敵は誰か
連合軍が本土、カラブリアに上陸したのは10月15日の事だった。
列車砲を始めとする反撃は激しかったがシチリアで戦っている時には既にイタリア国内で政変が起きていた。
43年に入りムッソリーニが内閣から国王派を排除した為政界から危険視され、不完全な状態で参戦した事に不満を持ち王家に忠誠を誓う軍部からも嫌われたのである。
3月から4月にかけて北部で平和を求めてゼネストが発生。
ファシストに衝撃を与え、リビア失陥、シチリア上陸に続いて7月19日にローマが空襲を受けた事が止めとなった。
抗戦を訴えるムッソリーニと被災者の慰問を行うウンベルト皇太子夫妻とでは人望に差があり、同25日にムッソリーニは解任。
ドイツは5月にはイタリアの戦線離脱を察知していたがソ連軍の攻勢もあり直ぐには動けず、8月になり漸くアッシェ作戦を認可。
政変を知ったユーゴスラビアではチトーが王党派に合流。
南部戦線では独が優勢を保っていた為連合軍の支援は乏しく、ソ連からの指示はスペイン内戦の前例から敬遠されていたのでバルチザン活動は低調だったのである。
バルカン戦線で保護国化したアルバニアに手を焼かされた経験から、イタリアは現地勢力には食料を中心とした支援に留めていた為支持母体の民族に限れば飢餓も発生せず、バルチザンに流れる人が減った事も大きい。
10月21日にバドリオが降伏するや否やドイツはアッシェ作戦を発動。
イタリアの勢力圏ならびにイタリア本土への侵攻を開始。
フランス方面と同じく山がちのバルカン半島ではドイツ系住民の多いチロル地方を除いてドイツ軍の進撃は鈍かったが、同方面から南下した独軍はイタリア北部の工業地帯を制圧。
500両以上のP26/40を筆頭に合計4千両以上の戦車──殆どがM15系列だったが──を手中に収めると、更に南下を継続。
ローマに迫った。
バドリオ政権とサヴォイア王家はローマを無防備都市宣言すると逃亡。
連合軍もカラブリアに続いて10月22日にサレルノ、タラントに上陸を開始。
だが工業地帯の多い北部は他の地域よりインフラが整っていた事や初動の差からローマはドイツ軍が占領するに至る。
連合軍は上陸を果たしたものの米加軍のみで、英軍はイタリア降伏までエジプトどころかリビア北東部及びマルタ島すら確保出来ずに終わった。
英空母が貧弱で上陸支援に慣れておらず、イタリア本土攻撃に主力が振り向けられた事や伊軍の残余とエジプト将兵の奮戦、独がクレタ島経由で機械化率の劣るエジプトに対しロレーヌシュレッパー等の空輸やリビア、スエズ爆撃を行い連合軍の進撃を阻んでいた事が原因だった。
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