第5話 子猫を追って
文孝は騒ぎのあった商店街の中のモニュメント周辺から離れた場所に移動した。
頭を働かせながら足を動かす。避難を呼びかける行政職員の声が遠ざかっていく。
――何故あのモニュメントが急とも言える速さで倒壊したのかはわからない。手抜き工事だったか、誰かがイタズラに不用意な力を強く加えたのでヒビが入り倒れるに至ったか。
(倒れてきた時は驚いた。その場で何かしなければと思ったがぱっと見怪我人は居ないみたいだし、それなら行政が調査しやすく自らの安全の為にとにかく現場から離れた方がいいだろう)
そうしてビルやら倉庫が立ち並ぶ場所に辿り着いた。
雑居ビル前で座りやすい段差を見つけたのでそこに腰かける。先の騒ぎで興奮した体を落ち着かせるために呼吸を意識して繰り返していると、傍を通りがかった赤い帽子を被った男性が文孝を見て話しかけてきた。
「なあ君、向こうの通りから来たよね。何だか大きな音がしたんだけど何かあったのかい」
目線を下に落としていた文孝は急に横から話しかけられて少し戸惑った。
相手の顔を見る。40代に届きそうな年齢の男性、といった印象だった。文孝自身にも詳しい状況は解らなかったが解る範囲で答えた。
「商店街の中の柱状のモニュメントがあるじゃないですか。あれがいきなり傾いてきて地面に倒れたんですよ。ぱっと見怪我人は居なさそうでしたが……今は行政職員が来ていて調査しています」
「ええ、そうだったのか。大変な事になっているんだな。明日の新聞に載るんじゃないか……ん?」
口を開けて驚いた様子の赤い帽子の男性がふと横を見たので文孝もつられてそちらの方向を見る。自分の今いる雑居ビル前、その出入口付近に何やら白色で動く物体が視認出来た。文孝が指を指して言う。
「あ、猫」
小さな白猫だった。まだ成長しきっていない白い子猫。周囲を見ても親猫の姿は無く単独で動いている様だった。その白子猫に向かって赤い帽子の男性が身振り手振りで制止しようとする。
「おお白猫か。駄目だぞ、そんな所に入っちゃ。ここは崩れる危険が」
そう言いかけた時だった。
出入口付近の壁の一部分がボロリと剝げたのだ。剥げ落ちたそれはそれなりの音を響かせて地面に衝突し幾つかの破片に分かれた。
うわ、と傍に居た二人は声をあげた。白い子猫にモノは直撃しなかったようだが突然の事で驚いたので慌てて雑居ビルの中に駆けて逃げて行ってしまった。
思わず立ち上がった状態で呆然と崩れた壁の部分を凝視する文孝。口を開けて固まっていたがはっと我に返る。首を動かして傍の赤い帽子の男性の方を見た。
「ここは崩れる危険があるんですか?」
先程男性が言いかけた言葉を拾って聞いてみる。相手の男性は後頭部をかきながら言った。
「ああ、このビルであちこちボロが見られるらしいんだよ。今みたいにビル内部の壁が剥がれたり床の一部がへこんだり。中には何処かしら僅かに傾いてしまって業務に影響が出てしまっているという話もあるんだ」
文孝は目の前の雑居ビルを改めてよく見てみた。一見して普通のビルだ。特にこだわった特殊な外観をしているわけではない。じっと目を細めてみたが、特に築年数は何十年も昔のモノといった感じはしなかった。すぐに当然の疑問に思い当たる。
「中の人たちは避難しているんですか?」
「ああ、勿論だ。今は誰も中には居ないはずだ――けど」
赤い帽子を外してガリガリと頭を掻きむしりながらぼやく。
「猫ちゃん、入って行っちゃったからなあ……」
文孝は入口付近を見た。今あの白い子猫は誰も居ない幾つもの企業が入った空間を彷徨っているはずだ。そしてつい先程崩れた壁の一部に視線を少しやった後ビル全体を眺め回し、自分が危険を承知で中に入り子猫を救助するべきか考えていると。
ドザッと内部で何かが落ちる音がした。上から下に向けて大きな或いは多量の何かが落ちたと思われる音が。
それを聞いた文孝は自分が肩にかけている鞄の中のスペースを確認し、赤い帽子の男性の方を振り返った。
