シーカーの誕生

今江

第0話 ゴミの城

――マフばあの家は呼ばれた者しか入れない。もし呼ばれずに足を踏み入れた者は二度と帰ることができない。


木影町に住む子どもなら誰でも知っている有名な都市伝説だ。マフばあの家とは木影町の中央を流れる大きな川、星屑川ほしくずがわの真横に建っている有名なゴミ屋敷のこと。大学の卒業証書と引き換えに好奇心を失った大人たちは見向きもしないが、刺激を求める子どもたちにとっては肝試しの聖地である。その辺りは地盤がゆるいせいで、近くに建物が1つもない。家の周りは高い塀とその塀を越すほど高く積み上げられた無数の粗大ごみに囲まれ、外から向けられた好奇の眼差しを一切通さない。


家の四方を囲む高い塀の南側。そこに1つだけ縦に細長い門がついていた。その黒く完全に錆びついた鉄製の門の前に男の子と小さな女の子が並んで立っている。2人の名はそれぞれコウと美羽みう。兄妹である。1人だけで行くのが怖かったコウは、アイスクリームを条件に半分無理やり妹を引っ張ってきた。

「ちょっと見るだけだから」

コウが隣にいる美羽をなだめるように優しく言った。美羽は不安そうにスカートの裾を握りしめている。

「お兄ちゃん。やっぱやめようって。ここ不気味だよ」

「ほら、あれが本当か調べたらすぐ帰るから。ちょっとだけ。ね?ちょっとだけ」

コウは美羽の頭を撫でた。美羽が心配そうに見つめる中、コウは錆びたドアノブに手をかけた。しかしピクリとも動かない。今度は両手で力任せに上下に動かしてみる。今度はドアノブがわずかに動いた。それでも途中でガチッと鈍い金属音がして止まってしまう。どうやら鍵がかかっているようだった。コウは憎々しげにドアノブを見た。コウがよじ登れないかと見上げてみると、よく分からない模様の鉄格子が2メートルを超す高さまで隙間なくハマっている。乗り越えるのも無理そうだった。


コウは「うー、だめだっ」としかめっ面をしながら門を蹴った。そんな様子を眺めていた美羽はクスクス笑い出した。

「お兄ちゃん、誰か男の人を呼んできたら?」

コウは一瞬ムッとした顔をしたが、すぐに思い直してすがりつくように妹の手を両手で包み込んだ。

「お願いします。手伝ってください」

コウは美羽の目を覗き込みながら、必死に哀願する。美羽が眉を吊り上げてコウを睨むと、コウは彼女の意図に気付いた。

「本気?ここ砂利だらけなんだけど」

美羽は笑顔でうなずいた。コウは渋々地面に両膝をつく。そして再度「美羽様お願いします」とできる限り哀れっぽくつぶやいた。

兄の情けない姿に満足した美羽は軽くため息をついてから尋ねた。

「でもどうすんの?私たちじゃどうしようもないでしょ」

「いや多分、こっちから見えないだけで、ドアの裏に鍵かなんかがついてるよ。だって鍵穴がないもん」

男の子は立ち上がりながら自分の推理を自信満々に語った。そして下の方を指でさしながら、美羽に向かってニヤついた。門と地面の間に20センチほどの隙間が空いている。美羽はゾッとした顔で身構える。

「もしかして、ここに潜れって言ってんの?」

妹の声から怒りの兆候を察知したコウは、素早く両手を合わせて祈るようなポーズを取って懇願し始めた。

「ここを開けてくれたらアイスを増量します。約束する」

2人はしばらく協議を重ね、その結果ハーゲンダッツ2個で話はついた。


美羽は不安そうな顔をしながら門の前にヒザをつく。そしてゆっくりと隙間から向こうを覗いた。コウの期待通りだった。美羽は小柄で細く、顔を真横に傾ければ何とか通れそうだった。髪の毛が門や地面に触れたが、つっかえる様子はない。そのまま這うように進むと意外なほどあっさりと通ることができた。お気に入りのスカートが砂まみれになってはいたが、美羽の顔からは達成感が感じられた。それから門の反対側にいるコウへ笑顔で叫んだ。

