第8話
夕暮れの残照も地平線へ消えた、生き物達の寝静まった宵の天球。
割れた窓ガラスから覗く蒼白の斜光は、街灯りの無い廃墟では少し眩し過ぎるくらいだ。
台場のコンテナ街に隣接しているこの廃墟も、元は小さな貿易会社の事務所だったようだが、倒産した後はこの通り夜逃げした
「ふー……ふー……ふー……」
その内の一つであるソファーの裏に隠れた男は、緊張と恐怖で早くなる鼓動を必死に抑え込もうとしていた。
周りの仲間達も同じように机やらロッカーを盾にして、唯一の出入り口である鉄扉を睨んでいる。
「い、一体なにがどうなっているんだ!?」
ヒステリック気味に騒いだのは、数か月前に組に入ったばかりの新米だ。
不良上がりのまだガキに等しいソイツのことを、すぐ近くにいた兄貴分が容赦なく撃ち殺した。
可哀そうに、とは誰も感じない。初めての修羅場が『クスリ』に頼っても恐怖するような地獄じゃあ運が無かった。そう思うしかなかった。
現に何度も血生臭い夜を超えてきた自分でさえ、心の中に住み着いた恐怖という悪魔を押さえつけることで精いっぱい。周りに待機している組員の面持ちだって似たり寄ったりだ。皆が
それに、あぁでもして黙らせておかないと、次の瞬間には俺達があの新人と同じく
連日として姿を現した奴の手によって。
「クソがクソがクソが……ッ」
ガスッ!ガスッ!
頭蓋にトンネルが開通した
先日、
無理もない、昨日逃げそびれて捕まった組員と。今ここに残る者達以外の数十人全てが、あの鉄扉の先で骸となりて血の海を泳いでいる。
鼻に付くこの錆び臭さは、そこらの古ぼけた家具のものではない。数分前まで当たり前のように話しをしていた仲間達の五臓六腑がぐちゃぐちゃに交じり合ったことでできたカクテルがここまで漂ってきているんだ。
カツ────カツ────
虫の声一つ響かない静寂の夜に忍び寄るたった一つの足音。
わるいおとなたちを処刑するために現れた
一つ、また一つと
皆が息を殺してじっくりと構える中、殲滅の号令を木挽の兄貴が受け持つ。
まだだ、まだ、まだ────
引き金に掛けられた指が意思に反して痙攣する。
泣き叫びたい気持ちを舌を噛んで我慢する。
今すぐにでも引いて楽になってしまいたい衝動を何とか抑えきり、最後の足音と鉄扉を掴む音が重なった瞬間、木挽の兄貴が粛清の左手を振り下ろした。
バリンッ!!
銃声の殴殺が奏でられるよりも先、皆が背にした窓ガラスの一つから何かが飛び込んできた。
五階建て廃墟の一角に飛び込んできたのは黒衣を纏った人間らしき物体。
「撃ち殺せ野郎どもッ!!」
本能の赴くまま、溜め込んだストレスを発散するかの如く銃弾の雨が降り注ぐ。
立ち尽くしたままの黒衣の人物はその全てを受け止め、呆気なくその場に崩れ落ちた。
「飛んで火に居る何とかだぜクソったれ」
新鮮な血だまりを作るその人物の黒衣を兄貴は剥ぎ取った。
そして同時に眼を丸くする。
姿を見せたのは他でもない、散々見知った仲間の一人だった。
四肢を縛られ、
まんまと引っかかった
「クソッタレがぁぁぁぁぁッ!!!!」
ズダンッ!!
鉄扉に叫んだ兄貴の脳天に一撃。
大の字に倒れたその先、ハンドガンの先端から硝煙を燻らせる一人の獣。
黒装束に映える白い獅子の仮面、狂暴な牙を剥きだしにした畏怖は、袋小路に集まった獲物にダラリと
奴が現れてからの展開は信じられないほどあっという間だった。
リボルバー式の拳銃ではなくチープな
噴水の如く上がる血柱が三つ、それを頭から浴びてはゆっくり音なく振り返る。
逃げ道を塞がれた俺達など、その一睨みさえあれば十分だと言わんばかりに。
その効果は
そうしているうちにまた一人、また一人と血の海の供物として捧げられていく。
半狂乱して突っ込んでいった者もいた。
両手で掴みかかった大男の顎に掌底、逆手で更に押し曲げ、心地よく鈍い音が響く頃には顎と頭の位置が天地真逆を指していた。
ようやく一人、弾込めの終わった組員が銃の引き金を引く。
当たらず。紅白柄に染まる仮面がぬるりと振り返る。
恐怖で腰の引けたウィーバースタンスで追撃。
ストレガドッグは重力を忘れさせるのらりくらりとしたステップで全弾難なく躱しきる。
息すら上がっていない怪物はハエでも殺すような気安さで心臓を貫いた。
僅か一分足らずで十二人の、数十年と時を重ねてきた一人一人の人生をたったの五秒ずつで刈り取ってしまった。
俺一人を除いて。
「……………」
銃声が鳴りだした時から息は止めている。
惨劇を直視しなかったとはいえ震えは止まらない。
この場の仲間は全員死んだ。
そして……ストレガドッグもまた、全員屠ったと思って油断しきっている。
ピチャリ、ピチャリ────
血の海を渡る両の脚が止まった瞬間を見計らい、俺はソファーから飛び出して銃を構えようとした。
「……………ッ」
しかし、そうすることはできなかった。
一方的な虐殺によって植え付けられた恐怖は、頭の悪い自分にもハッキリと理解できた。
コイツと真っ向から立ち向かっても敵わない。何か別の手立てを立てなければ、自分も周りの連中と同じ末路を辿るのは確定だろう。
『クスリ』でどれだけ高揚感を高めようとも、研ぎ澄まされた生物としての本能がそう囁ていた。
「……………」
幸いなことに、
淡々と事を為したそれは、まるで本物の幽霊ようにまだ終わらない夜の狭間へと消えていった。
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