第3話
日本の常識では〈N〉などという組織は存在しない。
だがその存在しない〈N〉が、コンタクトをとってきた。
ある平日の夜、夕食を近所の定食屋で済ませ、加地菜々子の部屋に二人で戻った矢先、三又浩二がこう訴えることになる。彼がはじめて野生の壺を認識してから、数週間が経ったころのことだ。
この時期にはもうすでに、加地菜々子は彼とまともなコミュニケーションをとることを諦めていた。
時間が解決するだろう――そう楽観的にとらえていたのであったが、元に戻るどころか日々異常性が増しているようなふしもある彼のことを本気で悩み始めていたのは事実であった。
会社内でも三又浩二に関する悪い評判が流れており、それが加地菜々子の耳にまで入るようになってきた。ここにきて彼女は本気でなんらかの対策の必要性を感じはじめることになる。
加地菜々子のもとに、学生時代の元恋人から連絡が入ったのは、三又浩二について新しい噂を耳にしたまさにその日のことであった。普段の彼女なら元恋人の電話になどは出ないという判断をするところなのだが、気づくと携帯電話を耳に当てていた。
三又浩二はこの日偶然、短期での海外出張に出ており日本国内にすらいないという状況だったのだ。そういった非日常な感覚も、加地菜々子がいつもとは違う判断をしてしまう一因になったと推察される。
いずれにしても、加地菜々子は元恋人とこの日一夜を共にした。
飲みすぎたせいだ、そしてそんなに彼女に飲ませたのはストレスを与える三又浩二にも責任がある――加地菜々子は自分のなかでではあるが、そういう言い訳をして納得することにする。
以前からずっと、会いたいというメッセージは受けとっていた。
元恋人からすると、そもそも別れ話自体が突然のことだった。それにもかかわらず、加地菜々子は別れを告げてから相手が納得するのを待たずに関西に帰ったのだ。それ以来、この日まで会っていなかった。
ただ、なにかがあってこの元恋人を根本的に嫌いになったわけでもない。また久しぶりに会うことでむしろ気持ちの昂ぶりがあったことは否めない。
加地菜々子が飲みすぎた背景には、そんな事情もあった。今日はとことん酔ってしまおう、と自分で決めていたふしもある。
なんらかの対策を、と思っていても実際動きだすとなるとどうしていいのかわからない。それが加地菜々子の実情だった。なにしろ、存在しない野生の壺の話なのである。おいそれと誰かに相談することもできず、また、公的な機関を頼ることもできない。そして時間だけが流れていくことになる。
三又浩二と加地菜々子のふたりが結婚の約束をしてから、ちょうど三ヶ月ほどが経過していた。野生の壺が割って入ってきてからはそういった話題にはならないが、結婚の約束は当然継続されているはず――加地菜々子はそう思っている。
一方、このころの三又浩二の頭には常に野生の壺が付きまとっており、結婚のことを完全に忘れることはないのだが、意識にあがることもない状態だ。
このあたりの意識的な差が、ひょんなところに現れることになる。夜の生活である。結婚しようと言語化し、お互いの合意が成立した後、彼らは避妊をしなくなった。それは三又浩二がそう希望し加地菜々子も受け入れたことなのであったが、この日の夜は、いつものようにことをはじめようとした際、なにも言わず三股浩二が避妊具に手を伸ばしたのだ。
あ、と一瞬だけ声が出た加地菜々子であったが、なにも言わずそのまま避妊具有りの性行為を受けいれた。ただこのことが彼女の脳裏には小さなしこりとして残ることになる。
それから一週間、三又浩二と加地菜々子が夜を共にすることはなかった。また一方で、三又浩二の会社内での悪い噂はそのあいだにも広まりつつあった。のっぴきならない状況になってきている。加地菜々子はそう肌で感じていた。
その後、またたく間に日々が過ぎていった。
あまりにもいろいろなことが起こりすぎたせいなのだろう。加地菜々子は、自分の体のある異変にここに来てようやく気づくことになる。もう二ヶ月程、生理がないのである。
なぜ今までこんな重要なことを意識していなかったのか、彼女自身でも不思議になるほど無頓着だった。そして思い返してみて、はたと気づく。
もし今妊娠していたとしてそれはいったいどちらの子供だろう、という疑問だ。
いま現時点で彼女のなかですぐには答えを見いだせない。可能性として高いのは三又浩二ではあるのだが、元恋人と一夜を共にしたあの日、避妊をしていたのかどうかも記憶が定かではない。
一晩だけの恋として行きずりの男性との性行為に及ぶこともあったが、そういったときは必ず自分で避妊具を確認していた。ただ今回は一応見知った間柄ということで、彼女のなかでもそのあたりはあいまいになっていたのである。
検査の結果、彼女の妊娠は確定した。冷静に日にちを思いだしてみても、三又浩二との行為と元恋人とのそれの間が短すぎて、いずれにせよ判別するのは不可能であった。
神のみぞ知る。そんな状況に陥った彼女は、三又浩二にはただ妊娠した事実だけを伝えた。そして結婚式の準備を急ピッチで進めるように促すことになる。
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