旅の始まりと新たな出会い

12時ちょうど。真は金色の鐘を握りしめ、仁王立ちであの女を待っていた。不思議と恐怖はない。電灯がチカチカ点滅し始める。来た。次の瞬間には外の電灯も含めて一瞬で全て消えた。辺りには完全な真っ暗闇が広がった。

――カランカラーン。

手元の鐘が急に鳴り出す。真は以前に女が現れた部屋の隅を凝視した。何かいる。黒い大きな影。その影がゆっくりと滑るようにして近付いてくる。真はゆっくり静かに深呼吸した。女は真の目の前まで来て、見下ろすように真の顔を覗き込んだ。ベールの奥で黒い瞳が2つ、怪しく光っている。真の心臓が早鐘を打つ。真は耐えきれず思わず目を伏せた。恐怖が全身を支配し始める。死人のような青紫色の肌、爛々と光る目のコントラストがどうにも気味が悪かった。怖い。たしかに怖い。しかし今度は前とは少し違った。あの人に教えられた通り、体の一部、真の場合は右の膝を小刻みに動かしていた。そのお陰でなんとか体が硬直せずに立っていられる。すると女はその様子を愉快そうにゲラゲラ笑い、それから低い声で告げた。

「山城真。時間だ。迎えに来たぞ」

「……どこに行くの?」

真が尋ねても、またしても女は答えない。真は小さくため息をつく。女は黙ったまま右手を前に突き出した。それから人差し指で真が握っている鐘に触れた。


――キーン。

鐘から甲高い耳障りな音がした。真は思わず眉をしかめた。鐘が真っ赤に光りだす。するとその怪しく光る鐘を女が強引に真から奪い取った。それから高く頭上に掲げ、激しく3回鳴らした。

――キーン。キーン。キーン。

1回鳴るごとに鼓膜をえぐられるような感覚が強くなってくる。3回目が鳴り終わる頃には真は吐きそうになっていた。それでも鐘を見つめていると、今まで鐘全体に広がっていた赤い光が一点に集まり始めたのが分かった。やがてその点は鐘から離れ、ふわふわと空中を泳ぎ始めた。それはホタルだった。怪しい赤い光を放つホタル。真は不思議とキレイだと思った。


真がホタルを眺めていると、女は黙ったまま現れた部屋の隅へと歩き出す。真も黙って女を見送る。やがて女は音もなく闇に消えていった。まもなく明かりが戻った。部屋は何事もなかったかのように静まり返っている。以前との違いは赤いホタルだけ。これからどうすれば……。真が悩んでいるとホタルがゆっくりと窓の方に近づく。真はホタルの意図を察して窓を開けようとした。しかし次の瞬間、ホタルは真を待つことなく窓ガラスを通り抜けた。真は呆気に取られた。だがホタルが窓から離れていく姿を見た途端に現実へと戻される。急いでリュックを背負い、お父さんに聞こえませんようにと祈りながら階段をできるだけ静かに降りた。もう行っちゃったかも。真は焦りに焦った。玄関の扉を急いでそして静かに開け、一目散に窓の下へ駆け込んだ。まだいた。ホタルは2階の窓周辺をゆらゆらと飛んでいる。真がホタルを見上げながら言った。

「準備できたよ」

真もホタルに話しかけるのは変だと分かっていたが、なんとなくこのホタルには言葉を理解する力があるような気がしていた。すると真の声が聞こえたのかホタルはゆっくりと降りてきて、真の頭上を旋回し始めた。やっぱり。真はこのホタルが母のいる場所への案内役なのだと確信する。


しかしこの先が分からない。ホタルはくるくる回るばかりで他は何もしない。そこで真はまたホタルに話しかけた。

「ねえ。次はどうするの?」

ホタルはスッと下に落ちたかと思うと、真がリュックのドリンクホルダーへさした鐘に止まった。どうやら鐘を鳴らすらしい。真は鐘を持ち上げ、優しく鳴らしてみた。何の音もしない。真はだんだん苛々してきた。

「何も起こらないよ。どうしてほしいの」

真が声を発した途端、鐘にとまっていたホタルは飛び上がった。そして鐘の周りで素早くグルグル回る。振るんじゃなくて回すんだ。真はだんだんこのホタルが可愛く思えてきた。すっかり気を良くした真は高らかに鐘を掲げ、円を描くように鐘を回した。

