第6話 キシュウ

 二階の床が崩れた。


 文孝は三階に向かう階段の踊り場で息を整えていた。

(危なかった。もっと早くヒビの存在に気が付くべきだった)

 破壊が鎮まったと見切りをつけて二階に、おそるおそる今逃げてきた場所へ引き返して様子を見た。

 先程まで自分が歩き回っていた通路の床が半分以上崩壊し一階の床に落ちている。

 覗き込むように二階の床が落ちた先――一階の惨状を見た。幾つもの瓦礫の破片が積もっていて平らで安全に着地出来る場所が見当たらない。二階の通路を改めて見渡すと、あらかた足場は崩れている。何とか残っている場所を伝って向こう側に行ったり一階に続く階段の前の瓦礫の山を崩すことは無謀と思えた。それに大丈夫そうな床に見えても文孝自身が上に乗れば重さで壊れてしまうかもしれない。というより今にも崩れそうだ。

 どうやら後には引けないようだ――そう確認した文孝は震える足取りで再び三階への階段を登り始めた。

 ――三階に立つ。

 あちこちの床が抜けている。二階に居た時三階からの崩落に巻き込まれているので想像はしていたが悲惨な状況だ。どんな理由があれ普通の高校生が移動するべき場所ではない。しかし退くことは難しいし自分と子猫の為に進むしかないのだ。

 文孝は忙しなく辺りに視線を動かし何処の穴をどう避けて行くかを考える。覚悟を決めれば何とか進めない状況ではない。

「おーい、誰かいないかっ」

 一応呼びかけてみるが返事は無くこの階には誰もいない事とした。もしも人を見つけていたら助けるのか助けを乞うのか難しい心境だ。

 先程の崩れる音が嘘の様に引っ込んでいる。代わりに自身を包もうとする静けさを感じる事で少しずつ落ち着きを取り戻していく。徐々に周りの景色が見えてくる。

 三階に居る事を実感し始める、懸命に立とうとする両足が微かに震えている。いきなり崩落現場に出くわし慣れない生命の救出までしようとしている。

 非常口が二階と同じように歪んで開かなかったら窓から助けを呼ぶ。そしてそんな時間も無い程建物の崩壊が迫ってきているのだとしたら何かを伝って外に降りるしかない――と、素人感覚で窓から脱出という事を考えているが。

(上手くいくのか)

 文孝は鞄のチャックを少し開ける。こちらを見上げている小さな命と目が合った。

 だから考えて心配するのはひとまずやめた。

(やるんだ、やるしかない)

 文孝は意気込んで一歩踏み出す。その一歩を支える様に次なる一歩が出る。それを繰り返す。今はとりあえず動こうと三階を踏破していく。足場に気を使いながら、時にジャンプをして離れた場所に到達する。今居るところにヒビは無いか目を走らせ、崩壊の前兆となる音が聞こえたりはしないか耳を澄ませる。

 二階で見つけた非常階段の場所を、三階にも当てはめて場所に見当をつけてそちらに進んでいく。慎重に、建物を刺激せず、穴を避けて――三階の非常階段の扉の前に立つ。

(もしここが駄目だったら)

 緊張で体が硬くなる。手に汗を握りながらドアノブをそっと掴んで力を籠める。

 開いた。少し開いた。二階と同じく扉が歪んでいて何処かで抵抗にあっているらしく全て開き切らない。

 文孝は更に力を籠める。少しずつだが隙間が大きくなる。が、段々抵抗が強くなり人間単独の力ではこれ以上開けようとするのは難しくなった。現段階で開いている隙間では自分は通れそうにない。

 ドアノブから手を放し顔を上げて体を反転させて元来た道を見る。

 ――道具を探そう。棒状のモノがあればテコの原理を使って開けられるかもしれない。それと三階の部屋に入れるかの確認だ。入れたら外に面した窓に駆け寄り、伝って地上に降りられそうなモノは無いかを見る。

 それらが駄目だったら――とは考えなかった。その代わり何故こんなに建物にガタが来ているのかふと疑問に思った。相次ぐ崩壊現象を前にして考えるよりも体が先に動き、何故こうなるのかという疑問を完全に抑えて今まで突っ走ってきたが、ここに来て当然の如く疑問が噴出した。

