第1話 奪われた大切なもの

山城やましろさん、お誕生日おめでとう」

多くの生徒が下校前の掃除を始めようと動き始める中、一人の女の子がまことに話しかけてきた。小学校から一緒の子で、小さなリボンが付いたお菓子をくれた。

「うわっ、ありがとう!」

いきなりのプレゼントに驚いたまことが急いで笑顔を向けると、女の子も笑顔を返して遠くの方にいる友だちの輪に戻っていった。その子ともう少し話したかった真は恨めしそうに集団を見た。すると彼女らの声がかすかに聞こえてきた。

「えーリッコあの子と友達だったの?」

「そんなんじゃないよ。ただ誕生日に1人なのは可哀想ってだけ」

「つかアタシ、あの子が喋ってるの始めてみたわ」

「私も。私も。お前、話せんのかよって驚いた」

何人かがクスクス笑う。さっきお菓子をくれた子も笑いながら言った。

「やめなよ。聞こえちゃうじゃん」

聞こえてるって。真の心はチクリと傷んだ。真は貰ったばかりのお菓子を握りつぶし、スカートのポケットに無理やりねじ込んだ。家族以外に自分の誕生日を覚えてくれている人がいる。そんなささやかな幸福感は一瞬でしぼみ、どこかへ飛んでいった。



午後4時を少し過ぎた頃。いつものように掃除を終え、担任教諭の連絡事項を聞き流しながら真は遠くの空を眺め続けていた。ホームルームが終わると真は徒歩数分の場所にある小学校へ義理の妹里菜りなを迎えに行く。教室に着くと里菜りなは見知らぬ女の子と話していた。

「ま・こ・と! おバカ姉。お姉ちゃんのくせに妹を待たせすぎ。私おなか減りすぎ。待ちくたびれたすぎ」

真の姿を見るなり、里菜は大声で文句を言った。

「うっさい。帰るよ」

真は里菜のくだらない言葉遊びを無視して、すぐに帰り支度をさせる。そのつれない態度に里菜はムッとした。里菜は真が別の方向を見ている隙にランドセルを素早く持ち上げ、教室から一気に飛び出した。真は呆気にとられた。それでもすぐに正気を取り戻し、残された里菜の友達に謝る。

「ごめんね。あの子おバカだから」

「お姉さんも見えてるんだね。でも無闇に話しかけないほうが良いよ。人に見られたら気味悪がられるから」

「……え? あーそういうこと」

「そういうこと」

女の子は大きく微笑んだ。そして真の見ている目の前で、煙のように姿を消した。

その後、すぐに真は里菜の後を追った。すると廊下の奥で勝ち誇った顔の里菜が真を待っていた。

「あの子、あれだったんだ」

里菜は表情を変えずにうなずき、さっさと歩き出した。

「あの子のことは気にしないで。たまに出てくるから、その時におしゃべりするの」

「危険じゃないの?」

「いい子だよ。周りに人がいる時は出て来ないし。これも多様性ってやつ?」

里菜が振り返り、はにかんだ。真には里菜がちょっと大人に見えた。



学校から10分ほど歩いたところに真たちの家はある。真は広くないけれど暖かなクリーム色をした建物を見るといつも心からホッとする。やっと帰ってこれた我が家に入ると、さっそく日課に取り掛かった。まず玄関先に置いてある小皿に盛られた塩を交換する。それから肩口に塩をかける。これらのお清めは遠いご先祖様が有名な祈祷師だったらしい頃から続く山城家の伝統だった。里菜は面倒だと嫌がるが、真は心の汚れを落としているようで好きだった。日課が終わるとすぐ、2人は協力してオヤツを用意し始めた。今日はチョコバナナミルク。すると里菜が思い出したように言った。