「俺、あの猫を外に連れ戻します。こんな今にも何処が崩れるか解らない建物の中に居たら怪我をするかもしれない。勝手に入る事になりますがもし他の人にそこを問われたら、俺と一緒に事情を説明してもらえますか?」
肩掛けカバンの紐をしっかりと握りしめる文孝を見て赤い帽子の男性は少し顔を曇らせた。
「中に入るのは危険じゃないか?」
「それは猫の方も同じです。大丈夫ですよ、小さな子猫だったし直ぐに捕まえられる。そう簡単にこの建物が大きく崩れる訳ではないだろうし救出する時間は十分にある筈」
「そうか……危険を感じたらすぐに戻ってくるんだぞ。その間にこちらは救助のプロに連絡してその人ら以外は誰も近寄らない様に周知しておこう」
「有難うございます」
それじゃ行ってきます、と言って足早に中に入っていった文孝――。
開きっぱなしの扉の傍を呆れながら通り過ぎる。
(危機管理がなってないな。安全基準に問題が見られる建物の扉が開いてるって。だから猫に入られてしまうんだ。例え入ったのが泥棒だって潰される所は想像したくない)
管理者に文句を言いながら日中のビルの玄関へ。中は涼しく、今は静かだがそれがいつ崩壊するか解らない恐怖を掻き立て想像させた。
ロビーに立って辺りを見回し同時に耳を澄ませる。そうしていると上階から微かに子猫の鳴き声が聞こえてきた。階段の前に移動し上を見上げる。大きな音を立てずに警戒させずに対象に近づこうと考え、階段を静かに優しく踏むように登っていった。
鳴き声は近い。一階から二階への道を行く。もう少しで二階――という所で気が付いた。目の先の二階の通路に瓦礫が落ちている。小山の様になっていて上を見ると小山の真上、二階の天井に穴が空いている。どうやら先ほどの崩落音はここ、見上げている三階床兼二階天井が崩れた時の音の様だ。サラサラと欠片の様な物が零れ落ちている。
(あの子猫も大変だな。単独で心細い中迷い込んだビルの外でも中でも崩落に見舞われるなんて)
そう思って階段を登り切ると瓦礫の小山が出迎える。
二階へ到達――という所で。
「ニャ――……」
か細いその声が先程よりもはっきりと聞こえる。近い――というか、声の源は目前だった。文孝の視線の直線状、瓦礫を挟んで向こう側に不安そうに体を縮め助けてくれと目を潤ませながらこちらを見ている白い子猫が。
「――っ」
飛び出した一歩で止める。二歩目は寸で止めた。
文孝はすぐに駆け寄りたかったが、一気に距離を詰めると驚かれて逃げてしまうかもしれないので姿勢を低くしてそっと近づく。そして小さく高い声で。
「ニャ――……」
と言ってみる。
相手は逃げずにむしろ同じ鳴き声を返してくれた。これ良しと言わんばかりに文孝は少し離れた場所の子猫にそっと優しく手を差し伸べる。子猫は手にエサがあると思ったのか本当に人間が自分を助けてくれる意志を示したと解釈したのかは不明だがよちよちと歩を進めてきて文孝が差し伸べた手をくんくんと嗅いでいる。
(よし、ここからが問題だ)
小柄とはいえ直ぐに掴んで持ち上げて帰り道を走ると、驚いて暴れて逃げられるかもしれない。それは避けたかった。文孝は崩落音、その先駆けとなる音でも聞こえないか耳を澄ませつつ、猫の目を見て手を出し続ける。やがて相手が甘える様に自らの体を、文孝が差し出している手に擦り付け始める。それに応じて撫でる……。
しばらく相手の動きに合わせてあやしていると隠れ潜り込むように文孝の股の間に入ってきて腹の所をよじ登ろうとする。
(……ここまで来たら大丈夫だろう)
文孝はそっと子猫を両手で挟み、ひょいと持ち上げた。そして自分の顔の前まで持ってきて目を合わせる。
「ニャ――……大丈夫。大丈夫だよ。ここから出よう」
子猫はじっと文孝を見つめている。嫌ならば逃げようとするだろう。こちらを見つめたままの子猫を、同行に了承したのだと捉えて文孝は立ち上がった。
(思ったより早く確保出来て良かった)
脱出する為、元来た道を戻ろうと踵を返すと目の前で何かが降ってきた。
ドササッーー!!
