第3話 消えた男
――まこと、真。
誰かが呼ぶ声がする。真はゆっくりと目を開けた。そこには義父裕二がいた。心配そうな目でこちらを見ている。
「どうしてこんな所で寝てるの? それと里菜がどこにもいないんだよ。真あいつがどこに行ったか知らない?」
真は一気に眠気が飛ぶのを感じた。いないんだ。やっぱり夢じゃなかったんだ。そう思うと罪悪感がこみ上げ、まともに裕二の顔を見ることができない。
「里菜は、里菜は。……知らない。ケンカして私の部屋を飛び出していっちゃったから」
本当はすべてを話したかった。しかし何を言っても変な疑いをかけられるだけだとも分かっていた。だから言えなかった。
「本当に知らないんだね?」
「うん。本当に知らない」
「そうか。じゃあ悪いけど探すのを手伝ってくれない?」
裕二は落胆した様子で言った。
「うん。もちろん。ちなみに結衣さんは?」
「もう帰った。僕達ちょっと眠っちゃって、もう遅かったから慌てて帰ったよ」
「そうなんだ。だから私達の……ケンカが聞こえなかったんだ」
真はなぜあれだけ物音がしていた状況で誰も部屋に来なかったのか理解した。安心と落胆が入り混じった妙な気分だった。
*
「そうですか。ありがとうございました」
もう何本目だろうか。真は裕二が電話をかける姿をぼんやり眺めていた。警察から指示された通り、裕二は同級生の家から親戚まで片っ端から電話している。いなくなった理由を知っているだけに胸が痛かった。それでも言えない。里菜を取り戻すには母と会うしか道はないと真には分かっていたからだった。お父さんには頼れない。たぶんお母さんが望んでない。そんな考えを抱くのは自分でも冷酷だとは思ったが、裕二を連れて行くと足手まといになる気がした。自分がどうなっても里菜だけは絶対に取り返す。真は一人静かに決意を固めていた。
夜10時を過ぎた頃、警察官が4人やってきた。3人の制服警官とスーツを来た中年の男性。もしかして刑事さんなのかなと真は思った。制服警官たちが父と共に里菜の部屋を調べに二階へ上がっていった。残ったスーツの男が真に尋ねた。
「少し話を聞かせてね。お父さんの話だと妹さんがいなくなる直前にケンカしてたとか。それは事実?」
「……はい。お父さんの再婚のことでちょっと言い争いになって」
警察官は片方の眉をあげた。それから鋭い目つきで真を観察している。
「言い争いだけ? 暴力に発展したりはなかったの?」
「はい……。言葉だけです。よく口ケンカはしますけど、たぶん手を出すようなケンカは今まで1度もなかったんじゃないかと思います」
スーツの男は何度かうなずきメモを取っている。ちょうどその時、制服警官の一人が男を呼びに来た。
「マルさんちょっと不味いですね。ちょっと来てもらえますか」
真と男は二階へ上がり、突き当りにある里菜の部屋に入った。部屋に入ると里菜の机の上が整理されていた。その上には財布や電池の切れたキッズ携帯など自分の意思で外出していれば絶対に置いていかないであろう物がそのまま残されていた。さすがにプロだけあって里菜が真に盗まれないように作った秘密の隠し場所とやらを簡単に発見したようだ。真と裕二には見つけられなかったのにも関わらず。
「家出じゃない。なんかあったな」
マルという名のスーツ男は深刻そうにつぶやいて部屋を出ていった。真は、目元を両手で押さえながら壁に寄りかかっている裕二の背中をさする。弱りきった様子の裕二を見て、胸が締め付けられるような気持ちになった。せめて父にだけは全て言ってしまうべきだろうか。あれから何度も自問自答し続けているが答えは出ない。
「山城さん少しいいですか」
スーツの男が戻ってきた。誰かに電話をしていたようだ。深刻な顔をしている。