「そういえばお姉ちゃん今日が誕生日じゃん。おめえでとさん!」

「今ごろ。さいてー」

真は口では責めたものの、里菜が覚えていてくれたことは内心嬉しかった。

「お父さん知ってるの? 朝いなかったからよく分かんない」

「ちゃんと知ってます。薄情なアナタとは違います。携帯にメッセージ残してあったよ」

「ひひ。そっか。なら今夜は外食じゃん」

里菜は嬉しそうにガッツポーズした。真はピザが良いなと思った。


しかしその途端に真はある事を思い出した。そしてゆっくりと確かめるように口を開く。

「ということは、あの人も来ちゃうのかな……」

里菜は「あっ」と小さく声を漏らし、真に聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで「たぶん来るよ」と答えた。そしてひっそりと真の顔色をうかがう。真の右頬がぴくぴく痙攣している。ストレスで苛立っている時にでる癖。非常に面倒なことになりそう。そう直感で悟った里菜は話題を変えるべく、あれこれと考えを巡らせた。しかし何も思いつかなかった。


1時間後。2人はシェイクをすすりながら宿題をこなしていた。やがて玄関で声がし始め、鍵を回す音がする。真の気分はさらに深く落ち込んだ。1人じゃない。あの人もいる。せっかくの誕生日につれてくるなんてお父さん馬鹿なの?と心の中で静かに憤慨していると、2人の慌ただしい足音が近くに迫ってきた。彼らは真たちがいるリビングに入ってくる。

「ただいま」

真にとっては義父、里菜にとっては実父である山城裕二やましろゆうじが帰ってくるなり声をかけてきた。そしてその後ろには1人の女性が立っている。一ノ瀬結衣いちのせゆい。義父裕二の新しい恋人だった。

「マコちゃんリッちゃん、こんばんは」

にこやかに挨拶する結衣に真は心の中で舌打ちした。今日も可愛い。ふわっとした淡いピンクのサマーニットにベージュのパンツ。そしてほどよくカールさせた少しブラウンがかった長い髪。いつも髪を短く切りそろえ、スカートは制服でしか履かない自分とは違って結衣は非常にフェミニンでおしゃれ。いつも大人の女性といった装いをしている。それがまた真の癇に障った。

「結衣ちゃんカワイー!」

空気を読まない里菜が真の目の前で結衣を褒めそやした。結衣は照れくさそうに「普段着だよ」と謙遜している。むかつく。真は小さな裏切り者に腹を立てながらも、平静を装って裕二に尋ねた。

「おかえり。お父さんあれやった? 塩」

「あれ面倒なんだよーでもやったよー」と裕二はメガネを直しながら微笑んだ。真は義父裕二の笑顔が好きだった。いつも優しさにあふれている。思わず真も笑顔を返した。

「それで今日どうするの? 里菜は外食したいって」

「あー……実はさ、僕もせっかく真の誕生日だから美味しい店を探してたんだけど、彼女がどうしても真に手料理をごちそうしたいって言うんだよ」

裕二が言い終わるかどうかのタイミングで真の頬は激しく痙攣した。それに気付いたらしい裕二は慌てて付け加えた。

「いやいや手抜きなんか絶対しないよ。ちゃんと良い食材と前菜も買ってきたから。それと彼女料理には自信あるんだって。大丈夫」

「そうなの。マコちゃんに気に入ってもらえるよう良さげなレシピを揃えてきたんだ。食材も良いの手に入ったし、マコちゃんのために頑張るね」

二人のやり取りが聞こえていたらしい結衣が胸を張った。真も詳しくは知らないが、彼女は料理関係の仕事をしているという。真は不満を表に出さないよう作り笑いを浮かべ「よろしくお願いします」とだけ言ってリビングを去った。しかし内心おだやかではいられなかった。


