第10話 2015年 ~ヘヴィメタルのためなら…… -10
仕切りの向こう側の人物も気づいて席を立ち、通路に出てきた。水瀬春紀や市川よりも若干年上に見える男だ。その服装やたたずまいからも、ある程度の年齢であることが窺われた。
楢崎と呼ばれた男は、最初は少し驚いたように目を見開いて、水瀬春紀と市川に順番に視線を移動させていたが、すぐに笑顔になった。
「久しぶりだね。水瀬君、市川君……と、そちらは――」
「あ――」
唐突に視線を向けられた瑠奈は、反射的に立ち上がり、頭を下げた。
「榛原です」
「ああ……ええと……」
言葉に詰まっている楢崎に、
「おれの……会社の後輩ですよ」
と、水瀬春紀がいった。
楢崎は、はっとしたように水瀬春紀を見つめ、しばらく時間が経ってから、そうか、とだけ呟くようにいった。それだけだった。
いったいこれは何なのだろう? 単純に、居心地の悪い空気だ。瑠奈にはそう思われた。
「戻ってきていたのは聞いていました。また挨拶に伺おうかと思っていたのですが」
「いや、気を使わなくてもいい。むしろ私のほうからそちらに足を運ぶべきなんだ」
市川と楢崎は、妙にかしこまった挨拶を交わして、すぐに沈黙する。
「教授に就任されたんですね」
ぽつり、と水瀬春紀の口から言葉が出てきた。零れ落ちてきた、という表現が正しいのかもしれない。
「どうしてまた、生理学系に?」
「いやなに」
と、表情をゆるめた楢崎が、いった。
「今の時代、一つの学問分野に固執していても仕方がない。科学技術は、すべて根底のところでは一つなんだ。これから一つの学問を究めるよりも、多種多様な分野をいかにしてコラボレーションしていくか、そういうところに重点を絞っていこうと思ってね」
当初の戸惑いからようやく立ち直ったかのように、楢崎の口からはスラスラと言葉が吐きだされてくる。
「市川とは偶然ですが共同開発をすることになったんです」
水瀬春紀の方も、こわばっていた表情が崩れて、笑みが形作られる。
「またちょくちょく大学には足を運ばせてもらいますので、機会があれば――」
「ああ、そうだな……また……」
曖昧にそういうと、楢崎は、そのまま自分の席に戻る。同席している人間を待たせては悪い、という体ではあったが、どうもあまり長く話したくはなさそうな雰囲気も感じられた。
こちらも席に戻る。しかし、あからさまに口が重くなった市川と、笑みは作っているものの、沈黙している水瀬春紀に、瑠奈の方が耐えられなくなった。
「そろそろ行きましょうか。明日も仕事ですし」
そう切りだすと、特に異論なく皆帰り支度を始めた。
またメールで報告します、と頭を下げる市川に、瑠奈も頭を下げて、そのまま背を向けて最寄駅に向かう。その帰りの車中で、思い切って訊ねてみた。
「あの、楢崎……先生、ですか? あの人って、水瀬さんの恩師かなにかですか?」
「ええと、そうだな。大学時代のだいぶ上の先輩で……そして、大学院でも……まあお世話になった人だな」
「先輩ってたしか、大学は小阪大学で、大学院は京津大学なんですよね?」
それはどこかから仕入れた情報だった。
水瀬春紀はしばらく時間を置いたあと、いった。
「おれが京津大学に入ったのと同じときに、楢崎さんも小阪大学から京津大学にうつったんだよ。ちょうどポストが空いたかなんかだったと思うけど」
そこから小阪大学と京津大学の話になり、すぐに瑠奈が降りる駅が近づいてきた。
「水瀬さん――今日はこのまま帰りますか?」
唐突に、そう訊いてみた。
「ああ、そのつもりだけど……」
曖昧な返事が返ってきて、その次、瑠奈は喉から出かかった言葉を押し殺す。そして、そうですか、とだけ口にして、そのまま沈黙した。
駅に到着すると、軽く会釈して電車を降りた。
榛原瑠奈が帰宅した時、自宅マンションには明かりが灯っていなかった。ひょっとするとまだ胡桃が帰ってきていないのかと危惧しながら靴をそろえて脱いでから室内へ足を踏み入れると、すぐに白色光が灯った。
「お帰り、お姉ちゃん」
胡桃が現れた。ボサボサの髪をかき上げながら、眠そうに目をこすっている。制服の裾に不自然な折り目が付いているところから推測すると、帰宅してソファかどこかで寝てしまったようだった。今瑠奈が帰ってきた物音で目が覚めたのだろう。
「ちゃんと着替えて寝なさいね」
いいながらも、どこかに外出してまだ帰ってきていないのではなく、ほっと胸をなでおろす。最近夜に出歩くことが増えた胡桃に、ちょくちょく注意をするのだが、その都度、軽くあしらわれているのだ。
特に近頃は熱心にギターをいじっていることが多い。ピックアップをいじったり、新しいエフェクターをどこかから手に入れてきたりと、バンドメンバーとしては喜ばしいことなのだが、姉の立場からすると、見ていてひやひやすることが多い。
基本的に音楽をやっている人はいい人だと信じているが、中にはそうではない人がいることも、榛原瑠奈は知っている。
胡桃は頑固なところがある反面、びっくりするほど世間知らずな面もある。それは十七才という年齢を差し引いてみても、やはり世間一般の感覚とはどうもずれている気がする。
ともすると、よからぬことをたくらんでいる男に、適当な言葉でホイホイとついていってひどいことをされてしまわないだろうかと心配でならない。
高校生になって色気づいてきたのか、軽く化粧までするようになった。部屋にオシャレな服の載った女性誌が何冊も積みあがるのも、もう見慣れた風景になった。瑠奈はそれほど洋服には興味がないぶん、胡桃のその変わりようが劇的で、ついていけなくなってきている。
「金曜日のスタジオ練習、ラシルも来れるんだって……だから、もうその日にいっちゃおうよ」
ソファに身を横たえてスナック菓子を食べる胡桃は、垂れ流されているテレビ番組に目を向けたまま、いった。
「そうねえ。じゃあ、その日の夜にこの家に招待して、発表といきましょう」
本当は、もし今日水瀬春紀がちょっと寄っていくという話になれば、話してしまおうと思っていたのだが、うまく誘えなかった。もう少し単刀直入に来てくださいとでもいえば、今ここに彼がいたのかもしれない。
「それと」と、胡桃がペットボトルのお茶に手を伸ばすべく、体を起こす。
「土曜日、例のライブに行ってくるから」
「例のって……ああ、ラシルが前紹介してた、知り合いのイベントってやつね……まあ気をつけて、行ってらっしゃい」
楽な部屋着に着替え終わった瑠奈は、
「それより、先にお風呂いってきてよ。あとがつかえてるんだから」
いいながら、胡桃を急き立てる。
うえ、と露骨に顔をしかめたものの、ぴょこん、と跳び上がるようにソファから立ち上がった胡桃が、そそくさと浴室へ消える。
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