第38話 2004年 ~わたしはただ、眠りたいだけなのに……-1

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 ボーカルの田中零が、シルバーメタル、という曲名を告げた瞬間、歓声にホールが揺れた。満員の観客が、一斉にメロイックサインを送ってくる。照明が逆光になり、その姿はシルエットでしかなく、昂揚感も相まって、わたしの現実感は著しく希薄になっていく。


 今自分がどこで何をしているのか――。


 体の中身が周囲の音に溶け出して一体化して、わたしという存在が浮遊していく感覚。


『 粘度の高い日々がゆっくりと

  光の速さで過ぎていた    』


 歌詞が入ってくる。

 いつもの練習の声ではない。

 わたしはギターのチョーキング音と共に、悦に入る。


『 無垢だった君は飾り立てられ

  美の象徴として祭り上げられていく

  悠久の星空よりも深く、

  遥かなる地平線よりも広大に

  いつしか観念の中に埋没していく 』


 市川がどう思ってこの歌詞を書いたのか、当時は何もわからなかった。

 誰もその意味は聞かず、ただの音の連なりとしてのみ理解され、そして歌いつづけられた。


 ここで語られる「君」とは、わたしのことだ。

 今ならわかる。

 これは市川からわたしに対する求愛の詩なのだ。


 『 だが君は知らないだろう

   この白い光輝の安らぎを

   メタルの神が遣わした至高の瞬間 

   それは――           』


 今までにない快感に、体が震える。

 指板をおさえている指先から、頭の先までしびれが伝わっていく。

 ギターを弾いているのか、ただ音の波に乗って漂っているのか、わからなくなる。

 体の中心が――子宮が熱くなってくるのが感じられた。


 『 シルバーメタル

   シルバーメタル 』


 かすかに残っている意識のなかで、田中零の姿が認識できた。

 マイクはすでに観客の方に向けられている。

 ああ、今、あの『メタル・ボックス』でライブを行っているんだ。そんなリアルも、頭の片隅に追いやられて、薄く薄く引き伸ばされていく。


 『 シルバーメタル

   シルバーメタル

   シルバー……  』


 その後のギターソロは、体が覚えていた。

 ドラムのタム回しが終わった瞬間に、高音域の弦を押し上げる。

 断末魔の悲鳴のような耳をつんざく歪み音が響き渡った、その刹那――。

 時間が止まった。

 ギターの残響音だけがぐわんぐわんと共鳴している。

 ドラムは? ベースは? 

 疑問は生まれたけれど、そんなことはすぐにどうでもよくなる。

 しばらくすると、音の反響は自分の体の中で起こっているのだと、認識できた。音が、波長が、体の隅々を駆け巡り、そして自分のものではないような感覚のない四肢の隅々まで浸みこんでいく。

 体の中心、子宮のあたりから、熱が発散されている。

 とにかく、熱い。燃えているようだ。

 音が、波長が、入ってくる。私という殻を砕き、細胞壁を貫き、そしてコアに届いた瞬間に感じる強烈な快感に、理性は霧散する。


 目の前に続く真っ白な道を、軽やかにスキップを踏みながら、ただひたすらに進む。

 道の両脇には、真紅のオブジェが並んでいる。

 裸の男女の像や、あからさまな男性の性器、女性の乳房。それらが全て、真っ赤に彩られ、前方、道が続く限りどこまでも続いている。

 踊るようにステップを踏んでいるわたしの周りを、どこからともなく飛んできた小さな天使たちが、ぐるぐると旋回している。その少女たちは全裸だった。その背中からは羽が生えている。


 よく見ると、その天使は全て、わたしだった。

 銀色の髪は耳を覆い隠す程度の長さで、赤い紅を引かれた唇がてかてかと鮮やかに輝いている。濁りのない目は見開かれ、まったく瞬きする様子も見られない。それがどこか人形のようだ。