真が部屋で鬱々としている内に時間はあっという間に過ぎた。時計はまもなく夜の7時を指そうとしている。里菜が下から階段を登ってくる音が聞こえた。

「おねーちゃん。できたっ! 早く!」

里菜の大声を聞いて、真はゆっくりとベッドから起き上がった。そして嫌々に足を動かす。気持ちだけはベッドに残し、真は裕二と里菜とあの女がいる台所へと向かった。

「どう? 結構すごいだろ。自信作」

裕二が豪華な料理の数々を前に誇らしげな顔をしている。裕二と里菜も手伝ったらしい結衣の料理は、たしかに控えめに見てもプロ級だった。どうせ見た目だけ。真は溢れる敵意を胸に、無言で席についた。里菜がせっせと一人で給仕をつとめている姿を見て少しだけ罪悪感を覚えたが、結衣の姿が目に入ると心は氷のように冷えきった。隣では結衣と裕二は二人で楽しそうにデザートの下準備をしている。真のお祝いというよりデートにしか見えない。真は怒りと吐き気を必死に堪え、ありったけの呪いの言葉を頭の中で投げつけた。


こうして楽しいお誕生日会は始まった。目の前に並べられたのは具沢山のビーフシチュー、鴨肉のソテー、チーズがかかったナチョス、よくわからないサラダ、フライドポテト、何かのパン。熱心に説明する結衣いわく、不規則に見えて実はそれぞれにストーリーがあるのだという。例えばビーフシチューはアメリカの詩人XJケネディが愛したアイリッシュウイスキシチューであるといった具合に。


しかし真にはどうでも良かった。たしかに味は美味しく、里菜はうるさいほど美味しいを連呼している。その様子を見て結衣や裕二も嬉しそうにしている。だが問題はこの二人であり、真が最も避けたいシナリオをいつか口にするのではないかと恐れていた。

「さっきから黙ってるけど、イマイチだった?」と裕二が尋ねてきた。

「いや美味しいよ。結衣さんって本当に料理が上手なんですね」

真は感情を見抜かれないよう愛想笑いをしながら答える。結衣は照れくさそうに笑っている。気づかれてない。真は少し安心した。しかしこういう時だけは勘の鋭い里菜がノド元に食らいついた。

「お姉ちゃん、今日どしたの。いつも変だけど今日は変すぎるよ」

真は言葉が出なかった。何を言ってもウソ臭くなりそうで、何も言えなかった。その様子に裕二が急に心配そうな顔をし始める。

「なにかあったの? 大丈夫だから正直に言いなさい」

「何にも無いよ。本当」

「いや嘘だね。あたし分かるもん。マコト、お前は嘘をついている」

里菜がスプーンを真の鼻先に突きつけながら、芝居がかった口調で真に問いただしていく。真はそれに呆れつつも、場の雰囲気を悪くするのも怖かった。

「わかった……。じゃあ正直に。えーと、お父さんとそして結衣さんに聞きたいことがあるの」

裕二と結衣は背筋を伸ばして真を見つめる。

「あのさ、二人はこれからも真剣なお付き合いしていくの?」

裕二は不可解そうな表情をした。

「うん……そのつもりだけど。ダメかな」

里菜は2人のやり取りにもう付き合っていられないといった様子でかぶりをふった。

「お姉ちゃん! ウジウジしてないで、スパッと聞きなよ。お父さん。お姉ちゃんは2人が結婚するつもりなのか聞きたいの」

皆が静まり返った。時が止まったかのように誰も動かない。

「その、なんていうか」と裕二が口火を切るがうまく言葉が出てこない。

すると結衣が代わりに話し始めた。

「まだ付き合って半年だし、今すぐ結婚するまでは考えてないよ。でもね、正直いつかっていう気持ちはあるかな」

やっぱり。真は結衣の言葉に胃が抜け落ちたような感覚がした。

「マコちゃんはどう思うの? 嫌?」と結衣は真に尋ねた。

「嫌というか、んー」

うまく言葉が出てこずモジモジする真に里菜が助け舟を出した。

「お姉ちゃんはお母さんのことを心配しているんだよ。それに私は前々からこれ不倫にならないの? って思ってた。お母さん出てったけど結婚したままでしょ」

「不倫?」

裕二は大きく目を見開いた。そして罪悪感からなのか、目を伏せて考え込んでいる。

そんな裕二を見かねて、またしても裕二の代わりに結衣が答えた。

「実は弁護士の方に相談したんだよね。志保さん。つまりあなた達のお母さんが失踪してから3年が経過した先月の時点で、婚姻契約は破棄できるんだって。婚姻契約というのは結婚のことね」