 少しの間、そこに立ち尽くす。

「…………」

 ……いや。今はいい。きっと手抜き工事か何かだ。原因がそうだったと判明したとしても今やるべき事に変わりは無い。この子と一緒に脱出するんだ。

 そう考えて思考を打ち切った。早速行動に移す。


 そろりそろりと、しかし急ぎ足でこの三階で目につく部屋に入っていく。

 まず一つ目の部屋。最初に目についたこの部屋の扉を開けようとドアノブを握って力を籠める。少し硬かったが何とか開いた事に安堵する。すぐに中に足を踏み入れる。

 すると中は。

「え、人……?」

 部屋に入り真っ先に目に入ったのは、入口近くに倒れていた存在だった。長い黒髪を投げ出しうつぶせに倒れている人だと思われた。誰もいないんじゃなかったのかと焦りながら傍に寄る。

「大丈夫ですか?」

 何度かそう呼びかけるも返事は無い。体を揺すってみるも反応は無しだ。黒い長い髪で顔が隠れているのでそれをどかして顔色や瞳孔を見てみようと考える。邪魔になっている髪をどかしてみると虚ろな目と自分の目が合った。少しドキリとしてこの人は死んでしまっているのかと、倒れた存在から心なしか少し距離を取りたくなった。

 この人をどうしようと困っていると、ふと自分に影が差した気がした。

「――うわっ!?」

 何かが横から圧し掛かってきた。倒れかかってきた何かに潰される様にして、床にうつぶせになってもがく文孝。軽くパニックになりながらも自分に圧し掛かっている存在を押しのけてその場から脱出する。

 一体何だ――と思いながら立って倒れてきた存在を見下ろす。

 虚ろな目をした顔と目が合った。髪の毛が無い。

 これは――。

「人形、マネキン?」

 倒れてこちらを見上げるマネキンとしばし目を合わせた後、次に自分が先程呼びかけていた存在に目を向ける。服を着て、髪の毛もついている。一見して人の様だ。しゃがみこみ、腕などを触り握ってみる。固い感触で人間らしくない。

「倒れている人じゃなくてマネキンだったのか。良かった」

 死体じゃなかった事に安堵し、辺りを見回せばこの部屋の様相がはっきりしてきた。服を着ていて倒れている髪の毛のついたマネキンを見た瞬間に人が倒れていると思い込みそちらに意識が行って部屋全体を掴めていなかった。

 ここはどうやらマネキン置き場の様だ。

 壁に沿って何体ものマネキンが並んで立っている。服を着ているものもあれば髪の毛も何もつけていないものもある。

 業務用のデスクがあるが道具らしい道具も無い。ここでマネキンに何かするというよりも只置いて並べるだけのスペースに使われていたと見えた。先程は傍に立っていたマネキンの存在に気が付かずそれが倒れてきたというだけの話だ。

 ふうと一息ついてはっと思い出す。本来の目的、窓から脱出経路を確認、確保するという意志を改めて持って壁際の窓に向けて走り寄ろうとする。

 すると。

「わっ」

 横から何かが転がってきた。それは進もうとした文孝の前方を横切って壁にぶつかって止まった。

 ――。

 先程とは反対側の壁から別のマネキンが倒れて転がってきたのだ。

 びっくりさせてくれるなと思いながら改めて窓に駆け寄る。鍵を外してえいっと開けようとしていると右から何かが立ったまま回転してくるのを視界の隅で捉えた。何だろうと思った次の瞬間。

 ドッ。

「あ、がっ!」

 文孝は急な衝撃とそれに伴う痛みで呻いた。思わず窓から手を放しその場で膝をつく。呻きながら右肩をさする。何かが右側からやってきて窓を開けようとしていた自分の右肩にぶつかったのだと状況を把握する。傍に自分にぶつかったと思われる何かが床に倒れた。