――カランカラーン。

大音量の鐘の音に真の心臓は飛び上がった。恐る恐る辺りをうかがう。変化なし。裕二が出てくる気配もない。真は安堵した。その時だった。

――ゴォォォォォォ。

重低音の地響きがする。真は家の門を出て、音がする左側を見た。遠くのほうがやけに暗い。目を凝らしていると遠くの方の電灯がパチンっパチンっと音をたてながら1つずつ消えていくのが分かった。音が近づいてきた。その音と一緒に暗闇も迫ってくる。真はその光景に背筋が凍った。正直逃げ出したかった。それでも1つの確信が真をこの場に押し留めていた。あれこそが母の迎えなのだと。


とうとう暗闇は数メートル先にまで迫ってきた。真は息を呑む。次の瞬間、急に目がくらんだ。強烈な光が真の目に飛び込んできたからだった。少ししてから真はそれが何なのか理解する。バスのヘッドライトだった。光が通り過ぎると、バスは真の目の前に停まっていた。色あせたベージュと赤で塗られたバスは恐ろしく旧式で、今どきは全く見かけない乗降車口が前方にしかないタイプだった。その乗降車口が目の前にある。そしてゆっくりとドアが開いた。運転手が満面の笑みで言った。

「ご乗車くださーい。次は終点です」

「すみません、これはどこ行きですか?」

真が運転手に話しかける。しかし運転手は質問に答えず、代わりに満面の笑みで言った。

「ご乗車くださーい。次は終点です」

真は困惑した。それでも諦めずにバスの中に入り、もう一度たずねた。

「これはどこに向かうバスですか?」

すると運転手は唐突に真顔になった。そのまま真の目を凝視している。生気の感じられない顔がなんとも薄気味悪い。さらにそのまま数秒の沈黙が流れた。やがて真は耐えられず、目をそらした。それを見た運転手は真を見ながら淡々と言った。

「ご乗車くださーい。次は終点です」

その時だった。左の方から声がした。

「無駄だよ。その人それしか喋んないから」

真は左を見た。バスの後部座席。そこから1人の男の子が顔をのぞかせている。真は男の子に近づいた。真と同い年くらい、または少し上。

「誰も乗ってなかったと思うんだけど」

真は疑わしげに言った。男の子は微笑み、静かに答えた。

「目の前のことに一杯一杯になると、周りが見えなくなるもんだよ。僕も経験あるよ。それより座ったら?」

「まだ乗るって決めてないから」

真は吐き捨てるように言った。すると男の子はクスリと笑った。

「もう走り出しちゃってるよ」

真は慌てて窓の外をみた。真っ暗闇でよく見えないが、たしかに動いてるようだった。真は焦って取り乱した。

「でもお金払ってないし、どこ行くかも分かんないし。そもそも音しなかったよね。どうなってんの」

男の子が微笑みながら立ち上がる。真は驚いて少し後ずさった。男の子は構わず真に近付く。そして右手で真の頬をやさしく撫でた。その手のひらは柔らかくひんやり冷たい。

「落ち着いて。大丈夫だから」

真は男の子の目を見た。彼は優しく見つめ返してくる。甘い匂い。男の子から漂う香りを嗅いだ途端、不思議と真の心は落ち着いた。そしてどこか満たされていく。真が落ち着いたのを見て男の子はゆっくりと真の手をひいた。真はされるがままになり、男の子を見つめている。男の子は真を座席に座らせ、自分もその隣に座った。

「あの、もう手を離しても良いよ」

真は急に照れくさくなり、握られたままになっている手を軽く振った。男の子はさっと手を離す。

「不快にさせてごめんね。知らないヤツから手を触れられたら気持ち悪いよね」

そんなつもりなかったのに……。真は男の子に謝らせたことへ罪悪感を覚えた。

「……とこ、ろで。名前なんて言うの?」

真はドギマギしながら尋ねた。男の子はまた優しく微笑んだ。

「山神幸。コウって呼んでよ」

「私は山城真。好きに呼んで」

「じゃあ真って呼ぶね」

「君、馴れ馴れしいよ」

コウは慌てて「ごめん」と謝る。すると真はクスクス笑った。真のイタズラに気付いたコウは、ニヤリと笑いながら首を横に振った。2人は微笑んだまま静かに見つめ合う。里菜が連れ去られてから、初めて真は安らぎを感じることができた。


――ピンポーン

バスの社内にアナウンスが鳴り響く。

「まもなく終点。終点です。本日はご利用ありがとうございました」

真は窓から外を見た。公道ではないようだった。両脇にはよく分からない物が山のように積み上げられ、その間をかき分けるようにバスが進んでいく。やがて正面に小さな門柱が2つ見えてきた。それぞれ赤いランプが掲げられ、既に門は開いている。あのホタルとランプの色が全く同じだったため、真は間違いなくここだと思った。そういえばホタルは?真はリュックの横にさした鐘を見る。光っていない普通の鐘。ホタルはどこにもいなかった。