「我々はこれを緊急性の高い案件だと考えています。これから鑑識を呼んで部屋と家の周りを調べてもらいます。それから明日の朝、警察犬を入れて周辺を捜査していきます」
裕二はうめき声を漏らした。真が必死に背中をさすっているが、裕二は今にも吐きそうな顔をしている。
「お父さん、結衣さんに来てもらってよ。少しでも大人が多い方が心強いでしょ」
真にとっては苦渋の決断だった。しかし父を癒やすことができる唯一の人間は彼女以外いないような気がした。
「すみません、結衣さんとは?」とスーツの男が尋ねる。
「父の恋人です」
「なるほど。ちなみに現在も奥様の所在はまったく分からないのですか?」
裕二が顔を上げた。そして苛立った様子で聞き返した。
「なぜ今さら妻の話なんですか。3年前に失踪して何の音沙汰もありませんよ。警察はそれも解決できてないようですけど」
裕二には珍しく皮肉たっぷりの口調だった。しかし男はそういった態度に慣れっこのようで平然としている。
「山城さん大事なことなんです。奥様が里菜さんを連れて行った可能性も十分あるので」
裕二は黙り込んだ。さすが、いい線いってる。当たらずとも遠からずの推理に真はミステリードラマを見ているような錯覚を覚えた。母の説明については父に任せて、真は自分なりに部屋を調べることにした。あまり意味がないのは分かっている。目の前で連れ去られたのだから。それでも何か手がかりがあるかもしれない。真はワラをも掴む思いで部屋を眺めた。相変わらず汚い部屋。ちょっと汗臭い。真が片付けろと言い続けてもほとんど変わらない。里菜との他愛ないケンカを思い出し、真はまた少し泣きそうになった。
その時だった。真は奇妙な物を見つけた。数日前に来た時は絶対になかった物。学習机のすぐ左横に置かれた本棚の上から二段目。そこに小さな黒い紙が置いてあった。そこには見たことない模様が描かれている。おそらくチョークで。真はそれを拾い上げ、しげしげと観察する。これは、なに。さっぱり分からなかった。里菜の誘拐に関係あるのか確信はない。それでも紙をポケットにしまい、後で詳しく調べることにした。
「すみません。鑑識が来ましたので、ご家族の皆さんは自室にお戻りください」
スーツの男が有無を言わさず真たちを部屋から追い出した。自分の部屋に戻った真はベッドで横になり、今後のことを考えた。しかしやがて考えるだけ無駄だという結論にいきつき、大人しく眠りについた。
朝7時。真が目を覚ます。下から聞こえてくる話し声に起こされたようだ。下へ降りていくと近所の人や警察官、裕二たちが玄関の扉を開けたまま話し込んでいた。警察官の横には犬が座っている。賢そうな顔をしたゴールデンレトリバー。真は想定外のモフモフっぷりに癒やされながらリビングに入った。
「おはようマコちゃん」
結衣が朝食を作っていた。彼女は黒い花柄のエプロンを着ている。それは母のエプロンだった。奥にしまってあったはずのを結衣が発見したようだ。しかし、その姿を見ても不思議と嫌悪感はない。むしろ懐かしい気持ちがこみ上げてきた。今は3人で分担して朝食を作っているが、以前は朝食作りの時間は母と2人になれる特別な時間だった。
「私も手伝います」
結衣は少し驚いたようだったが、手伝い始めた真を嬉しそうに眺めていた。
「マコちゃん私のこと嫌い?」
真の手が止まる。あまりに唐突でストレートな質問に真の脳みそは凍った。朝には全くそぐわない質問に対して真は慎重に選んだ。
「……嫌いじゃないですよ。お父さんとのこと応援してます」
いつも通り本心を隠そうとする真。しかし結衣はそれを制した。
「そういうのはいいの。私、マコちゃんが本当に思っていることを知りたい」
卵を盛り付ける手を止め、こちらを見つめている結衣の顔は怒っているようにも見えた。真は心の中でため息をつく。