結衣の説明に真は驚いた。やっぱり結婚する気満々じゃん。真の心にフツフツと怒りが湧いてきた。しかし結衣はそんな様子に気付いておらず、里菜の方を向いたまま話を続けた。

「それに不倫というのは違うかなと思うよ。言っちゃなんだけど悪いのは志保さんの方。結婚には同居する義務があるのに、それを破ったのは志保さんなんだよ?」

「でもお母さんにも何か事情があったと思うんだよね」

「そうかもね。でも手紙の1つでも出せたと思わない? いくらなんでも人として最低だよ」


――ピシッ。

突然、結衣のグラスにヒビが入った。皆の視線が結衣のグラスに集まる。中に入っていたビールがみるみる隙間から溢れ出し、テーブルの上に広がった。志保が慌ててグラスを流しに持っていく。

「お姉ちゃん!」

里菜が責めるような目つきで真を見た。横でせっせと拭いていた裕二もそれに同意する。

「それはダメだって、僕ら決めたよね」

「……わざとじゃないよ。つい出ちゃっただけ」

真は罪悪感を隠すようにうつむいた。ちょうどその時、結衣が戻ってきた。助かった。真は初めて結衣の姿を見て安堵した。

「ごめん。グラス割れてたみたい。一応軽く洗っといた」

「いいから気にしないで。古いやつだったから」

裕二が結衣の背中を優しくさする。いつもの優しい笑顔。結衣はそれを見た途端、裕二の顔にグッと顔を近づけた。皆が驚いて見つめている中、裕二の唇にキスをした。唐突なキスに少し呆気にとられた裕二だったが、すぐに笑顔に戻って裕二も結衣にキスを返した。里菜はニタニタして2人の様子を見ている。しかし真だけは違った。2人のベタベタした様子を見て、真の心の中にはまた強く激しい怒りがぶり返していた。


――パンッ。

今度はワインボトルから破裂音がした。ボトルの横に亀裂が入り、しみ出したワインでラベルが赤く染まる。結衣が驚きと恐怖が入り混じった顔でボトルを見た。

――パンッ。

もう一度。結衣が甲高い悲鳴をあげた。亀裂はさらに大きくなり、テーブルにはみるみるワインの水たまりが出来上がる。裕二が険しい表情をしながら急いで真に近づく。

――バンッ!

大きな炸裂音と共にとうとうボトルが吹き飛んだ。ボトルの上半分は原型なく粉々になり、かろうじて残るボトルの底部分でなんとかワインボトルだったと認識できる程度。そして破片が料理や皿、グラスの中などあらゆる所に飛び散っている。テーブルの上はもはや無事である所を探すほうが難しい状況だった。結衣は恐怖でうずくまり、里菜はそんな結衣をなだめている。

 

 真は自分がした重大な過ちをただ呆然と見つめていた。すると真の肩に何かが触れる。それは裕二の手だった。途端に真は我に返って振り返る。恐る恐る見た裕二の顔に怒りはなかった。何も言わず、ただ酷く悲しそうな顔を浮かべている。かえってそれが真にはとても辛かった。真は涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえて言った。

「ごめんね。気分が優れないから部屋に行くね」

「ついて行こうか?」

裕二が気遣わしげに尋ねてきた。裕二はいつも優しい。自分がこんなことをしたばかりなのに。真は罪悪感で今すぐ消えてしまいたかった。

「お父さん。1人になりたいから、そっとしておいて。本当にごめんね」

真は残された気力を振り絞り、這うようにして自分の部屋に戻っていった。

「様子見てくる」

部屋の隅で怯えている結衣をなだめていた里菜が真の後を追った。

「酷いこと言っちゃダメだよ」

裕二は力なく言った。里菜はチラリと結衣の方を見てから2階に駆け上がっていった。


真が部屋に入ろうとすると、里菜がすぐ後ろから追いついてきた。

「来ないで。1人にして」

どんな顔をすべきか分からず、うつむいたまま真は里菜を制した。しかし里菜は言うことをきかない。

「お姉ちゃん。少し話そっか。お姉ちゃんの気持ち聞くよ」

「話したい気分じゃない」

「んーん。たぶん今話さなきゃならないと思う」と里菜は食い下がる。真は苛立ち気味にため息をついた。それから無言で部屋に入り、里菜に背を向けてベッドに寝転んだ。

「……で、話って何」

真は里菜から背を向けたまま尋ねた。いろいろな感情が一度に押し寄せ、どんな顔をすべきかも分からない。するとベッドのスプリングがきしむ。そして里菜が真横で話し始めた。

