野生の壺を狩る

高丘真介

第1話

  1

 

 ある男がいる。歳は三十をすこし過ぎた程度だ。名を三又浩二といった。有名私立大学を卒業し、大手の総合商社〈タクティクス〉に就職した後は順調に実績を積みあげている。

 スラリとした身体をジャストサイズよりややタイトなネイビーのスーツで包み、春先の日差しや突風にも動じないように、その髪型はかっちりと固められている。また、ほどよく日に焼けた精悍な顔立ちからは、今後の出世が予感される。

 実際彼は会社の上層部から、将来の幹部候補と見られている。さらに二年ほど付き合っている恋人とは、つい先日将来を約束したばかりであり、これまでは順風満帆な人生を送ってきたといって差しつかえないだろう。


 ここで、『送ってきた』と過去形で表現したのには、理由がある。なぜなら彼は、ここにきて野生の壺に魅入られてしまったのだ。それも、たった今しがたのことである。

 魅入られてしまった、という表現が正しいかどうかの議論はあえて置いておこう。とにかく彼は、野生の壺をそれと認識し、そして興味を持ってしまった。

 日本人であれば、皆持っている『野生の壺などというものは存在しない』という暗黙の理解を、彼の脳細胞が拒絶したのだ。

 そういった症例は、実は数万人に一人の割合では存在していると言われている。差別を恐れて公言しないだけで、実は野生の壺を認識している人はある一定数はいるのだ。


 逆に、外国人からすると不思議な話であろう。なにしろ日本の国土を一日歩けば、必ず何度かは野生の壺に遭遇するのだ。しかも世界的に見ると日本は野生の壺大国と位置づけられている。実際欧州などでは、日本の野生の壺だけを収録した写真集が多数販売されており、それなりの部数が売れているという。


 その写真集は国内でも購入することができる。ただ日本では、人工の壺を街中にそっと置いて写真を撮っただけのくだらない捏造本だと決めつけられている。

 繰り返しにはなるが、日本人にとっては野生の壺という存在は『冷たい炎』や『甘い塩』と同じぐらいありえないものなのだ。


 捏造本かどうか、という観点での考察を補足する。

 まず、写真だけでは人工の壺と野生の壺を見分けることなどは今の技術ではできない。つまり、捏造しようと思えば簡単にできてしまうことになる。しかし、外国人が日本にさえ来てしまえば野生の壺などは簡単に見つけることができるため、あえて捏造しようというモチベーションがあるとは考えにい。

 したがって、今市場に流布している写真集には本物の野生の壺が掲載されている可能性が極めて高いというのが、世界的な常識となっている。日本人には通用しない常識だ。






 三又浩二の話に戻る。


 彼が野生の壺を認識してしまったいきさつを説明しよう。そこには、若干の不幸が重なっている。最大のものは、それが通勤電車のなかだったということだ。またその車両は座席がすべて埋まり、立っているスーツ姿の男女が車内空間の半分程度のスペースを占める程度の混み具合だった。つまりその場で不審な動きをとればすぐに人目についてしまうような状況だ。そんな通勤中の車両でつり革につかまっていた彼は、ある若い女性の足元に見慣れない緑の物体があることに気がついてしまった。それが野生の壺だったのだ。


 彼の生活する場所に、当然それはもともと存在していたはずなのだ。つまりそこにあるのは認識の違いだった。その壁を一瞬で飛び越えてしまった彼には戸惑いがあった。いったい目の前にあるのがどういった存在なのか、脳が理解するまでに時間がかかった。その間、周囲の状況には無頓着になる。当然ながら、その存在のすぐそばに若い女性の足があることなど、このときの彼の頭にはない。彼がゆっくりと手を伸ばすと、緑の物体は二次元になり点になり、そして消えさった。認識の外に出ていったという表現が正しいのだが、その次の瞬間には耳をつんざくような甲高い叫び声が、車内空間を切り裂くことになる。腕に激痛を感じた次の瞬間には、体が反転してその場に崩れおちていた。なにが起こったのか彼にはわからない。じわじわと戻ってくる視界に、たくさんの目があったことが、まるで映画や漫画のワンシーンのように、彼の脳裏にくっきりと残っている。


 彼が突然、その被害者女性の足の方に手を伸ばして内ももを触りはじめた――と、ある目撃者が証言した。また、すこし遠くから見ていた別の乗客も、彼に触れられはじめて数秒間はただ立ったまま固まっていたその女性も、すぐに我にかえって悲鳴をあげたのだと証言。また、その声に呼応するように動きだした周囲の男たちによって、三又浩二は取り押さえられた、という顛末だ。


 いやそれは違うのです。そこに緑の物体があったのです。人の膝丈ぐらいで、光沢があって半透明の――。彼がそう言うとしばらく沈黙した警察官に、ちょっと詳しく話を聞こうか、とある個室に連れて行かれた。窓がまったくない、白に塗り固められた壁に囲まれた正方形の空間だ。椅子が三つと白い机がひとつ。それだけの部屋。その中心に設置された机の足に寄りそうように佇んでいる半透明の物体を、彼ははっきりと認識することができた。


 今君にはなにが見えているか?


 鉄道警察の男が問いを発する。その頃には現実感が戻ってきていた三又浩二は、それよりもあの女性は――と訊く。誠心誠意、誤解であることを説明すればわかってもらえる――このとき、まずはそちらの件で頭がいっぱいだった。そんな彼の思いとは裏腹に、あちらの件は気にしなくても良い、当局でしかるべき対応をしているし、今後彼女からなにかを請求されるような心配もない――鉄道警察の男はそう言ってにやりと口角を上げる。小顔で日焼けした短髪の男だ。小さな垂れさがった糸目と薄い唇が、見る者の印象には残らないだろうと思わせる。だが、なぜだか三又浩二にとってはゾッと背筋に寒気がはしるような、そんな表情の男だった。よく見るとその瞳には白目がない。漆黒だ。目が細いためにそう見えてしまっているのだ、と理性で考えているのと、本能で感じることは、別だった。彼は本能で、その鉄道警察の男に恐怖していた。


 そんな彼の感情には関わらずに冷静な態度をたもち続けるその糸目の男が言う。


 すぐに〈N〉がくる。


 そして、野生の壺を狩るのだ――。

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