「わかりました。できるかぎり正直に言います。私は理解できないんです。結衣さんみたいなキレイで自分を持った人が10代の娘を2人も抱えた、まあ言っちゃなんですがオジサンをなんで好きになったのか。しかもぶっちゃけお父さん結構頼りないし……。わずわざお母さんとの間に入ってくる必要あるのかなって」
真は頑張って自分の考えを話した。黙って聞いていた結衣は少し困ったような顔で答える。
「だって好きになっちゃったからね。本当はそのつもりじゃなかったのに」
――「そろそろ始めるよ!」
結衣の言葉を打ち消すかのように裕二が玄関で叫んだ。
「あー犬ね。犬でご近所を捜索するんだって」
結衣が思い出したように付け加えた。助かった。真はホッと一息ついた。それでも結衣が発した「そのつもりじゃなかった」という言葉がどこか引っかかる。しかし考えている暇はない。外の物音は大きくなる一方だった。真は結衣が作ってくれた塩の効いたスクランブルエッグと何かの肉料理をご飯と共に胃袋へ流し込んだ。
「おはよう。真、今日は忙しくなるけど皆で頑張ろうね」
外に出るとやたら気合いが入っている裕二が話しかけてきた。真は乾いた笑いを返した。近所の何人かがボランティアに加わり、警察官を含めて総勢50人以上+2匹で近所を徹底的に調べ始めた。真も無駄だと分かりつつ、家の周りを歩いた。里菜が、一人の人間がそっくり消えたのに通りは普段と何も変わらない。真は急にどこか虚しい気持ちに襲われる。自分達が無意味な存在なのではないかと思えてきた。こんなときに里菜がいれば自分を笑い飛ばしてくれたのにと真はぼんやり考えていた。
数分後。真は鬱々としながら家の角を右に曲がって歩いていた。あれだけいた警察官がこちらの通りには1人もいない。その時、いつもと違う光景を目にした。通りの向かいに立つ家の塀の前。そこに今まで見たことのない男が立っていた。背が高く、麻の白いシャツとベージュのパンツがよく似合っている。奇妙なトンガリ帽子を被っていることも含めてその場には相応しくない異質な雰囲気を醸し出していた。顔は丸いサングラスのせいでよく分からないが、真は自分が監視されているような気がした。でも気のせいかもしれない。真は少し迷った。しかしパッと見は危険そうに見えない。そこで一度通りの角まで戻り、玄関前に警察官が数人いるのを確かめてから男の方へ向かった。
「すみません。ボランティアの方でしょうか?」
男は質問に答えず、じっと真を見つめている。なに言ったか聞こえなかったのかな。そう考えた真はもう一度尋ねることにした。
「すみません。ボランティアに参加してくださっている方でしょうか」
「これを覗いてみて」
男は真の質問には答えず、代わりに金色の筒を手渡してきた。それは単眼鏡だった。呆気にとられた真はつい言われるがままに覗く。そこには黒く映る我が家。それがレントゲンのように透けて、1人の女性らしき白い影が動いて見えた。彼女が立っている位置はおそらく台所。つまり今覗いてる白い影は結衣さん? こいつ変態じゃん。真は気味が悪くなった。真は急いで単眼鏡から顔をあげて男を見た。しかし男は既に姿を消していた。
「真、これからあの子が行きそうな場所を警察の方にお話して」
真が戻ってきたのを見て裕二が言った。後ろには警察官とボランティアのおじいちゃん数人が立っている。真は戸惑った。
里菜は親しくしている2、3人の友達と遊びに行く以外はほとんど家で過ごしていた。彼女たちが知らない時点で選択肢は家しか思いつかない。
「行きそうな場所って言っても家と学校、強いて言うなら公園くらいだよ。あの子、お小遣いもすぐ使っちゃうからゲーセンにも行かないし」
その答えに裕二は明らかに落胆している。どうやら今のところ裕二たちにも手がかりは無いようだ。
「それよりさ、見たことない怪しい男の人があっちの方に立ってウチのこと見てたんだけど……」