視界のど真ん中を流れた上階からの崩落の滝――その音がやがて止まり静寂が訪れる。
文孝は突然の出来事に固まった。肩が上がり四肢が緊張する。
今いる二階の天井が三階の床が崩落したのだ。それも自分が登ってきたし降りる為に使おうとした階段を塞ぐように瓦礫が積みあがった。崩壊が止み音が止んだ瞬間抱えている子猫が音に驚いて暴れだした。素早く文孝の肩を土台にすると跳躍して床に着地。そのまま何処かへ走り去ってしまった。
(しまった――どうする!?)
短時間に立て続けで崩落が起きた事で自分と子猫、双方一刻も脱出するべきという事がより明確に判明する。文孝は猫を探すよりも階段の前に立ち塞がる更に大きな山となった瓦礫に向き直った。
(道を切り開きその後で子猫を探そう。一つずつ瓦礫をどかしていこう)
文孝は階段を通すまいとしているかのような瓦礫の山に近寄り。手近な物を持ち上げる。中々重い。自分が通りやすくする分をどかすだけでも一苦労だ。
ミシッ……文孝の耳が反応した。頭が緊張する。血が引いていく感覚――。
ザッーー……。
雨でも降ったかのように、上階がまたもや崩落した。
文孝は頭を抱えてうずくまった。
何も、何も考えられず只、覚悟して頭を抱え身を縮めるだけ――。
屋内にて激しい土砂降りが屋根を打ち付ける音を聞いていた時を思い起こさせる。
しばらくして崩落音は止む――。文孝は恐れながらも顔を上げる。突然の建材の雨であちこちにコンクリートが散らばっている。まだそんなに月日が経っていないと思われるビルの中の酷な光景だった。
自分の体を確認してみると幸い大きな怪我はしていない様だった。身は竦んでいたいという気持ちがあるが、立ち上がる。
(ここに居たままの方が危険だ! 何でもいいから動くべきだ!)
死にたくない――度重なる大きな音でダメージを感じる耳を敏感に働かせ、目は別の脱出経路を自然と模索する。時間に余裕を感じられなくなり悠長に瓦礫の山をどかして通る方法は除外した。
(三階は難しいが二階なら窓から脱出出来るか、いや非常階段があるかもしれない。だが何処に――そうだ地図は、避難経路は何処かに張り出されていないか)
文孝は地図を探しながらおそるおそる歩いていると非常口のマークとその扉を発見した。ドアノブを掴んで力を籠めるも開かない。押したり引いたりしても開かなかった。
「くそ、歪んでいるのか?」
先程の階段の前に戻り天井を気にしつつ、近くにある部屋を見る。この部屋の外に通じる窓から何かを伝って地上へ行けないかと考えてそちらに足を向けようとする。
その時、はっと思い当たった。
(猫は!?)