「また、マネキンか」

 はっきりと視認はしていないが、部屋の隅に置いてあったこのマネキンが窓のある壁伝いに自分の体をコマの如く回転させながら自分にぶつかったのだろうと考えた。  今の建物の状況からして床が傾いておりそれでマネキンが不安定になって動いてしまったのだろうと結論付けた。

 驚きと痛みで心拍数が早くなる。少しさすった後、右肩の鈍い痛みは無視して窓を開けようとする。

 が、開かない。力をこめてもだ。

「くそ、また歪んでいるのか!」

 他の窓にも駆け寄り開けようとしたが駄目だった。

 窓をたたき割ってやろうという考えが湧き、拳を握りしめたがふと思う。

 下に誰かが居て割った窓の破片が散乱したら?

 そう懸念した。降ってくる窓ガラスは凶器だ。当たり所によっては相手に軽くない怪我をさせてしまうかもしれない。しかしこちらも切羽詰まっている。

 ――。――。

 逡巡した後、結局引き下がる事にした。棒状のモノさえ見つかればあの非常口から脱出出来る、道具の力さえ借りればあの隙間をもっと大きく出来ると信じて踵を返す。

 不安定な建物の中にいるという意識を持っているとそれに押しつぶされそうなので心の隅に押しのけた。床に転がったマネキンを避けて出入口に向かう。

 開け放っていたドアから外に出た瞬間。

 ゴトン。

 背後で鈍い音がした。気になったので通路に出ていた体を反転させてそーっと中を伺う。


 マネキンの頭が目の前の床に落ちていた。


 傍のマネキンを見ると立ったままの姿勢で首から上が無くなっている。

「…………」

 文孝は無言で部屋を出た。

 嫌な汗をかいていた。さっさと部屋から離れようとするとまたもやゴトンと何かが落ちる音がした。今度は振り返らず次の部屋に向けて先に進んだ。



 次に見つけたドアの前に着くや否やドアノブを握って力を籠めて引くと、勢い余るほどにすんなりと開き、少々バランスを崩した。構わず中に飛び込む。

「?」

 そこはそんなに広くは無い部屋だ。幾つかのデスクが中央に詰められている。先程のマネキンの部屋のインパクトに比べれば特色の無い部屋だと思われたが、デスクの上に置かれているモノが目を惹いた。

 植木鉢である。そして植わっているのは植物ではない。いや、元植物だったモノというべきか。

「本……何で?」

 本、冊子と見られるものが植木鉢に敷き詰められた土の中に植えられている。その姿を流し見しながらも壁際の窓の方へ移動する。開錠を確認して開けようと力を籠める。完全には開かなかったが半分程は開き外の景色が拝めた。身を乗り出し何かを伝って地上に行けないか見てみたが、壁がただのっぺりとした壁であるばかりである。デコボコや少しのとっかかりになりそうなモノは無さそうだ。

 膨らもうとする焦りを抑え気にしない様に、一つため息を吐き気を張りながら踵を返す。

(大丈夫だ、大丈夫だ)

 無意識に何でもいいから脱出に使える物体は無いのかと探していた為か、デスクの上の植木鉢に改めて視線を注ぐ。

 幾つもの、土が敷き詰められた植木鉢の中に本が紙がメモ帳の切れ端と思われるモノが植わってその一部を土の外に出している。本は読むものだという当然の認識を持ち読書好きの文孝からすれば、本を植木鉢に埋めた人間の意図は解りかねた。反感も持った。

「…………うーん」

 少し唸った後、それらから視線を外し出入口の方へと歩き始めながら思う。

 何を考えているんだこの部屋の主は、と。


 二番目の部屋を出て通路に出来た崩落後の穴を避けて進む。新たな部屋の入り口を見つけたのでそこのドアノブを掴んで引くと――すんなり開いた。開けると同時に部屋に入った文孝はすぐに足を止めた。


 ――?