「結衣さんの何がダメなの? 良い人そうじゃん」

「別に問題なんかない」

「お姉ちゃんってウソがド下手だって自覚ある? あんだけ怒ってたら誰だって分かるよ」

「結衣さんのことは嫌ってない。素敵な人だと思う。お父さんも幸せそうだし、私も応援してるよ」

「じゃあ何なの? ただ大人がキスしただけであんなに怒ってさ。やっぱりお母さんのこと?」

「意味不明」

「だから、お母さんのこと裏切ることになるんじゃないかと思ってるでしょ」

「違う。そんなこと思ってない。いや少しはある。でもお母さんは自分の意志で出てったもん」

真の声は次第に震え始める。それに比例して心の奥底にしまいこんだ感情がどんどん溢れてきた。

「あの人は私達と暮らすのが嫌いで出ていったんだよ。たぶん私とお父さんのことが。だからお父さんが誰かと結婚しても裏切りとか思わない。でも……」

それから泣きそうな声になりながら真は里菜へ恐る恐る尋ねた。

「今から言うことを聞いても軽蔑したりしない?」

「うん。絶対にしない」

里菜は優しく、そして力強く答えた。

「私、怖いんだよね。お父さんが結婚したら私他人じゃん。だって誰とも血が繋がってないんだよ。それ家族じゃないじゃん。私どうすればいいの」

真はもはや溢れる涙を抑えることはできなかった。一人で抱え込んでいた感情が静かに溢れ出す。そして真は静かに泣いた。もはや声を出さないようにすることが精一杯だった。するとそんな真の背中を里菜は黙ってギュッと抱きしめる。里菜の体は温かかった。真は里菜の手に自分の手を添わせて「ありがとう」とだけつぶやいた。


――カランカラーン。

あまりに唐突だった。何の前触れもなく鐘の音が耳元で鳴った。それと同時に部屋の電気がパチンと消える。いきなりの出来事に真と里菜の心臓は飛び上がった。二人はベッドから起き上がり、今耳にした音の出どころを探す。しかし部屋の中にはそれらしいものは何もない。真は立ち上がり、窓の外を見た。何もない。遠くに光る電灯しか見えない。真の心にはもはや悲しみはなく、ただ困惑だけが広がっている。

「お姉ちゃん。いま」

――カランカラーン。

里菜の声をかき消すように、またしても鐘の音がした。今度はベッドとは正反対の角から。ほとんど何も見えない中で2人は必死に目を凝らす。部屋の隅。そこに大きな黒い物体が立っていた。それがゆっくりと自分たちの方へ近付いてきている。真は今にも心臓を吐き出してしまいそうだった。だんだんと物体の正体が見えてきた。それは物ではなく女。黒い大きなベールで全身を覆った背の高い女。女は葬式で着そうな黒いドレスを身にまとっている。分厚いベールから2本の腕らしきものがかすかに透けて見える。その腕の先には金色に輝く小さなベルが握られていた。真と里菜は大きく目を見開いたまま身動きすらできない。


「泣いてる子はだれ?」

その黒い女が低く通る声で聞いた。真たちは体が硬直して言葉を発することができない。すると女はさらに近づいてきた。足音を立てず、滑るようにして真たちの目の前に立った。そして体をググッと折り曲げて、真の顔を覗きこむ。