「美羽ちゃん、通れましたー」

背後から聞こえる歓声を無視して、美羽は辺りを見回す。美羽は絶句した。初めて見るマフばあの庭は外から見るより遥かに広大で、まだ昼過ぎなのにとても薄暗い。そして5月の終わり頃でじんわりと暑くなりだしたせいか、辺りにはツーンと酸っぱい臭いが立ち込めている。昭和から飛び出してきたような古めかしい家電や巨大なトランク、マネキンが飛び出している大きなダンボール。極めつけは生ゴミらしき茶色いヘドロがはみ出したゴミ袋など多種多様なゴミが美羽の身長を超える高さまで積み重なっている。

「お兄ちゃん帰ろう。ここ、ほんと最悪」

想像を絶する汚さに、美羽はすっかり冒険心をへし折られていた。

「いいから、まずは鍵を開けてよ。遅い!」

向こうにいるコウの声から苛立ち始めているのが分かる。その様子に美羽は嬉しそうに鼻を鳴らした。それから一応周りに人気がないのを確かめてから、門に近づいてドアノブを覗き込んだ。たしかにコウが推測した通り、裏側にはカンヌキとそれを開けるレバーらしきものがついている。しかしどう見てもガチガチに錆びついていた。

「これめっちゃ錆びてるっ。無理そう! 帰ろ」

美羽が叫んだ。コウは困った顔をして答えた。

「んーまあ一応回してみてよ。駄目なら諦めるから」

美羽はため息をついた。どう見ても錆びついている。美羽の力では到底開けられそうにない。それでも全てはアイスクリームのため。ダメ元で回してみることにした。真っ黒に錆び付いた大きなレバーに両手をかけて意識を集中する。美羽は息を目一杯吸い込み、両手で力いっぱい回した。

――カシャン。

意外なことに、鍵は小気味いい音を立てながらあっさり回った。あまりに簡単に開いたために美羽がバランスを崩しかけたほど。すっかり肩透かしをくらった美羽がポカンと立ち尽くしていると、門の反対側からガチャリと音がしてドアノブが勢いよく回る。

「サンキュ。うわ……。すご。くさ」

中に飛び込んできたコウがゴミの海を見渡しながら驚嘆の声をあげている。美羽は呆れた表情でコウを急かした。

「もう満足したでしょ。サクッと家を見て帰るよ」

返事はない。コウは遊園地にでも来たかのように目を輝かせてゴミの山を探索していた。中でも特にコウの注意を引いたのは巨大なバスのスクラップ。車体は斜めに歪んでタイヤを押し潰し、全体のあらゆる部分が錆びている。かろうじて元の色が赤とベージュらしいということだけが見て取れた。車内は薄暗く、奥の方は真っ昼間にも関わらず完全な暗闇に包まれていた。そして運転席があるべき部分には1本の焦茶色をした太い柱が座席ごと天井まで貫いている。その柱に古い壊れたランプと錆びた金属製の看板がかかっていた。

看板には『ようこそ魂の楽園へ。救済を求める方はご乗車ください』と新興宗教めいたジョークが書かれているのを見て、コウはクスクス笑った。一方で一緒に見ていた美羽は気味の悪さに顔をしかめた。


「かなり暗いよ。本当に進むの?」

美羽が不安そうな声で再確認した。コウは何も答えない。2人はゴミをかき分けるようにして作られた細く曲がりくねった獣道を歩いていた。おぞましい臭気は強くなる一方で、先ほどまで楽しそうにしていたコウも口数がめっきり少なくなっていた。

「お兄ちゃん。答えてよ!」

「あの噂通り、家に入り口が無いのかだけ確認しよう。数分で済むから」

コウはため息交じりで答えた。美羽はうんざりした顔をしながらも、仕方なく兄に付き従う。2人は黙ってゴミの道を進んだ。入り口近くと違ってここのゴミは首のない人形や目の無い剥製など気味の悪い品ばかり。まったく本位ではなかったが、美羽はコウの左手をしっかりと握りしめた。2人がそのまま道に沿って左に進むと、ぽっかりと開けた空間にたどり着いた。その中央には白い小さな台座が置かれ、台座の上には片手に収まりそうな大きさの金色に光るオルゴールが置かれていた。コウは「おおっ」と小さく唸ってから急いで駆け寄り、複雑な模様のオルゴールに手を伸ばした。しかしオルゴールはピクリとも動かない。台座にしっかり固定されていて、蓋も開かなかった。