 一瞬入った部屋の気温差がありすぎて、それに戸惑って足を止めてしまったのかと思った。だがすぐにそれは違う様な気がしてきた。

「何だ、この部屋」

 自分が何を感じて戸惑っているのか解らないまま、その部屋の様子を確認する。真っ先に目につくのは部屋の大部分の面積を占めている物体だ。

 それはジオラマである。

 よく見てみるとこの街を模したそれに見える。商店街があり、市役所があり、学校があり、橋があり、川が流れていて。それらを少し観察した後、視線を外し部屋をもっと見回してみる。

 この部屋に入った直後に感じている何とも言えない奇妙な感覚の原因を説明してくれる何かは無いかと探す。壁に設えられた窓が視界に入ったが、奇妙な感覚に意識が行っていて脱出経路を確保するという目的を忘れてしまっている。じっと調査する様に四方を囲む壁や天井全体に目を走らせていく。右側から反時計周りに――。

 部屋の入ってきた自分から見て左側の壁を見ると、すうっとあるモノに目線が吸い寄せられた。


 亀裂だ。


 壁に亀裂が入っている。そんなに大きくはない細長いアーモンド形だ。

 この建物の状況ではそれがある事は何ら驚く事でも珍しい事でも無い。それは解っているはずなのに、そのヒビを見た瞬間何処か惹かれる様にして目が離せなくなった。まるで見えない磁力で視線がくっついてしまったかの様に。

「――――」

 文孝はじっとヒビを見る。特に狭い亀裂の向こう側だ。

 暗く向こう側が見えない。形容しがたい闇を想起させる。

 よく目を凝らしてみても亀裂の奥は暗くて見えない。あれがこちらを見つめる目の形に見えてきた瞬間、ドキリとして気味が悪くなり少し視線をずらした。

 そして依然として奇妙な感覚はし続けていた。

(このさっきからの覚えの無い感覚は何だ)

 ジオラマの部屋の扉を開けて足を踏み入れてから、一呼吸する毎に感覚が起こる。

 いつもの【文視能力】が発動する時の感覚とは違っているとは思ったがそれでも合言葉を言ってみる。

「ゴースト……」

 霊的文章は現れず特に何も起きない。別の何かを感じてのモノらしい。

 これは何だ、落ち着かせようと目を閉じて深呼吸する。感覚は鎮まらない。正体不明の感覚から遠ざかり冷静に立ち返ろうとして耳を閉じてみる。特に変わりなし。

 自分は何かに触れているのだろうか。いや、足が接地しているのみだ。では何か口に入れただろうか、いや何も食べていない。飲食する状況ではない。

 ならば、と文孝は息を止めた。

 ……感覚は徐々に静まっていく。そこで閃いた。

 においか!

 嗅覚と海馬は直接繋がっている。海馬のある大脳辺縁系は記憶を司る脳でもあり、感情・本能を司る情動脳でもある。この部屋の特殊なにおいが鼻から通って行ってそれら脳を刺激していて、それが覚えの無い感覚を起こしているとしたら納得がいく。

 このジオラマの部屋に奇妙なにおいが立ち込めていてそれが覚えの無い感覚の正体であると考えたが、それでもその感覚を言葉にして明確に説明する事は難しく思われた。五感の内、他の四つは当てはまらないのだから今戸惑わせているモノはにおいだ。いざとなったら鼻で呼吸しなければいいと自分の中でまとめるが……。

 奇妙な感覚、確保できない出口。説明しがたく断言出来ない要素によって焦る文孝。止めていた呼吸を再開させて少しでも正答を出して安心しようと先程の霊文の一部を思い起こした。


【三階はキシュウである】


 キシュウ、と来て今真っ先に思いつくのは奇妙な臭い、奇臭である。他にキシュウに関する事があったかと思い起こす。ゴーストが文章にして現わしてきたならば、自分が出くわす可能性が高いからだろう。三階に来て幾つかの部屋を回ってきたがキシュウと呼べるモノに遭遇しただろうかと、記憶を思い返す。

(キシュウと来たら奇襲だ。先程のマネキンにぶつかられた事を言っているのか? 他には何かあったか。本が植わっていた植木鉢の置かれた部屋があったがあれは……そうだ。奇妙な習わし、習慣。奇習と呼べるものではないか)

