シチリアの戦い
富の源泉である北アフリカとのシーレーンが断たれた事でイタリアでは厭戦気分が蔓延していたが、連合軍内部ではシチリア島への上陸は危険視されていた。
勝っていたのは海上戦力だけで、航空優勢ではなくこの条件はギリシャやディエップの戦いを想起させる物だったのである。
隣接していたマルタで空挺部隊が溶け、東地中海まで制海権を得ていない上にトルコが基地提供を航空機に限った為、同方面から上陸するという欺瞞作戦も行えなかった。
他にも問題になったのは現地の反応である。
北アフリカ戦線で英仏と米国で敵兵士の対応が異なり、早期解放出来ると思われたマルタ島攻略が失敗に終わった事で表面化したのだ。
ムッソリーニと共にマフィアを弾圧した米国に対し比較的好意的であろうシチリアは無論、反英感情の強いエジプト戦線にも調停者も兼ねて米軍が当る事を持ち掛けたがモントゴメリー以下英軍は米軍のエジプト戦線参加を拒否。
31年から開戦直前の7月までインド、パレスチナ及びトランスヨルダンに赴任していたモントゴメリーにとって、エジプト制圧は大英帝国の威信を抜きにしても自ら成し遂げなければならなかったのである。
その代わりシチリア島は着任したばかりのパットン麾下の第7軍に任せる事で合意。
米軍が反攻の主体となるのは大戦中盤以降からよく見られた動きで、アフリカ戦線へ派兵されたオーストラリア、ニュージーランド将兵が制海権の喪失等で帰れず東部と中国を除く殆どの戦線で米軍が主力となったのである。
装備の劣悪な日本軍相手の戦闘を通じてではあるが徐々に洗練されていった海兵隊と異なり、この時期の米陸軍は実戦経験の乏しさが露わになっていたが柔軟な人事システムで補っていた。
7月10日に行われたハスキー作戦では上層部の懸念が的中。
航空機どころか38㌢列車砲すら活動している為有効な事前砲撃が行えず、上陸は捗らなかった。
歴史的建造物が多い土地柄故陣地構築が不十分で、死角からの砲撃で線路を吹き飛ばした後残存する90㍉砲弾を掻い潜り上陸を果たしたパットンは後退した列車砲から三式弾を浴び、かろうじて生還するも糧秣や弾薬が消滅し自らも戦線を離脱。
伊独はヘンダーソン飛行場砲撃後供与された三式弾の国産化に成功していたのである。
米軍は補給を受けるまで艦砲射撃の効果範囲内に留まった為、長射程砲以外に妨害を受けなかった事だけが幸いだった。
兵站回復後に漸く進撃を開始したが戦車数で劣る上に偵察に出した軽戦車の損害は相変わらず多く、90㍉砲を搭載した初見のP43bisはM4にとっても脅威ではあったが正面からの対決を避け機動力で押し切った。
しかしメッシーナ海峡は対岸からの砲撃が凄まじく、装備共々敵主力を取り逃がす結果に。
シチリアの完全制圧は9月末までかかった。
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