第7話

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 ここで、円谷義実の話をしておく。よしみ、という読みではあるが、男である。彼はすでに、この物語にも登場はしている。今までは敢えて名前を伏せていたのだがそろそろ触れざるを得ない。


なぜなら彼――円谷義実は、何度か話題に挙がっている加地菜々子の元恋人だからである。


 今東京でドクターコースに在籍し、物理学を極めようとしているところではあったが、ひとことで言うと、彼は後悔していた。マスターコース修了後におとなしく就職しておけば良かった、という思いが日に日に大きくなっていたのである。

 彼は今、自分の才能に限界を感じつつあった。ただそれよりも、もし就職しておけば加地菜々子と会えなくなるような今の状況はなかったはずだ、という煩悶のほうが大きいのかもしれない。彼はそれほどまでに、加地菜々子を愛していた。


 なにを血迷って理学部のドクターコースなどという人生の墓場のような環境に飛びこんでしまったのか。この問いが彼の思考の大部分を占めており、世の中に残る物理学の謎を解くという彼が本来取り組むべき命題はすでに脇に追いやられていた。


 彼のなかでは加地菜々子との遠距離恋愛は続いていた。彼女からは数年前に、「別れたい」といったような旨の言葉を確かに受けている。

 受けてはいるのだが、それを乗り越えてこそ、真実の愛というものなのではないだろうか。円谷義実はしばらく悩んだあげく、そのような結論に至る。


 彼はその後も、加地菜々子に対してメールを出し続けている。彼のなかではまだ恋人なのだから当然である。返信が返ってこないことなどは、ささいな問題なのである。そのことすら、大恋愛を成就させるうえでのちょうど良いスパイスに過ぎない。彼はそう捉えることにしていた。


 数年ぶりに大阪で落ち合うことが決定したとき「ついにこの時がきた」と、彼は興奮を禁じえない。これから、新しい関係がはじまる――と、いっさいの疑問も不安もなく、純粋にそう確信するに至る。



 大阪で一夜を共にした加地菜々子と円谷義実は、その数ヶ月後に再会することになる。ここに、そのときの会話を記録しておきたい。

 念のため記載しておくと、このやりとりは東京の都心からは少し離れた地方の駅前にあるファーストフード店で行われた。彼らふたりの席の周りには、学生らしき客が数組いて、それぞれ小声で談笑している。また、ひとりで自習をしている学生もちらほらと確認できる。そんな環境である。



「久しぶりだね。菜々子」


「そう……かしらね」


「そうだよ。もうあれから、二ヶ月ぐらいは経っている? まあ、そのへんは遠距離恋愛の辛いところだね」


「なに言ってるの……」


「それはそうと、今日はどうしようか? この近くだとショッピングでもいいし、映画でもいいかも……あ、それとも、久しぶりに大学にでも行って――」


「どこにも行かない」


「あ、じゃあ、すぐに僕の家に行く?」


「……」


「どうしたの? この店でもう少しゆっくりするか――」


「妊娠したの」


「それとも……えっ!」


「……」


「ほんとに?」


「冗談では言わない……妊娠したの」


「お、おめでとう! ……ええと、それならまずは結婚式の準備をしないと……あ、違うか……すると、ええと、どうなるんだ、これは……」


「あなたの――子なの?」


「えっ?」


「単刀直入に聞くわ――あなたひょっとして身に覚えがあるの? あの夜――」


「どうして?」


「……どうしてって……なに言ってるの?」


「だってついに、誰にはばかることもなく一緒になれるってことじゃないか」


「……」



 このあと、加地菜々子は静かに席を立つ。


 呆気にとられる円谷義実は、彼女が店を出てすこし経過してから、慌ててあとを追うことになる。


 このときの彼は、加地菜々子との夢のような結婚生活を夢想し、その生活が現実のものとなることに寸分の疑いも持っていない。

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