裕二はカッと目を見開いた。真は口を滑らせたことを後悔した。裕二は真の両肩をつかみ、目を光らせながら尋ねる。
「どこ?! 案内して」
「もういないよ。話しかけたらどっか行っちゃった」
「なんですぐに知らせないの! 呼んでくれたら捕まえられたのに。馬鹿!」
裕二が大声で怒鳴った。真は心底驚いた。裕二が声を荒げることなんてほとんど無ければ悪態なんて聞いたこともない。その裕二が怒りの形相で真を睨んでいる。他の人達も動揺した。
「山城さん落ち着いてください。お嬢さんだって少しでも力になれるよう頑張っているんですよ」
裕二の様子を見かねた若い警察官がなだめた。裕二の肩に手を置き、気を落ち着かせる。それから真の方を向き、男の姿かたちなどを尋ねて手帳に記入していく。単眼鏡も手渡したが、警察官はそれを覗いてから「ただの単眼鏡だね」と言って返してきた。真はその警察官と話している最中に何度も裕二の方を盗み見た。あんなに怒った裕二は初めてで、今でも少し恐ろしかった。
時間はどんどん過ぎ去り、あっという間に朝が昼に、そして夕方になった。結局、何も見つからなかった。指揮を取っていた警察官が捜索の終了を宣言し、ボランティアの人たちが帰途につく。裕二は黙って門の前で遠いところを見ている。
「お父さん、もう入ろうよ」
いつまでも家に入ろうとしない裕二を真が促した。裕二は何も答えない。結衣も一度声をかけたが裕二はここで里菜を待つと言って入ろうとしなかった。真は黙って裕二を見つめる。先ほどのことがあったせいで、これ以上言うのは怖かった。しばらく待ったが裕二は真に見向きもしない。家族が壊れていく。その事実を目の当たりにして真は涙目になった。やがて真は諦めて家の中へと戻った。
「ああやって何かして罪悪感を誤魔化してるんだと思う。男の人ってそういうとこあるから」
結衣がティッシュを差し出した。真はそれで涙を拭きながら首を振る。
「私に怒ってるんですよ。私がしっかりしていたら里菜は無事だったって。私に言いたいんです。実際それは正しいと思いますし」
「本当に何かできたと思う? 人智を超えたものの前では、私たちは無力なんだよ」
結衣が満面の笑みで言った。真は言ってる意味が理解できず困惑した。この人、ちょっと気持ち悪い。
*
あれから5日が過ぎ、約束の日がやってきた。もはやビラを配っていない場所はほとんど無くなり、警察も「捜査中」と言うばかりで手がかりは一切ない。近所の人たちは同情して差し入れを持ってきてくれたりするが、その目には好奇心が垣間見える。真はあれからずっと学校を休んでいた。里菜が大変な目にあっているのに自分だけ日常生活を送るのは裏切りである気がしてどうしても足がすくんでしまう。それに裕二を放っておくことが心配だった。
「真、お願いだから僕を、お父さんを捨てないで」
今日も裕二は泥酔したまま真の部屋に転がり込み、泣きながら懇願する。
「大丈夫だから。私はちゃんとお父さんの側いるから」
真は裕二を抱きしめ、背中をなでる。もはやこのやり取りを何度繰り返したか分からない。裕二はすっかり人が変わってしまった。仕事には行かず、四六時中酒に溺れている。真はそんな裕二の姿を見ると猛烈に悲しくなった。特にヨロヨロと真の部屋を出ていく父の後ろ姿はとても小さく見え、もしかしたら死んでしまうのではと真は恐ろしくなる。
一刻も早く里菜と母を連れ戻さないと。父の姿を見るたびに真の決意は固くなる。自分はどうなってもいい。あの2人が戻ったらお父さんも元に戻る。自分にそう言い聞かせて目の前のことに集中する。幸いなことに父から貰っていた緊急用の貯蓄あったため、必要な物資を買い集めるのには困らない。懐中電灯や非常食、そしてネットで集めた防犯グッズ。催涙スプレーや特殊警棒。いちおう手裏剣まで買っておいた。なんとチタン製だ。