「まもなく終点。終点です。本日はご利用ありがとうございました」

またアナウンスが鳴り響く。いよいよ。真の心臓はもはや飛び出さんばかりに暴れまわっている。ここに母と里菜がいる。真は右膝を小刻みに動かした。怖い。それでも自分がやらなければ2人は帰ってこない。そんな真をコウは横でジッと眺めていた。


バスが停車した。2つ目の門を抜けた先には白い石造りのお屋敷が立っていた。その玄関先にバスは停車している。

「すみません。代金はいくらでしょうか?」

真は運転手に尋ねた。集金箱も無ければ料金表もない。しかし運転手は何も答えず、前を向いている。すると後ろからコウが肩に手をおいた。

「もういいよ。放っておいて外に出よう」

真は後ろめたい気持ちを感じていたが、コウに押し出される恰好で外に出た。その途端に後ろで扉が閉まる。真は振り返った。既にバスは走り始めている。変なの。真は奇妙に思ったが、気にしないことにした。

「すんごい家だね」

コウが屋敷を見て言った。白いお屋敷には焦げ茶色をした窓枠がいくつも並んでおり、そこにはキラキラ光るステンドグラスがはめ込まれている。それぞれ描かれている模様が異なり、真夜中にも関わらず美しく神々しい光を放っていた。

――「こんばんは」

後ろから声がした。真たちが振り返ると小柄なおばあさんが1人立っていた。とても人懐っこい笑みをこちらに向けている。

「こんばんは」

真とコウがほぼ同時に挨拶した。おばあさんが近付いてくる。

「お二人さん、お名前は?」

おばあさんの柔らかな口調に真の警戒心は薄れていく。2人はそれぞれ自己紹介をした。おばあさんはニコニコしたまま2人を屋敷に招いた。

「なかなか悪くない家でしょう? 私の家で、先祖代々ここに住んできたの」

真は驚いた。これが噂のマフばあ?ずっと都市伝説だと思っていた存在が目の前にいるかもしれない。そう思うと真は尋ねずにはいられなかった。

「おばあさん、もしかして貴方はマフおばあさんなんですか?」

おばあさんは立ち止まり、こちらを振り向いた。

「はいそうですよ。ご近所さんからはマフばあなんて呼ばれてますねえ。真ちゃんもマフばあと呼んでね」

「マフばあだとちょっと失礼な気がするので、マフおばあさんとお呼びしますね」

真が朗らかに言うと、おばあさんはニッコリ微笑んだ。


3人は屋敷の玄関前に立った。高さ2メートルを超える古めかしい木製の扉が2枚、そこに並んでいる。ドアノブなどは無く、大きな取手がついている。おばあさんはその取手をつかみ、ゆっくりと前に引っ張った。扉は小気味いい音を立てて開く。真はウチもこういうのがいいなと思いながら扉をくぐった。するとそこには真が予想していなかった光景が広がっていた。上まで10メートルはありそうな高い天井。中央に向かっていくつも置かれた横に長いベンチ。そしてキラキラ光るステンドグラス。これ教会? 真にはとても誰かの家とは思えなかった。真がぼんやり考えていると、おばあさんは2人を置いて前の方にある祭壇らしきものへ向かって進んでいく。

「ここ教会?」

真と並んで立っていたコウが不思議そうに言った。真はコウに同意する。

「やっぱりそう思う? でもマフおばあさんはご先祖から受け継いだ家だって言ってたよね。変なの」

「だね。でも僕はここの空気好きだな」

コウが深呼吸を始めたので真も真似をした。ひんやりとした石の匂いが鼻腔の奥に広がる。悪くない。真もここの空気が好きになった。するとコウがおばあさんの方に向かって歩き出した。真は慌てて後を追う。


中央奥には何か巨大な台のような物が置かれていた。真たちはさらに近付く。それは台ではなく井戸だった。その井戸は何本もの鎖で縛られている。まるで封印されているように見えた。教会に井戸。意味不明な組み合わせだった。