 天使は三匹、五匹、とその数を増やしていき、いつの間にか数えきれないほどの少女たちが宙を舞っている。


 ふと気づくと、わたし自身も全裸だった。

 いつのまにそうなったのか、思い出すことはできない。

 持ち物もなにもなく、そしていつになく体が軽い。このままどこかに飛んで行けるのではないか。ふとそんな妄想に囚われ、思いっきり空へと体を躍らせてみる。

 視界を覆い尽くす天使たちの群れを抜け、そしてぐんぐんと上空へと舞い上がっていく。

 雲のない透き通った空。白い空。何もない空。

 大地を見下ろすと、白い道の両脇に、ぽつぽつと毒々しい赤が目についた。

 どこまでも続くその赤と白のコントラストは、ずっと視界の先の方で、二股に分かれているのがわかった。

 わたしは急速に下降しながら、意識をその二股道へ向ける。


 地面に降り立つ。

 天使たちがまとわりついてくる。最初の個体が付いてきていたのか、それともこの道沿にどこもかしこもうようよと存在しているのかはわからない。なにしろ、全てがわたしの顔なのだ。髪の長さも肌の質感も寸分変わらない。見開かれたまま閉じられない、死んだその両目も。

 ふわりふわり、と漂っているその天使たちを横目に、わたしは前を見る。

 道が二股に分かれている。

 よく見ると、まっすぐに続く道と、枝分かれのように斜め前方に伸びている道、その二股であることがわかる。

 立ち止まり、それぞれの道の先へ視線をめぐらせる。

 まっすぐな道の先には、地平線以外なにもない。ただ道が続いているだけだ。枝分かれした道の前方も、まったく同様だ。

 それなら、どちらも同じなのではないか?

 わたしの逡巡に呼応するように、天使たちが戸惑い始めるのがわかった。互いに顔を見合わせて何やら耳打ちしては頷き、そして、唇の端だけを上げて笑みを形作る。相変わらず目は全く笑っていない。

 次々に、天使たちはその数を増してきていた。

 よく見ると、天使たちがなんとなく道を規定しはじめていた。

 まっすぐに進む道には、わたしの歩みをさえぎるように天使たちが蠢く。そして枝分かれの道の方に向けて誘導するかのように、両脇を固め始めた。

 わたしの目にはもう、道は一本しかなかった。

 天使たちの誘導にあらがうことなく右にそれて、そのまま枝分かれの道に足を踏み入れた。

 右足を一歩、左足を一歩と、踏みしめる。

天使たちも道の両脇で赤のオブジェの周りをぐるぐるとまわりながら、こちらを見守っている。

 右には全裸の男性のオブジェが、こちらを睥睨するように立っている。

 その巨大な赤に、わたしは身震いする。

 左には、性器だ。子どものものもあれば、成熟した大人のものもある。

 今までと何も変わらない、と最初は思った。

 しばらく歩くと、わかった。この道には男性の物しかないのだ。

 枝分かれする前までは、裸体像にしても性器にしても、男女のものがまんべんなく並んでいた。ある意味でバラエティに富んでいたように見えたのだけれど、今はただひたすら同じ形のものが続いているように感じられる。気持ちが悪くなるような、筋肉質な肉体美と性器の連続。

 体が重い。

 今まではスキップを踏めるほど、そして上空へ跳び上がれるほど軽く感じられていたのに、いつのまにか体の水分が汚泥にでも入れ替えられたように、鈍重で陰鬱だ。

 歩みは遅くなっていたけれど、視界は開けてきていた。

 なんだろう。ずっと視線の先に茫洋とではあるが、光が見える。銀色の光だ。

 天使たちはいつのまにか、わたしの腰のあたりを飛んでいた。その速度は遅く、そして羽はくたびれて疲れた様子だ。

 それでもその目は相変わらず見開かれている。

 ふと、気づいた。

 注視していなければ見落としていいただろう。一匹の天使は、顔に筋が入っている。それも一本ではなく、複数。ひび割れている、といった方が正しい。

 見回してみると、今までよりもかなり個体数を減らしている。

 振り返ってみた。と、背後の道の上には、いたるところに天使が横たわっている。大量の天使の死骸だ。命の光が感じられず、どこか薄汚れている。

 ここはいったいなんなのか、天使たちが死んでいるのを訝しむべきなのか、悲しむべきなのかそれとも、喜ぶべきなのか。

 なにも感じず、何も考えず、その死屍累々の天使たちに背を向けた。前方には、丸いのか四角いのか、それとも形などはないのか、それすらわからない、銀色の光。

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