時計が夜11時を指した頃、真はもう7度目になる手裏剣の練習に励んでいた。一心不乱に柱へ向けて投げる真の顔には充実感が感じられる。もちろん恐怖は感じていたが、一種の冒険心というものが真に勇気を与えていた。今ならあの女も倒せるような気さえする。
しかし手裏剣は一向に刺さらない。
「いや不良品でしょこれ」と苛立ちを込めて床に転がる手裏剣を蹴った。柱には米粒大の傷があるだけでまともに刺さったことは一度もない。真は一旦手裏剣のことを忘れて、机で裕二に向けて手紙を書き始めた。その時だった。
――「こんばんは」
真は顔を上げたまま固まった。するわけないのに真後ろから声がした。あの女? 急に荒くなる息を無理やり整えつつ、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「こんばんは」
真は思わず「あっ」と言った。そこにいたのはあの女ではなく、あの男だった。今はサングラスをしていないが、間違いなく捜索の日の朝に見かけた怪しい男。そいつがベッドに腰掛けてこちらを見ている。真は何を言うべきか分からずただオウム返しをした。
「こんばんは」
すると男は微笑んだ。真は少しドキッとした。細みの顎にスッと通った鼻筋。涼し気な目元。夜中に女子の部屋に不法侵入する変態であるのが惜しいほど端正な顔立ちをしている。それでも真はすぐに正気を取り戻して言った。
「あなた前もいましたよね。やっぱりウチを覗いてたんですね」
「うん。正確には山城真。君を見ていた」
真は言葉に窮した。予感が的中したのは良いけれど、その先をまったく考えていなかった。裕二はまだ帰ってきていないから頼れそうな大人はいない。急に不安が大きくなる。
「正直ね、確信がなかったからコンタクトを避けてたんだよ。でも君が13歳になったというのを聞いて確信した。ちなみに誕生日おめでとう!」
男は唐突に真の誕生日を祝った。真は苦笑いしながらお礼を言った。
「それで、まあ大体の事情は知ってる。妹さんは残念だったね」
真は里菜を思い出して悲しくなった。
「でも心配ない。彼女は生きてるから」
真は目を見開いた。それから男を睨んだ。やっぱりこの人が……。そう思いかけた瞬間、男はまた微笑んだ。
「私じゃない」
「じゃあ誰なんですか!」
真が声を荒げる。男は首を横にふった。そして急に立ち上がった。
「申し訳ないけど、それを答える前にしなきゃいけないことがある」
そう言いながら男は真の目の前に来た。真を見下ろしながら男は言った。真の顔には恐怖の色がうかんでいる。
「少しの間だけ目をつぶってて」
「やめてください。何をするつもりですか」
真はできる限りの抵抗をした。言うことを聞かない真に男はため息をついた。やがて男はくるりと真に背を向け、諦めてベッドに戻ろうとした。と真は思った。男は急に振り向き、ベージュ色の粉を真にふりかけた。激痛が走る。目に粉が入って前が見えない。真は痛みでうめき声をあげながら見えない空間をめちゃめちゃに叩いた。だが男には当たらない。やがて男が何かブツブツ言うのが聞こえ始め、真はさらに恐怖した。しかし恐怖の時間は長く続かなかった。体がどんどん鉛のように重くなっていく。もはや手足すらうまく動かせない。やがて真は完全に意識を失い、椅子から落ちて床に倒れた。
数十分後。真はゆっくりと目を開けた。さっきまでの激痛は完全に消えていた。真はいつのまにか椅子に腰掛けている。
「よし起きたね。話を続けよう!」
あの男が嬉しそうにベッドの上で飛び跳ねていた。ベッドの木がメキメキ音を立てていることは気にも留めていない。真はその光景をどこか面白く感じ、ひどい目に遭わされた怒りは消えていった。
「ベッド壊れるんで降りてください。それに靴くらい脱ぎなさい!」
