愚者が往く、アナタの許へ

九葉ハフリ

プロローグ

 ───私は森を駆けた。

 背後を振り返る事もなく、思考の一つも過ぎらせないまま、ただ本能に身を任せた。

 鬱蒼と繁る先の見えない逃避行。臨む未来に希望など何一つ窺えず、待ち受けるのは皮膚を裂く苦みばかり。

 影がただただ先に伸びていく。

 光は未だ見えてこない。今のところ、ほんの欠片を狭苦しい木々の隙間から睨むように見上げたくらいで、それも一瞬で通り過ぎてしまった。

 弱気が胸の内から脈々と根を伸ばし、脚を鈍らせにくる。

 抜け出せない森の渦中。

 背後を決して振り向かないよう、代わりにしがない過去を振り返った。

 仄暗いくきを飛び出たのは、果たしてもういつになるか。

 何を恐れ、何に怯え、何から逃げたのか、もはや私にはわからない。

 最初にあったのは感触だった。

 芯を凍らせまいとする冷気。

 身を萎縮させまいとする岩の硬さ。

 目を覚まし、次に来たのは途方もない孤独感だった。

 私には記憶がなかった。現状にはまるで役に立たない知識は思い出せても、それを身に付けたり経験する過程の、エピソードに関する記憶は思い出せる気配さえもなかった。

 冷たい風が吹き、現状の空虚をこれでもかと叩きつけてくる。

 何もない。得られるモノなど微塵もない。

 洞窟の入り口付近で、無様に何も出来ず座り込む一人の人間。それが私だった。他に誰もいない。

 周囲にあるのは岩と樹木のみ。あまりにも色彩に欠けた現在いま。過去と未来は暗い闇に閉じている。理不尽にも岩壁に挟まれて身動きが取れない。そんな気分だった。

 まさしくその時であった。

 背後の“何か”に反応し、私はその場から飛び出したのだ。

 一つの事実として。

 私はどうやら、ひどく臆病な人間らしい──。

 

「……振り返って得られたことはそれだけかい、私」

 そうとも。情けなくもそれだけだとも。

 名前を忘れ身分も見失った“私”には相応しい過去だろう。

 何らかの危機から脱し、命があるだけ良しとしようではないか。

 息を乱し、樹木の根っこに身を預けながら、そうやってひとまず心も落ち着かせる。

「さて、これからどうしようか……」

 原初の課題に直面する。

 当然ながら、私には何もない。持ち物は今着ている服くらいの物である。それでも当面の目標くらいは持っておかなければ、この先生きる事もままならないだろう。

「……だれかに、会いたい」

 喉が渇いていて、他に空腹を訴えていながら、ふと口を突いたのはそんな願いだった。

 そうだ。私はおそらく、誰かに会おうとしていた気がする。その誰かはまったく思い出せない。理由も。けれど漠然としたその思いだけは確かに湧いたのだ。

「───そうだな、記憶を……」

 記憶を取り戻そう。それは当面などと狭い範囲ではなく、記憶を失ってから始まった『今世の私』の至上命題としよう。それはきっと、今の私にとって何よりも大事な枷に思えるから。

 そうと決まれば。

「町だ、とにかく人の多い町を目指そう」

 当面の目標もこれで固まった。

 体力もいくらか回復し、私は立ち上がった。

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