第9話 2015年 ~ヘヴィメタルのためなら…… -9
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「――と、ここまで話してきたのは、一般にフェルミオロジーと呼ばれる分野だよ。金属の電子状態を解明することを目的としている」
「ふぇるみ……おろじー?」
耳慣れない言葉に、たどたどしく口にした瑠奈は、わざとらしく首をかしげてみせた。隣で水瀬春紀が苦笑しているのがわかった。
「電子物性の観点で金属であることの定義は、フェルミエネルギー準位に動けるキャリアがあることなんだ。そういう意味で、フェルミ面というのはすごく重要で、僕はその観測を行っているんだよ。そのために、ド・ハース効果を見ている。ああ、それで、その実験装置が、さっき見てもらったあの『白い箱』だよ」
この田中研究室と、新しい金属材料を共同開発することになっているのだが、実質的には会社が資金を出して、開発自体は全面的に大学側にお願いするスタイルだ。
実際に対応してくれているのは、市川という助教だ。はっきりと聞いてはいないのだが、水瀬春樹の態度から推察すると、この市川がかつての知り合いということなのだろう。
「すると、あの新しい合金も、フェルミ面の観測をしてデータを出していく、ということでしょうか?」
「そういうことになるかな」
瑠奈は、市川の言葉に熱心に耳を傾けながらメモを取る。
「どうでもいいけど、もうそろそろ今後のスケジュールをまとめてしまおうか。どうせ科学的な話なんか聞いてもわかるわけないんだから、任せとけばいいよ」
「でも――」
瑠奈が振り返ると、水瀬春紀は、
「まあ、訊きたければ訊けばいいけど、続きは飯でも食べながらにしないか?」
腕の時計をとんとん、と叩いて合図してきた。
ああ、と二度ほど頷いた瑠奈は、市川のほうへ再度顔を向ける。
「じゃあ、先生――今晩は、ご予定は大丈夫なんですよね?」
「ああ、別にいいけど『先生』は、やめてくれないかな……僕はそんなたいそうなもんじゃないし……」
「え? でも」
「市川さん、ぐらいに呼んでやってくれよ」
水瀬春樹が助け船を出してくれる。
「まあ、会社では『市川先生』といっておけば、なんの問題もないしね」
「そう……ですね」
と、どうにかこうにか笑みを作り、
「では、市川さん、行きましょう。どうせ会社持ちですから、ちょっといい所で食べましょう……で、誘っておいてなんですけども、どこかいい店知ってますか?」
小阪大学からほど近く、『777』という店だ。
色褪せてはいるものの、なぜだかそれほど古さは感じられない二階建てのこじんまりとした小屋だ。水瀬春紀と市川の話によると、もう二十年近く学生に愛用されている大衆飲み屋のようだ。当然料理の量に対して、値段は手ごろに設定されているとのこと。
まだ六時にもなっていないためか、客はほとんどいない。一組だけ、一階の奥でひっそりと飲んでいる学生らしき集団がいる程度だった。二階に通されたあと、好きな席にどうぞ、と促され、一番奥の仕切られた席を選んだ。
「ここの主人は、本当は『666』という名前にしたかったんだ」
「『666』ですか?」
二杯目のビールも半分ほど飲み干した瑠奈は、少し熱くなってきた頬を両手でさする。
「オーメンだな」と水瀬春紀が口をはさむ。
「さすがにそれは、奥さんに止められたらしい。それで妥協して『777』にしたみたいなんだけど、スリーセブンと呼ばれるようになって、逆にポップな感じになってしまったみたいだ。学生はどちらかというと、パチンコのフィーバーからとられたと勘違いしている人が多いね」
ふうん、と曖昧に相槌をうつ瑠奈に、市川がいった。
「すいませんね。こんなところしか紹介できなくて」
「ああ、いえ……逆に申し訳ないです。本来はこちらが準備しておかないといけなかったんです」
「いいだろ、別に」と水瀬春紀が間に入る。
「教授も一緒に来るんなら話は違うけど、どうせ市川だけなんだし……そういえば、珍しいな。だいたい共同開発っていうと、実際には現場に任せるにしても、まずは教授が出てくるのが通例だけどな」
「そうですね。田中教授って、最初にチラっとだけ出てきて、名刺交換したらすぐに退室して、そういえばそれから一回も顔見てないですね……しまった、出るときに挨拶ぐらいしておいたほうがよかったですよね?」
そういって目を向けると、水瀬春紀は小さく頷いてから、なにかをいいかけて、やめたようだった。小首をかしげる瑠奈には曖昧な笑みを浮かべて、そのまま店員を呼び止めてビールの追加を頼んだ。
仕事の話、そして、他愛のない雑談を続けながらビールを飲み進めているうちに、市川もだいぶ打ち解けてきた。
「学生時代は、よくここに小さなスピーカーを持ち込んで、好きな音楽を適当に流しては主人に怒られる、というパターンだったよな……」
水瀬春紀が、市川に話しかける。
その表情は、アルコールの力もあるのか、いつもよりも朗らかだ。
「ん? ああ……そうだな」
逆に市川のほうはどこか煮え切らないような、なにか伝えたいことを喉の奥で押しとどめているかのような、そんな風に見えた。あくまでも瑠奈の印象だ。ひょっとすると、元々そういう反応をする人なのかもしれない。
市川は、ビールのジョッキに手を伸ばし、そして一気に残りを飲み干した。
「あ、次頼みましょうか?」
「ごめん。よろしく。同じもので」
店員を探すべく周囲を見回すと、いつの間にか客が増えていることに気づいた。ざっと見たところで三分の二ほどの席が埋まっている。腕時計を確認すると、八時になっていた。
店員を呼んでから、よく見ると水瀬春紀のジョッキもほぼ空いていることに気づいた。追加の確認をしようとその表情をうかがうと、さきほどまでとは全く表情が変わってしまっている。思わずこちらが声をかけられなくなるほど、そこには深刻な顔が張り付いていた。
呆気にとられている瑠奈には構わず、ゆっくりと立ち上がった水瀬春紀は、通路に出る。仕切りを挟んでちょうど自らの後ろの席のほうへ視線を向けている。いつの間にか、市川もその隣に並んでいた。
「楢崎……さん」
と、この言葉は市川の口から出てきた。
ナラサキ? と脳内にある情報を検索してみるが、何も引っかからない。おそらくはこの二人のかつての知り合いかなにかだろう。
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