「すんごいキレイだね。拾ってきたのかな?まさか純金?」

美羽はオルゴールを食い入るように見つめている。コウは「ないって。どっかで拾ってきたんだよ」と鼻で笑う。

「でもこんなのあるよ」

美羽は横に立てかけてある看板を指で示した。そこには『選ばれし者、音が示す』と書かれている。コウは少し考えてから言った。

「うーん、つまり選ばれた者だけがオルゴールを鳴らせるってこと?」

「アーサー王のなんとかみたいな話だね」

「エクスカリバーだよ、おバカちゃん」

ムッとした美羽はコウのすねを蹴った。

「痛った!暴力は反則」

「いいから早く鳴らしてみなよ」

美羽が面倒くさそうにコウを急かした。

「えー嫌だよ。美羽がやってよ」

「こちらは料金に含まれておりません」

「えー酷いよ。僕ばっかりじゃん」

コウは嫌々オルゴールに近付いてから、美羽の方をパッと振り向いた。

「ここスルーして次行こうか!」

「回さないなら私このまま帰ります」

美羽が忽然とした態度で提案を却下する。コウは恨めしそうな目で美羽を見た。それから仕方なく決心する。

「よしっ……鳴らすよ」

コウはオルゴールの右側についた取手へ手を伸ばした。美羽も後ろで固唾を呑んで見守っている。取手がキリキリと音をたてて回り始める。1回。2回。3回。

しかし何の音も鳴らなかった。

「壊れてる……」

コウは落ち込んだ様子でつぶやいた。

「さっきまで悩んだ時間なんだったの。選ばれし者なんてどうでもいいから次行こうよ。さっさと帰りたい」

美羽がウンザリした様子で先を進んでいくのを見て、コウも慌てて後を追った。


それからすぐに白い石の塀が見えてきた。その奥には家らしき建物の上部分が見える。

「お金持ちだねー。塀が2重になってるよ。やっぱあれ純金だったんじゃない?」

美羽が名残惜しそうに後ろを振り返る。コウは呆れた顔をしながら黙って首を横に振った。塀に沿って進むと背の低い門柱が2つ現れた。よく見ると既に鉄の門は開かれている。コウが進もうとすると、美羽が不安げな顔をして立ち止まる。

「これ不法侵入だって……。やばいよ」

「今さらだって。それに見つかったら全力で逃げればいいよ。相手はおばあちゃんだよ? 大丈夫」

美羽は自信満々なコウを説得することを諦めて、仕方なく門をくぐった。


マフばあの家は非常に大きく、幅はゆうに20メートルを超す。全体的にくすんだ灰色の石造りをしていて、どことなく歴史的な価値を感じさせる洋館のような佇まいだった。不思議なことに館と塀の間にはゴミが1つも落ちておらず、綺麗な芝生が敷き詰められている。館の壁には背の高いステンドグラスが何枚もはめこまれているが、暗くて模様はよく分からない。

「すっごい……。お兄ちゃん、あんなの見たことある?でも絶対、外見えないよね……」

美羽は人生で初めて見るステンドグラスに魅入られていた。

一方でコウはそういった物にあまり興味が湧かず、美羽が飽きるのを隣で待っていた。それでも待つのに疲れたコウは「まあキレイだよね。でも、そろそろ先に進もうよ」と美羽を促す。

「でも先ってどこに行くの? この窓は開かないと思うよ」

いつのまにか背後にいた美羽が家を見渡しながら尋ねた。正面の壁には玄関や扉などの類いは見当たらない。

「いやいや、玄関に決まってるでしょ。ここは裏手だよ。バカなの?」

コウは呆れた様子で美羽を罵り、正面の壁に沿って右手の角へ歩き始めた。美羽はムッとした顔をして後に続いた。


2人は角を曲がり、館の右側に回り込んだ。すると、そこにもステンドグラスの窓が並んでいた。しかし他は何もない。

「ないね。どうする? お兄ちゃん帰らない?」

美羽が困った顔をしてコウを見上げた。

コウは質問には答えず「次行くよ」とだけつぶやいた。心なしかコウは早歩きになっていた。

2人は次の角を曲がり、今度は最初に見た壁とは真反対の側にたどり着いた。ここにも扉の類は見当たらず、ステンドグラスの窓だけがいくつも並んでいる。

「いや……ここ変だよ」

コウは声を絞り出すようにつぶやいた。通常の家なら玄関だけでなく庭に出られる縁側や裏口などがついているはず。しかし、そういったものまで一切なかった。今まで見た3つの壁は全て窓しか付いていない。

