第15話

「クソッ……!!」


 全身を圧しつける春季の気流と地球の重力。

 上下左右の景色がグルグルと周り続けている。

 俺は落ちながら錐揉みする身体を必死に調整するが、この制服は元々飛ぶことを想定して設計がなされていない。だから空気抵抗が疎らで姿勢制御すらままならないのだ。

 さっき東京タワーが飛行していた時に同じ目線で視認できたから、約300メートルの高さからの落下として、仮に空気抵抗それらを無視した状態で重力加速度が約9.8m/2sセコンド程度だから。


(落下まで約7.8秒)


 何とか仰向けの水平姿勢にまで持ってくることができたが、7.8の半分近くを姿勢制御で使ってしまっていた。

 眼下には刻々と地上の景色、奇しくも最初のスタート地点である学院の屋上付近が近づいてきている。時速70キロ近い速度の身体がそのまま突っ込もうものなら、汚物をぶちまけながらミンチになること必定である。


「やるしかないか……ッ」


 さっきまでミニチュアのように小さかった学院せかいが、みるみると大きく迫りくる様子に、現実リアルな死の臭いを感じる。

 コイツはもう実力を云々うんぬんの話しじゃない。生きるか死ぬかの瀬戸際だ。

『ナノストランド』を建物に引っ掛けて落下の勢いを殺すか?いやそれじゃあこの時速七十キロの速度を建物約12メートル間で抑えきることは難しい上に腕が捥げるだろうな。

 あとはすぐ近くに満水状態のプールはあるけど、確か五十メートル前後でコンクリと同じ硬さなんだっけ?意味無いじゃん。

 じゃあやっぱコイツか……

 両手を腰部へ忍ばせると使い慣れた硬い感触がそれぞれ指先に伝わってくる。

 ゴツゴツとイボ型の表皮を纏ったパイナップル型。頭部についている葉っぱではなく安全ピンを片手で器用に引き抜き、直下へ放り投げる。

 同時に右手で握ったものを腰から引き抜いた。

『グロック19C』全長174mm、重量595g、装弾数15発のオーストリア製9mm自動傑作拳銃。

 プラスチック製ポリマーフレームの外観が真昼の陽光で黒く輝き、滑り止めチェッカリングの施されたグリップは俺にとってスマートフォンなどよりも遥かに肌に馴染む。

 全身に押し付ける強風の中、根気だけで眼を開き狙い定める。

 バンッと一発。乾いた銃声が響き渡った。

 そのたった一発で感じた絶対的確信と共に身体を仰向けにして剥き出しの頭部を庇うように丸くなると、鼓膜をつんざく爆発とその爆風が同時に押し寄せてくる。

 さっき投げた『手榴弾』が銃弾によって爆発させ、時として車すら吹き飛ばすその爆風とで落下速度を相殺する。

 クロノス学院の制服を着ていたことが幸いしたよ。

 この制服は元々飛ぶことを想定して設計はなされていないが、その代わりにケプラー糸に魔学的技術を施したな『魔糸』などを用いて爆風や魔術などの外的衝撃を抑えるよう作成されている。

 おかげで速度70キロ近くで落下してたはずの身体は浮力を纏い、体操選手のように安定した着地を屋上に決めようとしていた。


「う、嘘……っ?!」


 遥か頭上から人を奈落に突き落としては高みの見物を決め込んでいたミーアが本気で驚いたように眦を開いている。

 いい気味だぜ。なにもかも自身の思い通りと考えている連中が驚く様ってやつは何度見ても滑稽だ。

 あとはこのまま優雅に着地して……。

 そう思っていた矢先、身体の側面に何かが激突した。


「ぐへッ」


 バタバタと羽音を羽ばたかせて飛来したのは鴉の群れだった。

 どうやら爆破の衝撃に驚いて一斉に飛び立っていったらしく、その一部が俺に気づかずぶつかったらしい。おかげで落下の軌道は屋上から逸れてしまい、おまけにクルクルと錐揉みしたまま学舎側面へと堕ちていく。

 グルグル回る視界に三半規管が余計な情報を逐一報告してくるのが鬱陶しい。それら電子信号の脳みそ全体がシェイクされているような嘔気と頭痛を頭を振って誤魔化し、一瞬見えたそれに向かって左手を伸ばした。

 袖口から飛び出した黒糸、通称『黒糸ナノストランド』。ダイヤモンドよりも硬い素材ウルツァイト窒化ホウ素を魔学の技術で極小に束ねられたもので、その細さは人の視力を以てしてもギリギリ見える程度のものだ。その先端を屋上の鉄柵に引っ掛けて宙吊り状態に持ち込もうとする。

 ガツンッと大きな衝撃、その後に来るミチミチと筋肉を引っ張る感覚。

 ふう、なんとか落ちずに済んだらしいな。

 三階の窓ガラスには安堵する自分の姿と、その向こうでは五限目の授業を受けている学院生達の姿が映っている。皆が真剣な様子で教鞭を執る講師の方を向いているため、誰としてこちらに気づくことは無い。

 気付かれても面倒だ、今の内に……。

 そんな安堵の溜息を漏らそうとしたその時、不意にガクンッと身体が真下へ引きずられる。

 咄嗟に下を見たが何もない。いや違う。これは……ッ!


「いやー、参ったなぁ……」


 頭上を見た時には苦笑いを浮かべるしかなかった。

 先の手榴弾の衝撃のせいだろう、屋上の鉄柵を支えていた支柱が悲痛な金属音の叫びを上げ、最後は引っ掛けていた黒糸ナノストランドごと屋上の外へと堕ちていく。

 どれだけ才能の無い者が人智を尽くしても、青空を飛ぶことは叶わない。

 だがあの少女は今尚その圧倒的な魔力を以てして青空に君臨し続けている。

 これだから魔学というやつは嫌いなんだ。

 俺がこの先どれだけ努力しようとも、『0』に何を掛けても『0』の数式と同じように、絶対不変的事実を前に乾いた笑いが込み上げてくる。

 抗う術を失った俺はゆっくりと地上へと堕ちていく。

 全身に叩きつけらたのはコンクリートの硬い感触ではなく、生温い水の感触だった。

 どうやら近場にあったプールに落ちたらしい。

 落下の衝撃に薄れゆく意識の中、水面の先に見えていた魔女は、いつの間にか姿を消していた。

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