 自分がこの階に来て経験してきた事を漢字に、同音異句に当てはめていく。


 覚えの無い感覚→奇臭。

 マネキンの接触→奇襲。

 植木鉢に本を植える→奇習。


 複数のキシュウがあったから霊文の書き主はキシュウを漢字にしなかったのかと思う。ざっと霊文と照らし合わせてキシュウという単語とここに来て見知ってきたモノを繋いで簡単な説明を付けてみたが――。

「んーむ」

 唸りながら再び壁の亀裂に目を向けた。この何処か惹かれる亀裂には説明は付けられそうになかった。



 ……どれ位亀裂に意識を集中していただろうか。

 建物全体が身震いする様に揺れた。口を開けたまま亀裂の前で固まっていた文孝は急な事でバランスが取れずその場で倒れて床に突っ伏した。数秒の後にがばっと顔を上げる。

「はっ!」

 揺れたことで建物の異常を思い出し、ここから脱出するという目的を思い出した。 奇妙な感覚によって目的を忘れ、原因を探している内に見つけた亀裂に惹かれて無防備にも時間を幾らか費やしてしまった。

「くっ――」

 倒れた際に体を打った部分を気にせず、窓を開こうとするもここも歪んでいて開かない。手ごろな棒状のモノが無いとざっと見て確認すると、文孝は一旦部屋に入った時からしている奇妙な感覚を無視して部屋を飛び出した。

 鞄が大きく揺れて中の子猫がニャアと鳴いた。


 案を閃いた文孝は先程のマネキンの置かれていた部屋に舞い戻った。

 部屋の入り口近くの床にマネキンの頭部と片腕が落ちているのを発見。

「よし」

 迷わずしゃがんで片腕を拾い上げる。先程この部屋を探索し出た後に頭が落ちる音がし、その後もう一度何かが落ちる音がしたがこれがそうだったのだろう。マネキンの腕が上手く取り外せなかった場合、本体ごと非常口の前まで連れていくつもりだったが容易くすんで良かった。

 しかし疑問に思った。

(何で頭と腕が落ちたんだろう……待て、今はいい!)

 縁起の悪さを感じたし時間が惜しかったので直ぐに思考から外す。そしてマネキン部屋を出た瞬間――少し建物が揺れた気がしたので、立ち止まりマネキンの片腕で自分の頭部を覆った。辺りに耳を澄ませ特に大きな崩壊がすぐにやってきそうにない事を察知すると、崩落で出来た穴を何処か慣れた足取りでかわしつつ非常口の前までやってきた。

「これでっ」

 先程半端にしか開けられなかった非常口のドアの隙間にマネキンの片腕を突っ込み、テコの力を使ってこじ開けようとする。

「どうだっ……!」

 ギギ、と音を立てて徐々に開いていくドア。懸命に汗をかきながら目を見開き、一心不乱に握っているマネキンの腕に力を伝えていく。何度も深く獣の如く呼吸をし足を踏ん張りマネキンの片腕を握る両手に、そして両腕に全力を籠める文孝。そんな彼を鞄の隙間から子猫が見上げている。

 ――。

 ――。

 そして。

 遂に、非常口のドアは人一人が入れる広さまで開かれた。荒く呼吸を繰り返しながら一歩外に出る文孝を外の景色が出迎えてくれる。

「はあ、はあ、やった」

 すぐさま、階段の方に向く。崩れてはいなく、幸いにも通行に支障は無いようだった。息を整える間も持たず、鞄の中の子猫が無事なのを確認しながら非常階段を降り始める。

 最後の踏ん張りどころだ。ここをきっちりとやる。

 この階段が崩れたらどうしようという不安が沸き上がってくる心境の中で、只駆け下りる足を速くするより他無かった。どんどん階層を下げていき――。

地上に足を踏み出した。

(やった、良かった、生きて出られたんだ)

 それで油断せず建物からとにかく離れようとして、このビルに入る前に腰かけていた段差の所までやってきた。

 そこには赤い帽子の男性と救助役として駆け付けてくれたらしい人達がいて何かを話し合っている最中だった。今から中に入ろうとしていた様だ。鞄を抱えて息を切らしてやってきた文孝に気が付いて皆寄ってくる。赤い帽子の男性が安堵したように笑みを零しながら話しかけて来る。