「お兄ちゃん、この家すごい静かだよね……」

美羽はコウの左腕にギュッとしがみつきながらつぶやいた。確かに先程から音がしない。車が動く音、虫が鳴く声、そして真横を流れる川のせせらぎ。そういった本来すべき音が全く聞こえない。あまりの静寂に耳鳴りがし始めるほどだった。もはや2人には冒険を楽しむ余裕などなくなっていた。

「お兄ちゃん、もう帰ろう。ここ気味悪いよ。帰ろう」

暗い表情をした美羽がコウを急かす。

「そうだね。急いで最後の面を見てから帰ろう」

そう言うとコウは小走りになり、美羽も黙って後を追う。2人は角を曲がって最後の左側に回り込んだ。そこには、またしてもステンドグラスの窓だけが存在していた。コウは呆然と立ち尽くす。

「帰ろう。今すぐ!」

美羽は叫びながらコウの腕を引っ張った。そしてコウを置いて1人で走っていった。もはやこの異常な空間に1秒でもいたくない様子だった。

「ちょっと待てよ!」

慌ててコウが後を追った。美羽はかなり足が速く、不意をつかれたコウは一気に彼女の姿を見失った。コウの顔は焦りでこわばっている。やっとのことでコウも角を曲がり、最初の壁に戻ってきた。灰色の壁、ステンドグラス、綺麗な芝生。相変わらず音もせず、何も変わっていない。辺りを見渡し美羽を探す。いた。塀の側で美羽がうずくまっていた。

「先に行くなよ! 危ないだろ。何してんの」

コウは怒鳴った。しかし美羽は答えない。

「美羽!」

さらに怒鳴る。すると美羽が小さな声で答えた。

「お兄ちゃん。まだ分かんないの? 今私たちがいる場所、どこだと思う?」

コウは怪訝そうな顔をして周りを見た。何かがおかしい。数秒ほど考えてから、コウはやっと気付いた。通ってきた門が跡形もなく消えている。門や門柱があったはずの場所には白い塀が立ち、戻るべき道が塞がれていた。

 

「美羽もう一度回ってみよう、ここ違う場所だよ」

「そんなわけないって。それに私もう疲れた。もう歩きたくない」

美羽は今にも泣き出しそうな顔をしていた。そこでコウは自分だけで探すことにした。

「僕が見てくる。ここにいて。絶対に動かないで!」

コウは叫びながら小走りで右手の角を曲がった。右側の壁、反対側、左側。やはり出口は見当たらない。またしても正面の壁に戻ってきた。すると美羽が誰かと話しているのが見えた。背の高い女と背の低い女。コウは驚いて美羽に駆け寄った。

「美羽!美羽!」

「あーお兄ちゃん。この人達が助けてくれるって。忍び込んだのは謝ったよ」

美羽は久しぶりに笑顔を取り戻した。美羽の側には大人が2人立っている。1人は女ではなく男だった。長髪のため見間違えたらしい。もう1人は人懐っこい笑顔が印象的なおばあさん。

「はじめましてコウ君」

男がコウに向かって微笑んだ。コウはたどたどしく挨拶をした。

「こんにちは。えー……と、僕らを助けてくださるとかで、その……、ありがとうございます」

「別にお礼を言う必要はないよ。だって君たちは大切な客人だから。ゆっくりしていけばいい」

コウは当惑した様子で美羽の方を見た。美羽は肩をすくめる。

「すみません。その……、僕らはもう帰らないといけません」

「そうなんです。私達もう帰らないと両親が心配します。警察だって呼んじゃうかも!」

美羽がまるで脅しのような文言を付け加えた。すると男は愉快そうに笑った。

「なるほど! それは大変だ。でもここへはご両親に内緒で来たんじゃないのかな?」

その通りだった。親に言えば当然ゆるしてもらえない。だから2人は黙ってここに来ている。男はさらに独り言のように言った。

「つまり君たちがここにいることは、誰も知らないわけだ」

男は笑顔が醜悪なものに変わっていく。コウは完全に気圧されてた。

「その……、だから……、できれば道を教えてくれたらすぐに帰ります。これ以上の迷惑はかけません。すみませんでした」

コウは緊張のあまり、手が震え始める。美羽はそれ見て、勇気づけるようにその手を固く握った。

「あれあれ可哀想に。あんまり若い子をいじめないでくださいよ」

今までずっと黙っていたおばあさんが突然口を開いた。その声から優しそうな印象を受けたコウは、すがるような目でおばあさんを見た。おばあさんはコウに優しく微笑んで続けた。