ついつい里菜を叱る口調が飛び出す。男はヘラヘラ笑いながらベッドに座り直した。真は軽くため息をついてから尋ねた。
「あれは何だったんですか」
「んーそれは答えられない。こっちにも事情があってね。それよりさっきの話を続けよう」
男はきっぱりとした口調で言った。
「なんの話してましたっけ」
「あれだ。君が私のことを好きだって話」
「おじさんは好みじゃありませんよ」
残酷な言葉が男の胸を貫いた。男は一瞬動揺した様子を見せてから静かに言った。
「そうか。もういい。話を進めよう」
真はちょっぴり罪悪感を感じたが、不思議とこの男がかもし出す雰囲気が好きになった。
「話は、妹さんが誘拐されたけれど生きているってこと。そして誰がではなく問題なのはナゼって部分というお話。あと私の単眼鏡を返せ」
真は少しの間黙って頭の中を整理した。それから口を開く。
「里菜が生きてるのは当然うれしいですが、どうして知ってるんですか? それと単眼鏡はここにあります」
「私には色々と情報源があってね。それで調べて分かったというわけ。今日の時点でまだ妹さんは生きている」
男は金色の単眼鏡をカバンにしまいながら断言した。真は嬉しくて思わず涙がこぼれる。そうですかと何度もつぶやき、涙を拭う。久しぶりの安堵感が心地よかった。それからまた口を開く。
「……それで、なぜ里菜を誘拐したんですか」
男は途端に表情が変り、まっすぐ睨むような目つきで真を見つめた。
「エサだよ。あいつらの狙いは君。妹さんは君をおびき寄せるエサ。だからはっきり言う。君は行くべきじゃない。いや行くな」
しばし沈黙が流れた。男はじっと真の返事を待っている。やがて真は恐る恐る尋ねた。
「……お母さんが、お母さんが私達を待っているんです。もし里菜を連れて行ったのがお母さんなら、安全なんではないですか?」
男は眉をひそめた。それから首を大きく何度も横にふった。
「違う。君のお母さんじゃない。誘拐したのは我々がずっと追っている男で、恐ろしく危険な人なんだよ。断言できる。安全とは程遠い」
男はきっぱりとした口調で言った。真の不安はどんどん大きくなっていく。
「男の人なんですか。でも里菜を連れて行った女の人はお母さんが待っていると言っていました」
男が目を見開く。そして急に微笑んだ。
「そうか。あいつが。よしっ」
「あの人なんなんですか?」
男は質問に答えず時計を指差した。11時45分。気付けば約束の時間までわずかだった。
「時間がない。頼むから残ると言って。もし行けば君は非常に高い確率で死ぬ」
真はドキリとした。死ぬ。人生で初めてはっきりと言われた。男の顔はもう笑っていない。本気のようだった。真は躊躇したが、すぐに里菜のことを思い出す。あんなに小さいのに恐怖で動けない自分をかばってくれた。次は自分がなんとかしないと。すると心の底から力がわいてきた。
「嫌です。絶対に行きます。あなたにどれだけ止められても里菜を助けに行きます」
真は人生で初めてはっきりと自分の意思を伝えた。実に爽快だった。我慢せず自分の意見を言うことがこんなに快感だとは、こんなに勇気が湧いてくるとは知らなかった。死ぬと言われたばかりにも関わらず、真は奇妙な満足感に浸っていた。すると男は急にベッドに仰向けで倒れた。真は満足感を忘れて驚いた。数秒の沈黙があった後、男はゆっくりと起き上がり、ゆっくりと言った。
「そういうの好きだよ。誰かのために行動できる人間はあんまり見ないからね。上の人達も君みたいに勇気があればいいのに」
真は照れくさかった。勇気があるなんて人生で初めて言われた。上の人達って誰?とも思ったが、それより褒められたことのほうが印象深かった。
「じゃあさ、色々聞きたいことあるだろうけどそれは今度にしよう。今から渡したいものがある」