「おお君か。よかった無事で」

「ええ、何とか無事です。子猫も無事に保護出来ました」

 文孝は鞄のチャックを開けて中でうずくまっていた白い子猫を見せる。見下ろしてくる人々に向かってニャアと鳴く子猫。

 赤い帽子の男性が周りの人々に事情を説明してくれていたが、後からやってきた行政職員にも建物に入る事になった経緯を説明する。そして建物に入った後の状況は文孝がかいつまんで説明した。

「中はボロボロで――どんな工事をしたのかと思うほどで――後」

 特筆するべき事柄かわからないが言う。

「奇妙な匂いがしました」

 建物からやや離れた場所で詳しい事情を正確に言葉にして口で放っていく。時々振り返って先程まで中で悪戦苦闘していた雑居ビルを見上げる。特に目立った崩落は今の所起きていない。こうして外から見ていると中の惨状とは無縁の外観をしていた。

 雑居ビルに入ってから外に出るまで三十分以上はかかったようだ。周囲の建物の中に居た人たちは雑居ビル内の崩落音が聞こえたのか、近いような少し遠いような距離で雑居ビルを見上げていた。集まってきた周囲の人々にこの雑居ビルが崩れる危険がある事を周知しなければならない。そう考える文孝。

 危険地帯から脱出したばかりで、額の汗をぬぐい自らの体温の高さを感じながら文孝は然るべき説明を然るべき相手にし続けやがてそれも終えた。

 少し息をつく。呼吸も少し整ってきた。保護した子猫については飼い猫と判明するか、里親を見つけるまでの間子猫を街の施設に預ける事になった。短いそれでいて濃い付き合いに別れを告げる。

「じゃあね、きっと良い里親さんが見つかるよ」

 そう言って白い子猫の頭を別れ際に撫でる。自分を助けてくれたと解っているのか、しきりにその手をペロペロと労う様に舐める子猫。突然の事だったけど一つの命を助けられて良かった、そう意識すると思わず笑みが零れた。



 自宅に着く頃には夕方だった。

 家に帰り興奮で熱の冷めない体を椅子に沈める。

 天井を見上げた。

 ――色んな事があったな。ゆったり読書に浸かる休日の予定だったが。

 いつまでも興奮している訳にもいかず気を落ち着かせようと無意識に鞄の中の本を引っ張り出す。ボロボロだった。爪痕やら噛んだ跡、舐めた跡。

「ふ……」

 少し気が緩んだ。暴れず大人しくしているかと思えば本で気を紛らわせていたのか、本来の用途とは違うが買ったかいがあって良かった。そう感じた。

 自分一人だけの部屋を沈黙で満たしていく。自分の家、自分の部屋だ。解れていく心と体。顔に西日が当たっている。首をそちらの方向へ向けた。窓から夕日が傾いていくのが見える。

「夕日……」

 もうこんな時間か、夕飯の事も考えなければなと立ちあがりながら思う。こうして夕方に食事を用意し、済ませ、一日の終わりに身を預けられるとは幸せだとも思う。あんな危険な場に居た自分が今は家に居られている、安心感……。

 ゆったりと夕飯の用意を出来る事が嬉しい。柔らかな残照が自分を慰め労ってくれているかの様だ。オレンジの光に元気を貰った気がした文孝は、台所に立ち献立を考え始めた。



 夕日。夕方。

 商店街の中にある柱状のモニュメントが倒れ、人々が危ないと離れるのか野次で集まるのかよくわからない動きをしていた今日一日。現場検証をしていた行政職員は突然水しぶきが顔にかかったと思った。やや強めの水しぶきだ。周りにいた人に水をかけたか聞いてみても皆否定するし、誰もペットボトルなどの容器は持っていなかった。しかし床を見てみると濡れている様に見える……。自分の顔に手を当ててみてももう蒸発したのか濡れた感触はしなかった。可笑しいなと思いながらも職員はまじまじと床を見つめていたがやがて本来の業務に戻った。