「でもねえ。あなた達もねえ、招待されていないのに忍び込んで、いざ招待されたら断るというのは失礼になるんですよ?」

「本当にすみませんでした。2度としません。僕たちを許して下さい」

コウが頭を下げた。美羽も一緒になって頭を下げる。その2人の様子を見ていた男は、大きくうなずきながら手をパンッと叩いた。

「許す! その年でしっかり謝ることができる子供は貴重だよ。私は君たちを許す! その代わりね、コウ君。君には私のお願いを聞いてもらいたい」

男は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりとコウの背後に回り、両手を肩に置いた。コウの顔には恐怖の色が浮かんでいる。

「……なんでしょうか? 僕にできることなら何だってやります」

男は身をかがめ、コウの耳元でささやいた。


「君には今から妹を殺してほしい」

コウは顔をあげた。そして急いで振り返って男の顔を見た。男は真顔だった。

「頭おかしいんじゃないですか?! 冗談にもなりませんよ」

コウは怒った様子で男に抗議する。横で心配そうに2人のやり取りを見ていた美羽がコウに囁いた。

「なんなの。なんて言ったの?」

「私は彼に君を殺せと言ったんだよ」

男はいつのまにか美羽の背後に立っていた。美羽は小さく悲鳴をあげた。

「お願いします。妹にだけは手を出さないでください。お願いします」

コウは男の袖を引っ張りながら必死に懇願した。とうとう美羽は泣き始めた。それを横目で見たコウがもう一度繰り返す。

「妹が無事だって約束してくれるなら、僕は……、僕はどうなってもいい……」

男は感心したように頷いた。そして黙っているおばあさんに向かって言った。

「オルゴールを鳴らせなかった時はハズレだと思ったが、素材は悪くない。よくやった」

「恐れ入ります」

おばあさんは嬉しそうに笑った。男は改めてコウに向き直る。

「コウ君、遅れながら自己紹介をしたいと思う。私の名は北条時政ほうじょうときまさ。そしてあそこにいる老婆ろうばが君の新しい主人だ」

「なんと! それを私にくださるので。ちょうど新しいのが欲しかったところなんですよお」

「本当にやめてください。私怖いです。家に帰してください」

美羽が泣きながら話を遮った。すると時政はやさしく頬をなでた。そして残虐な笑いを浮かべた。

「安心しろ。これですぐに楽になる」

時政は美羽の額を何かで小突くような仕草をした。次の瞬間、美羽の体は地面に崩れ落ちた。あまりに一瞬の出来事にコウは身動き1つ取れない。男はもはや遠慮する素振りすら見せなくなった。

「妹は眠っているだけだ。だがいつでも殺せる。コウ、妹を助けたいか?」

コウが注意深く美羽を見ると、たしかに胸が上下に動いている。眠っているようだ。コウは安堵したように息を大きく吐き出した。それから時政を遠慮がちに見た。

「……なんでもします。妹だけは許してください」

男は満足そうな笑みを浮かべて、老婆に合図を送る。老婆は笑い声をあげながら銀色に光る何かを時政に手渡した。それはナイフだった。20cmほどの長さで、キラキラと白銀に光り輝いている。時政はそれを愛おしそうに撫でた。それからゆっくりと柄の方をコウに差し出して言った。


「これで自分のノドを切り裂け」

コウはよろめいて尻もちをついた。ナイフが足元に音をたてて転がった。恐怖で膝が笑っている。しかし時政は容赦なく繰り返す。

「決めろ。お前が自分のノドを切り裂けば妹は助けてやる。やらないならお前ら2人とも殺す」

コウは美羽を見た。老婆が美羽の首を締める真似をしながら笑っている。コウはゆっくりと手をのばし、美羽の手を握った。温かく小さな手。コウは寂しそうな顔をして美羽の手を優しく撫でた。それから落ちていたナイフを拾い上げギュッと握りしめる。コウの顔にはもはや恐怖や寂しさといった類の感情はなく、決意だけが満ちていた。ピンと背筋を伸ばし、ナイフをゆっくりと自分の首筋にあてる。そして時政に向かってコウは言った。


「約束ですよ。妹だけは助けてください」

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