第7話

 窓から差し込んでいた夕陽も、すっかり街頭の地平線へと堕ちようとしている。

 灯りも無い影へ沈み込むように佇んでいた俺の位置からだと、まだ暁の恩恵に染まっているミーアの表情は目視えなかった。

 それから幾分かの間をおき、ミーアは意を決したことを悟られないように、ゆっくりと振り返る。


「だからお願い、一年、一年だけわたくしのためにアナタの時間を貸して欲しいの……もうこんなこと頼めるのは貴方しかいないから」


 パサリ、と小さく髪擦れの音がした。

 どうやらあれほど強情だった少女が頭を下げたようだ。背中越しなので見えないけど。

 でも振り返ってしまったらきっと、彼女の姿勢に俺は思わず頷いてしまうだろう。

 理論や理屈じゃない、出会った時から感じていた言葉にできない何かが、理性的部分に干渉して判断を鈍らせる。そんな自分が自分ではなくなってしまうような恐怖が、振り向くことを許さなかった。


「断る。それにあれはたまたま。星の巡りがだけだ」


 惹かれた思いを断絶するよう素っ気なく返し、講義室を出ようと試みる。

 だが、ミーアが俺のことを縛るように強く睨み付ける気配が背部へと突き刺さった。


「ダメよ、今度は逃がさない」


 パチンッと鳴らした指先の合図に張り巡らされていた魔術が作動する。

 赤焼けに染まっていた講義室から光源が奪われていき、闇夜と酷似した漆黒が全てを塗り潰す。部屋の境界が失われ、そこから更に無数の『手』が生え出してくる。


「『影絵シャドーエフェクト』。影を実体化させるわたくしの魔術。今朝のような陽差しのもとならいざ知らず、ここは夜へと移り変わる黄昏時。万に一つとして貴方に勝機は無いわ」


 あっと言う間に周囲一帯を、そのうじゃうじゃと蠢くその姿は刺胞動物ような『手』で埋め尽くしていく。まるで地獄へと引きずり込もうとうする死者の双手のようだ。

 幻想と違和感の隣合わせ。こんな光景、生半な気概の者ならば恐怖と戦慄に押し潰されて居ただろう。


「お前正気か!?俺なんかに使う魔術じゃないだろこれ?!」


「いいえ、そうやって取り繕っても、もう油断しないわ。駄犬の首にとっておきの首輪をつけてあげるから覚悟なさい」


 闇の中で唯一煌めく銀灰の髪が、振り払った手に連動して弧を描いた。

 それを合図に、四方八方、眼では捉えきれない数の魔の手が飛び掛かろうと構える。


「待て待て降参だ降参。こんなのに勝てるわけがないだろ」


 学院トップクラスの魔術師相手に正面きって勝てるはずもなく、慌てて自らの負けを認めるように両手を上げて見せた。


「無駄よ。そうやって注意を引いては今朝みたいに何かする気でしょ?もうその手は乗らないわよ。さぁ、ここで惨死なさい」


「殺したら頼み事ができないんじゃないですかー?」


「この程度で死ぬくらいなら必要ないわ」


「貴方はいつの時代の暴君ですか?」


 半笑いにそう告げてみたものの、ダメだ。緋色の瞳は瞳孔ガン開きでこちら睨め付けている。

 これじゃあ説得はおろか、命乞いすらも役にも立たない。

 それに、今朝と違ってミーアともそこそこ距離がある。こっちが『一』行動すれば『百』返されるような状況だ。

 懐にあるを構える時間も無い。

 いや、これは早さは問題じゃない。

 彼女の周囲には守りを兼ねている『手』も幾つか控えていることは半眼に確認している。

 つまりどんな一撃を以てしても弾かれて終わり。ハンバーグみたいにミンチにされるか、それとも市中引き回しの後に八つ裂きにされるか。

 どちらにせよ痛いのはごめんだ。

 あと、そろそろ講義室を出ないと、予定の電車も逃してしまいそうだ


「さぁ、あなたの本当の実力みせてみなさい!」


 ミーアが右手を大上段に振りかぶった隙に、俺は降伏のため掲げていた右手の指を鳴らした。


「……何をしたの?」


「さぁ?何をしたと思う?」


 彼女の位置から俺の表情は視えない。


 この駄犬はわたくしと同じ動作をした。おそらく何か魔術の仕掛けを発動したのだろう。

 でも周囲に変化はない。それにこの状況を打破できるような手立てがそう易々と発動できるとも思えない。じゃあどうしてあそこまで余裕を保っていられるのかしら─────とでも考えていることは、ミーアおまえが動きを止めた時点で判っているさ。

 さぁ悩め悩め。誰しも見えない手札や手配には恐怖するものだ。たとえそれがワンペアやノミ手のような最弱だったとしてもな。

 そして募らせた不安が一番効果を発揮するのは意識し始めてから約三秒。


「ところで良かったのか?この俺を丸腰にさせといて」


「何が言いたいのかしら?」


「あれ、もしかして気づいていないのか?」


 ミーアは背後から何度も舐め回すように視線を走らせる。

 特におかしいところは無かった。

 両手を上げている制服姿の男という情報以外、新しいことは何一つとして起きていない。

 いや、ちょっと待って。この男、確か学院から帰宅しようとしていたにも関わらずバッグを持っていない。記憶を辿ると確か自席に置いたまま奴は帰ろうとしていた。

 なぜそんな不可解なことをしたのだろうか。

 わざわざ身支度していたバッグを、わたくしの背後の位置に置いたまま────


「まさか……!」


「気づいてたところでもう遅いぜ!俺様の取っておきをくらいなぁ!」


 仕掛けておいたバッグから身を護るよう、ミーアは周囲の影を撚り集めてドーム型の防壁を形成。攻防一体の影で護りを固めた少女は、来たる衝撃に備えてキュッと両眼を瞑る。

 それと同時に、バッグの中からけたたましい鈴の音が鳴り響いた。


「……え」


 マシンガンでも撃ち崩すことのできない鉄壁の護りの中、少女は一人眼を丸くする。

 この音は、朝が弱い彼女がよく知っているスマホのアラーム音だ。でもだからこそ、平和過ぎるそのアラーム音に、彼女は唖然として現実を直視することが出来なかった。

 五秒ほど経って影を解除すると講義室には、アラーム音と少女を除いて他に誰の姿も消え失せていた。


「……噓吐うそつき」


 溜息に添えた一言が誰もいない講義室にポツリと響いた。


わたくしが膝を折るほどの殺気をぶつけておきながら、今更一般人気取りのつもり?」


 不満を吐露しながら見下ろした講義室の外には、落陽に駆ける一人の背中が映っていた。

 拍子抜けた様に魔術を解除したあと、ミーアは緊張の糸をゆっくりと解くように適当な席に腰掛ける。背もたれ部分の柔らかなクッションに包まれた背中は、ぐっちょりと嫌な汗が滲んでいる。


「狛戌一縷。やはり侮れないわね」

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