「おばあさん、この井戸は何ですか?」

真が尋ねるとおばあさんは少し悲しそうな顔をして答えた。

「なんと言えば良いんでしょうねえ。これはね、ご先祖様のお墓なのよ」

「お墓? ここに骨が埋まっているんですか?」

「違うの。ここには骨だけじゃなく、全てが埋まっているの。生き埋めにされたんだから」

おばあさんの顔は笑っていない。真は背筋がゾクリとした。すると右手に温かいものが触れた。それはコウの手だった。やっぱり温かい。真はコウの手をギュッと握り返した。

「え?」

コウがびっくりして声を出した。どうやら手は偶然当たっただけのようだ。真は恥ずかしさのあまり、今すぐ目の前の井戸に飛び込みたい衝動に駆られた。

「どうかしましたか?」

おばあさんが不思議そうに尋ねる。コウは苦笑いをしながら首を横にふる。

「ちょっと。でも何でもありません。それよりマフさんはここに住んでいるんですよね?」

真はコウが流してくれたことに心から感謝した。おばあさんはニッコリ微笑んだ。

「少し変わったところでしょう? でもねえ、住み始めると慣れちゃうの」

「そうですね。私も最初は教会かなって思いました」

気を取り直した真がにこやかに言った。おばあさんはクスクス笑ってから言った。

「皆さんそう見えるそうですねえ。でもね、ちょっと違うの。ここはねえ、入り口なんですよ」

「何の入り口ですか?」

真が尋ねると、おばあさんはジャラジャラと大きな音をたてながら井戸の鎖を外し始めた。

「真ちゃんは大丈夫。だってご招待されたんですもの」

すっかり鎖は外され、木の蓋だけが残った。それを見たコウが前に出て蓋の隙間に両手をかける。

「コウちゃんには少し重いかもねえ。代わりましょうか?」

「いえ大丈夫です。できます!」

コウが力を込めた。しかし動かない。真はからかい半分に咳払いをする。二度目、三度目。コウは何度も思いっきり力を入れているが一向に持ち上がる気配がない。とうとうコウは哀願するような目つきで真を見始めた。真はため息をついた。でも先ほどの借りがある。真はコウの真反対に立ち、隙間に手を入れる。2人は思いっきり蓋を持ち上げた。次の瞬間、ポコっと空気の漏れる音がして蓋は外れた。ぽっかり空いた巨大な穴からカビの臭いが立ち上ってくる。2人は蓋を慎重に井戸の横へ立てかけた。

「おめでとう。よくできました」

おばあさんが嬉しそうに拍手する。コウは照れくさそうに笑っている。その様子を見て真も思わず笑った。


3人は開けたばかりの井戸を見つめた。直径2メートル弱の穴は底が見えない。しかもさっきマフおばあさんがとんでもないことを言っていた井戸である。ここに飛び込め?まさかね……真はおばあさんが次に何を言い出すのか恐ろしく思った。

「さてと真ちゃんコウちゃん。これから2人には井戸に入ってもらいます」

やっぱり。嫌な予感はしていた。

「ここにですか……でもロープか何かないと死んじゃいますよ」

「それは心配しなくていいの。よく見て。中に階段があるから」

おばあさんはにこやかに言った。そっか。途端に真の気分は良くなった。コウも隣でウンウンとうなずいている。

「でも滑りやすいから気をつけるんですよ。志保さんも苦労して降りてましたからねえ」

真は背筋に電流が走った。母の名前。やっぱりここにいるんだ。母の名前を聞くと俄然やる気が湧いてきた。

「コウ君行こう」

「そうだね。まずは先に僕が行くよ」

コウが井戸に手をかける。しかし様子が変だ。コウが顔をしかめておばあさんを見た。

「おばあさん階段なんてありませんよ?」

「いいえあります。ほらそこ、よーく見て」

おばあさんがコウの肩に手をおいて井戸の奥を指差した。コウはその先をしげしげと見つめる。

「もっと前に出なきゃ。よーく見て」

コウは身を乗り出す。次の瞬間だった。コウが姿を消した。真は呆気に取られて動けない。それから数秒後、はるか下の方から音がした。グシャっ、何かが潰れる嫌な音だった。コウが井戸に落ちたのだ。いや落とされた。おばあさんがケタケタ笑い始める。低くて底意地の悪い笑い声。聞き覚えがある。真はおばあさんの方を見た。いない。その時、腰の辺りで嫌な感触がした。それが胸のあたりまで這ってくる。真が急いで見ると、それは青紫色の肌をした2本の手だった。

「こんばんは。真。迎えに来たよ」

真が急いで身をよじるが動けない。女は勝ち誇ったように笑った。真の体がゆっくりと浮かび始めた。持ち上げられている。1cm、2cm、3cm……。気づけばもう足がつかない高さまで来ていた。真は大いに焦った。この女が考えていることはたった1つ。自分を井戸に叩き落とすこと。真は死の恐怖を感じて全力で暴れた。しかし女はガッチリと真の体をつかまえている。真の体は井戸の真上に来た。生暖かい空気が下から流れてくる。そして女は静かに言った。

「さようなら真ちゃん」

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