「泣いてる子はだれ?」

真は今すぐ気絶したい気分だった。40過ぎ、または50代、もしかした60代かも。年齢が読み取りにくいのは、とても血が通っているようには見えない青紫色をした肌のせいだった。こいつヤバい。真は心底ゾッとした。理屈ではなく本能的にこの女は関わってはいけない存在な気がした。緊張で汗が滲み出してくる。女は微動だにせず、鼻先数十センチの所で真を凝視している。すると女は真の目を見ながらニヤリと笑った。あまりの恐怖で息が苦しくなってきた。無意識のうちに真はゼイゼイと肩で息をし始めた。


「泣いてる子はお前か?」

ひっ。真は無意識の内に小さな悲鳴をあげた。女の笑顔はどんどん狂気じみていく。真はあまりの恐怖で体が硬直し、今にも泣き出しそうだった。その時。

「私! 泣いてたのは私。お姉ちゃんじゃない」

里菜だった。里菜は真の体をグイっと後ろに引き寄せ、女との間に割って入る。そして代わりに女の目を凝視した。なんとかお姉ちゃんを逃さないと。里菜の顔には断固たる決意がみなぎっている。女は笑うのを止め、今度は里菜に顔を近づけてきた。里菜に怯む気配がないのに気づくと、軽く舌打ちをした。

「嘘をつくんじゃない。恥知らず。お前のような嘘つきにはヘドが出る」

女は吐き捨てるように言うなり、ガシッと里菜の両肩をつかんだ。次の瞬間、里菜は悲鳴を上げた。急いで身を前に乗り出した真は驚きの光景を目にする。女の黒いドレスの胴体部分に大きな穴が空いており、そこから別の手が2本這い出してきていたからだった。その手は素早く里菜の頭をつかみ、里菜を穴の奥に広がる闇へと引きずり込んでいく。里菜は雄叫びのような悲鳴をあげて暴れたが、それも長くは続かなかった。頭から爪先まで数秒もかからず飲み込まれていく。とうとう里菜の姿は完全に消え、あたりには沈黙が流れた。真はあまりの恐怖に腰が抜け、その場でへたり込んでしまう。その姿を見て、女は実に愉快そうに低い声でゲラゲラ笑い始めた。

「情けない。真。お前は怯えることしか能がない。哀れな子。お前のような子は生きる価値がない」

散々な言いようだった。しかし真は怒りを感じる余裕すら無く、ただ震えている。


やがて女は満足したのか笑うのをやめ、真に言った。

「真、お前の母、志保さまがお前を待っておられる。6日後の夜12時、迎えに来る。待っていなさい」

真はポカンとした。お母さんが待っている? こんな所で母の名前が出たことが信じられなかった。いつのまにか先ほどまでの強烈な恐怖は薄らいでいた。

「……お母さん? お母さん近くにいるの?」

真が声を絞り出すように尋ねるが女は答えない。女は無言で右手を前に差し出した。そして右手に握っていた金色のベルを床に落とした。ガチャンと鈍い金属音がして、ベルが真の足元に転がり込む。真は少しの間、そのベルを凝視していたが、ふっと我に返って女の方を見た。女は目的を遂げたらしく、最初に現れた部屋の隅に向かって滑るように歩いていた。真は急いで追いかける。


「ちょっと待って。里菜を、里菜を返して!」

真は半分泣きながら懇願した。しかし女は見向きもしない。もはや真には何の興味もないようだ。女はそのまま吸い込まれるように隅に広がる闇へと消えていった。その瞬間、消えていた部屋の電気が戻った。女が歩いていった部屋の隅にはただの壁しかない。真は恐る恐る近付いて壁を触った。何もない。もはやただの壁だった。お父さんにどう説明すれば良いの。なんで誰も助けに来なかったの。あいつ何なの。お母さん。意味わかんない。真の頭の中は色々な考えでグチャグチャになっていた。今起こった出来事を真は涙を流しながら必死に整理する。そうしている内に真は急に体が重くなるのを感じた。長く続いた極度の緊張で体が限界に達したようだ。深い眠気が真の意識を深い底へと連れていく。必死に抗おうとするが、体がそれを許さない。ついに真は床の上で眠りに落ちた。

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