 そしてその場を颯爽と通過した一人の少女。

 少女は進み、やがてビルやら倉庫が立ち並ぶエリアに入った。とある雑居ビルと思われる建物の前でこれまた行政職員がたむろしている。近くの一般人と思われる人達がしきりにビルを指さして何かを話している。

「どうしたんですか」

 少女はそう言って彼らに近づいた。

「え? ああ、このビルが崩れる危険があるらしくてね。さっき男子の高校生が一人で子猫を救助しに入ったらしいんだけど、中は酷い有様だったらしい。後、何か奇妙な匂いがしたとか言ってたらしいんだけどもしかしてガス漏れじゃないだろうなって今話してたんだよ」

「奇妙な匂い……」

 少女は雑居ビルを見上げた。

「その彼はビルのどこら辺で匂いを嗅いだと言っていましたか」

「ああ、えーと。何だっけ、そう、三階ら辺とか言ってたな」

「そうですか、有難うございます」

 少女はお礼を言って雑居ビルの隣の建物の中に入っていった。そこはマンションであり階段を三階まで登った所で雑居ビル側を向く。

 雑居ビルの側面にくっつく形で非常階段があるのが見える。大体同じくらいの高さの目線の先に三階の非常口のドアが見える。人一人分入れる位、中途半端に隙間が開いているのが解った。雑居ビル三階内部に至る隙間だ。

「……」

 少女は地上を見下ろし、左右や辺りにも目を配る。どうやら誰も自分の姿を見て留めている者はいないようだ。

 少女は自分の顔の両側を流れている黒髪の一部を束ねていた青いリボンを片側だけ外す。それを握る。握り続けていると――垂れ下がっていた青いリボンがピンと跳ね起きた様に水平になった。

 三階の非常口を見る、少し開いたその先に意識を集中する。前方を見たまま体を少しひねり、青いリボンを持った手を顔の高さまで持ってきて。

「ふっ」

 水平に投げる様に腕を振るった。

 青いリボンは長さが当然足りずに落ちるだろうと思われた。しかし水平のまま、どういう訳か長さも伸びて――。

 一本の青く長い線が少女から噴射する様に、向こう側の離れた雑居ビル三階非常口のドアの隙間に突撃した。青いリボンの一方の端は少女が握ったまま、もう一方の端はドアの隙間から中に入っていく。

「――」

 急に伸長し、力強く水平になった青いリボンが三階を低空で這い進む。少女はその青いリボンから伝わる内部の情報を受け取っているかに思える面持ちである。ある程度まで青いリボンが内部を進んだ所で少女の目に宿っていた真剣さが強くなった。それまで雑居ビルに向けて突入した青いリボンの端を握る手を向けたまま動かず静かにしていた彼女だったが、突然指揮を執る如く、或いは鞭を振るう様に腕を動かした。 その動きに合わせる様に内部で青いリボンが踊った。


 三階にあるとある部屋の中で、青いリボンは流麗に流れて見せ、水しぶきと思われるモノを盛大にあげた。

 パン! という音が部屋中に響く。

 巨大な水風船を破裂させた様に部屋中が水では無い水の様な何かで濡れつくした様に見えた……。

 遠く離れた場所にいる少女にはその光景がまるで見えていたかの様。これら一連の青いリボンの動きが少女のするべき事だったのか、少し瞑目した後に腕の力を抜いて青いリボンの端を握る手を雑居ビル側に改めて向け直した。

 ――スルスルと青いリボンが彼女の手元に戻っていく。隣の建物に届く程伸長した青いリボンも巻き尺のそれを巻き戻すみたく長さを縮め――やがて彼女の手に収まった。

「――」

 少女が一息吐いて落ち着くと、水平になっていた青いリボンはぐにゃりと力が抜けた様に垂れ下がった。それを自分の髪に巻き付け直し、やる事は済んだと言わんばかりに早々とマンションの出口に向かった。

 雑居ビルを横目に。

 ここからでは見えない筈の部屋を意識し、視線を送りながら。



 内部で崩壊を繰り返していた雑居ビルは今は嘘の様に静まり返っている――。

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