第2話

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 加地菜々子の話をしよう。今現在、彼女は三又浩二の恋人だ。ふたりはすでに結婚の約束をしているのだが、そこに至るまでには紆余曲折があった。二年前、付き合いはじめた頃には、彼女には他に恋人がいたのである。つまり二股だった。総合商社〈タクティクス〉には就職して数年が経った頃であったが、学生時代から付き合っている同級生の彼氏がいたのである。


 理学部に所属していたその彼氏は東京でマスターコースに進学。一方の加地菜々子は大阪の支社に配属されたため、遠距離恋愛を余儀なくされていた。

 最初の頃は毎週のように東京に帰っていた彼女も、それが二週に一度になり、月に一度になり……と、年月が経つにつれて彼氏に会いにいく回数も減っていった。

 学生の彼氏が旅費を捻出しにくい事情もあって、もっぱら彼女の方から会いに行っていたのだったが、そのことに関しても加地菜々子の気持ちのなかで、仕方がないとは思いつつもどこかしっくりきていない部分があったのだろう。


 彼氏から修了後も進学するという決断を聞いたとき、今まで感じていた小さな引っかかりが顕在化してくることになる。さらにそれは、彼女自身でも意識できるほどに大きな杭となって心の中心に突き刺さり、まるでゆっくりと暗黒の底へと引きずられていくような感覚に陥ったのだ。なぜ自分がこんなに尽くす必要があるのか? 


 二年間だから、と我慢していた部分があったのだが、さらに三年以上も今の状況が続くのか――。なまじ理知的だった彼女はそれらのことを思っていても口にはしなかった。そしてただただ心の奥底に堆積させることになる。そんなおり、関西地区でバリバリと業績をあげていた同じ部署の先輩社員である三又浩二と出会うことになる。



 野生の壺を見た。


 三又浩二にはじめてそう言われたときは、ただの冗談だと判断して一笑にふしていた加地菜々子も、真剣な表情でなんども同じことを繰り返す彼の異常性にすぐに気づくことになる。


 当然ながら彼女も、野生の壺という言葉は聞いたことがある。もっともらしく撮影された写真を収めた書籍があることも知っている。ただ大多数の日本人と同様、それは『ペガサス』や『ドラゴン』、もしくは『のっぺらぼう』や『ろくろっ首』といったワードと同じニュアンスの存在だった。ここに、野生の壺を現実のものとしてとらえ、あまつさえ魅入られてしまった三又浩二と認識の差が生じる。


 これがどれほどの悲劇をもたらすか、その会話の一部を記載することで示したい。



「野生の壺というのは、なんていうのか、緑色で角度によってはテカテカと光沢があって、それでいて半透明で」


「そんなこと言っているんじゃないの。そうじゃないのよ……まず、なんの話をしているのか、そこからゆっくりと説明して」


「だから、野生の壺のことだよ」


「……」


「野生の壺を見たんだよ」


「だから……なにを見て野生の壺だといっているのか、それよ。なにがそう見えたの? 緑で足元にいたんだってことなら、亀だったり……それこそ普通の壺だっていう可能性だってあるでしょう?」


「なにを言っているんだ。電車のなかに佇んでいたんだ。亀は当然だけど、人工の壺のわけがないじゃないか……」


「じゃあ、いったい、なにを見たっていうのよ!」


「だから、野生の壺だよ!」


「いやだから……なにが野生の壺に見えたっていうの!?」


「そうじゃなくて、野生の壺を見たんだよ!」



 日本国民同士でなければ、こういった議論にはならない。外国人は、野生の壺を、野生の鹿や野生の猫、と同じようにそれとして受けいれているからだ。世界的に見れば、野生の壺という存在を受けいれていない日本人の方がマイノリティだ。

 しかし、そのマイノリティであるという事実すらも、なぜか日本国民はなかったことにしている。見て見ぬふりをしているのではない。そういった認識が完全に欠落しているのである。それが日本という社会と文化を成り立たせている不文律にすらなっている。それがわかっている外国人は、とやかく追求することはない。ただ、それはあくまでも文化の違い、という位置づけで関わらないように蓋をしているだけだ。


 日本人のなかで野生の壺を認識するようになる何万人かにひとりは、海外での長期滞在を経験している人が多い。それはある意味で妥当な帰結である、と海外の野生の壺研究家達は口をそろえる。

 ちなみに、野生の壺そのものの分布について圧倒的なシェアを占める日本には、公式な野生の壺研究家は存在しない。野生の壺そのものが存在しないという位置づけなので当然のことではあるが、一方では最も観察対象が間近にある環境であることには間違いがなく、研究の発展を一番に考えた場合には矛盾が生じている。

 こうした矛盾を背景として、ある組織が誕生することになる。今まさに三又浩二に接近しコンタクトをとろうと画策している〈N〉だ。

 〈N〉はNONEの頭文字とも言われているが、NOやNOTなど諸説ある。実際のところは不明だ。

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