。


「これでハッキリするわ。貴方が本当に実力がないのか、それとも……」


 昼間の陽光を背にしたミーアは独り言ち、奈落へと堕ちていく嘘吐きの様子を見据えていた。九十九パーセントの憂いと、たった一パーセントの懸念とともに。

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