男はそう言いながら小さな革製のバッグを取り出した。そして中から奇妙な模様が描かれた黒い紙を取り出した。あれだ。里菜の部屋にあったやつ。真は急いで回収しておいた黒い紙を取り出して男に見せた。
「あれ? なんで君が持ってるの? あの子に渡したはず」
男は不思議そうな顔で真を見ている。
「あの子のですよ。部屋に置いてあったのを拾っておいたんです。この模様には何の意味があるんですか?」
男はニヤリと笑った。
「姉妹揃って質問が多いね。それにもノーコメント。一種のお守りだと思って。とにかく奴らの場所にいる時は肌見放さず持ち歩くこと。いいね?」
「良くない! いや、良くありません! 理由だけ教えてください」
真は食い下がる。しかし男は何も答えずに時計を指さして勝ち誇った顔をしている。ムカつく。真は仕方なく話を前に進めた。
「……わかりました。この紙を持っていけば良いんですね」
「そう。もし手放したら死ぬからね」
まただ。死ぬと言うときの男の顔は笑っていない。本当に危険なんだ。真は気を引き締めて紙をつかんだ。
「それとっ、これもね」と言いながら男は真っ白なチョークを手渡してきた。学校で使ってそうな普通のチョークだった。真は意味がわからず男に尋ねた。
「これ、チョークですよね?」
すると男は愉快そうに笑った。
「そうチョーク。何の変哲もない、ただのチョーク。100均でも売ってるよ!」
1人でケラケラ笑う男に真はだんだん腹が立ってきた。それでも何か意味があるのかもしれない。聞いたって何も答えないだろうけど。そう思い、黙ってポケットにしまいこんだ。それから真は思い出したように言った。
「そういえば。そもそもアナタが、すみませんお名前は何というんですか?」
「あー、……前田始。みんなからは前田先生と呼ばれてるよ。いいから続けて」
「はい。そもそも前田さんが誘拐犯を知っているなら警察に話してもらえませんか? 協力してくれますよ」
前田はすっと手をあげた。それから首を横にふる。
「警察は絶対にダメ。彼は捕まらない。見せしめに妹さんを殺して消えるだけだよ」
真は焦った。いつか頼ろうと考えていた警察が逆に里菜を危険に晒すと言われて動揺している。それでも引き下がるわけにはいかない。
「警察はプロですよ。やってみないと分からないじゃないですか」
「これも話せないことだから詳細は伏せて言うけど、以前にも警察に協力してもらったことがあってね。まあ失敗したよ。何人も死んだ。それ以来、あっちはこの手の仕事は極力こっちで解決してほしいというスタンス」
あっち?こっち?真はまだ聞きたいことが山のように合ったが、気付けば11時56分。もう時間だった。
「最後に教えておきたいことがある。怖くて体が動かない時は動かせる場所を探すこと。そこを起点に動かせる範囲を広げていく。私の場合は右手」
前田は笑顔で右手を開いたり閉じたりしてみせた。つられて真も笑顔を返す。
「そして最も大切なのは恐怖と思考を切り離すこと。怖がるのは自然なこと。ダメなのは恐怖に思考を支配されること。いいね」
「なんとなく」と真は自信なさげに答えた。あの女が来たとき、恐怖のあまり床にへたり込んだことを思い出して少し恥ずかしくなった。
「じゃあもう行くね」
前田は微笑みながら立ち上がり、真に別れの挨拶をした。真も慌てて立ち上がり言った。
「一緒にいてくれませんか? 1人じゃ不安です」
前田はクスクス笑いながら「また会えるよ。安心して」と真をなだめた。それから一点を指さした。つられて真はその指が指し示す方を見る。なにもない。真は眉をしかめて視線を戻した。既に男はいなかった。何の物音もなく消えていた。
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