第4話

  3


 すこし、時間を巻き戻すことにする。


 三又浩二が、はじめて〈N〉の構成員と名乗る少女と出会ったときのことだ。


 場所は〈タクティクス〉の関西支社からほど近いビルの地下にある小さな立ち飲みバーのカウンターだ。三又浩二がひとりで店に入り、ハイボールを注文したとき、見たところ十代にしか見えない少女が入ってきて隣の席についた。

 店にいるのはバーのマスターと三又浩二、その少女の三人。そして少女が注文したのがモヒートだったので、二十歳は過ぎているのかもしれない。そう値踏みする三又浩二の方にしっかりと顔を向けた少女が話し始めることになる。


 野生の壺のなかにはなんでも透明にする液体が入っている……そして、〈N〉の間ではそれが通説――これが、少女の第一声だった。


 通常なら気味の悪い話ではあるのだが、このときの三又浩二にはしっくりきたのだった。ついに来るべきものがきた、という感覚だ。

 ふと、はじめて野生の壺を見出した日の鉄道警察の男の顔が頭に浮かんだ。

 あの日はなにがなんだかわからずにただ恐怖していただけだったが、帰りにあの糸目の男が言ったことだけは今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

 すぐに〈N〉がくる。そして、野生の壺を狩るのだ――。

 彼はこういったのだ。そしてそれが現実のものとなった。それだけのことだ。


 なんでも透明にする液体――その影響で野生の壺は光沢のある緑色をしていながらも、半透明なのか。彼は少女に向かって、こう切り出していた。モヒートの細いグラスを傾け、少量だけ口に含んだ少女は、知らない、と答える。知らないけれど、なんでも透明にしてしまうのなら、それはそうなのかもしれないね、と続けた。


 野生の壺を実際に捕まえた人がいるわけではないので、中身の通説に関しては証拠があるわけではない。しかしそれも海外では常識になっているような話だというのだ。そんな常識ですら、日本国内では通じない。


 野生の壺を狩るの。少女はそう言った。


 そのために、まず今から質の良い野生の壺の見分け方を教えるから、よく聞いてね。少女が話を続ける。そして三又浩二は持ち前の理解力を存分に発揮して、少女の言葉をすべて咀嚼し、自分のものとし、行動に移ることになる。その時点で彼も、〈N〉の一員であった。


 ちなみに〈N〉に所属するためには正式書類の提出や試験があるわけではなく、野生の壺を認識していることが必要条件となり、さらに野生の壺を狩ることを目的にして生きていることが十分条件となる。

 必要十分条件を満たす者はすべて、〈N〉とみなされる。三又浩二の場合は〈タクティクス〉という総合商社に勤めていながらにして、〈N〉の構成員でもある。日本国内のあらゆる場所でこういったことは発生しており、隣の席の人間が実は〈N〉に所属しているということも十分にありえる。


 彼にとって不運だったのは、コンタクトしてきた〈N〉の構成員が少なくとも見た目が十代の少女であったことと、ふたりがバーで会話している姿を、たまたま外を通りかかった〈タクティクス〉の社員が目撃したことだった。


 そもそもここ最近ミスも多く仕事に身が入っていない、といったお叱りを受けることが増えていた三又浩二は、それでも気にすることはなかった。

 そもそもの目的が野生の壺を狩ることなのだから――そう考えるに至っていたのだ。ただ、〈N〉の構成員と会っていたところが噂になってしまったのは、彼にとっては痛手だった。それが〈N〉であることが問題なのではなく、年端もいかぬ少女であった――少なくとも周囲にはそう見えたことが問題なのである。


 三又浩二が援助交際をしている。


 社内の一部で、こういった噂がまことしやかに囁かれはじめたのである。最近仕事に身が入っていない原因もそこにある、という分析も伴うことで信ぴょう性が増す構図だ。

 実際に目撃したのは事務の女性社員ひとりだったのだが、これ幸いと積極的に噂を広めはじめたのが、今まで実績の上で彼の後塵を排していた、三又浩二からは先輩にあたる男性社員であった。そこにさらに、加地菜々子を狙っていた後輩の男性社員も加わることになる。

 ベクトルは違えど、彼らに共通するのは嫉妬という感情だった。援助交際が事実であるかどうかは彼らにとっては重要ではない。その噂を広めることによって三又浩二を失脚させることが目的なのだ。あわよくば関西支社を去り地方へ転属するようなことがあれば、それだけでなお愉快なのである。


 当の三又浩二が彼らの企みをどの程度理解していたのかは定かではない。いずれにしても会社内での立ち位置が悪くなるっているのは彼も感じており、それは歓迎すべきことではなかった。

 野生の壺探索にも支障が出てしまうため、以後、少女とやりとりする場合は面倒ではあるが〈タクティクス〉の支社からはかなり離れた場所を指定することとした。

 それは、絶対に見つからないような大阪と奈良の県境付近の駅前にある場末のスナックであったり、ときには地方の駅から歩いて半時間ほどかけてようやくたどり着くような路地裏のバーであったりした。

 さすがにやりすぎなのかとも一時期は考えていたが、それはそれで良い、という結論に至る。そういった地域へ行くと、大阪の市街地では見かけないような種類の野生の壺に遭遇するということに気づいたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る