先ほどの石雨でパニックになり失念してしまったが、元々は逃げてしまった子猫を連れ帰るために危険地帯に入ったのだ。一刻も早く脱出したい気持ちと子猫を探そうと気持ちがせめぎ合う。
カツン、と音がしてすぐさま振り返ると。
「ニャ……」
先ほどの子猫が小さな建材の欠片を弾きながらすぐ傍までやってきていた。白い毛並みが多少汚れていたが特に目立った怪我はしていないようだ。
文孝はしゃがみ込み、子猫と目を合わせる。
子猫の目。その目。
――――。
ああ、そうか。
そうだよな。
君も死にたくないよな。同じなんだ。
突然の崩壊とその音に脅えながらも近くの存在全てから逃げずに、歩み寄ってきたこの子猫の姿を見た。親猫か里親か、どちらにせよそれらと離れ離れになってもしっかりと自分の四本の足で立っている。この子から生きたいという意志を感じ取れた。
「ごめんよ、一緒に行こう」
先ほどと同じように手を差し出す。子猫はそれに顔を擦りつける。不安定な建物の只中、そのひと時の静寂の中で思いを共有出来た気がする。
生きたいという思いが。
安全に共に脱出という考えを強くした文孝は思い出すとすぐに肩掛け鞄を下ろしチャックを開けて子猫を中に誘う。雑居ビルに入る前、子猫を鞄の中に入れればいいと考えていたのだ。お気に入りの作家の本を電子書籍ではなく実物として持ち運び、陽気な屋外で読書するのを目的とした鞄だ。先客もとい今日買ったばかりの新刊一冊があるとはいえこの白い子猫なら入れるはずだ。
子猫は隙間に顔を突っ込み匂いを嗅いでから、スルスルと入っていった。
(よし。空気を吸う穴を開けておいて。これなら子猫も体内回帰で落ち着くだろうし先程と違って直ぐに逃げないだろう。俺も持ち運びしやすい。後は俺がしっかり出口まで行かれれば)
建材が散乱した二階の通路。先程よりは落ち着いて視られた。自分を、猫を守りたいという意志のせいか真剣にそれでいて慌てない心境だった。
先程入ろうとした近くの部屋の入り口は歪んでいて入れなかった。目につく部屋の入り口に駆け寄っていき開けようとしてみるも同じく歪んでいて開かず。
「……」
文孝はこの建物を建築した人に向けて文句を言いつつも上階へ行こうか考えた。地上と更に離れるのは気が進まないが三階の非常口ならもしかしたら開くかもしれない。駄目だったら直ぐに引き返せばいい。落石覚悟で一階に通じる階段の前の瓦礫の山を崩していくしかない。手頃な棒状のモノがその辺に転がっているしそれで突き崩していくのだ。
そう決めて三階への第一歩を踏みだしたその時。
額に慣れ親しんだあの感覚が来た。肩に食い込む鞄の紐、小さな命の重みを抱えて脱出しようとする心細いこの状況に身を置いていた文孝。これぞ逆転の好機と言わんばかりに期待に胸を膨らませながら額に感覚を集中させて合言葉を言う。
「ゴースト!」
その声が辺りに響く。
三階へ通じる階段の前に現れた縦書きの文章は。
【一階には退けず。
二階に忍び寄る大きな崩壊のヒビ。
三階はキシュウがある】
という内容だった。
目を皿の様にしてそれを凝視する。もしかしたら真剣に見てきた霊的文章トップ3に入るかもしれない位には真剣に凝視した。
体の向きを変えて三階に続く階段に座る。霊的文章は文孝の動きに合わせて目前についてきて表示される。文孝は超集中で目の前の霊的文章を記憶。分析。
(――――、一階に行くのはやはり難しいのか。二階はこれから更に大きく崩れる事になるのか? 二階に居られないなら一階への道を拓こうとするのは無理なのか……それと三階のキシュウって何だ)
キシュウについて思い当たる事は無いか思索する。自分が今背にしている三階への階段を登ればキシュウとやらに出くわす可能性があるがそれが脱出に繋がるのだろうか、それとも阻むのだろうか。
何かが聞こえてきている様な気がしていたが、ピンチの中に現れた霊的文章の解読を優先する。優先していたのだが。
階段に座り思索に沈んでいて俯き気味だった文孝の視界に何かが入り込んできた。
「え」
それを見て思考が停止する。目を大きく見開き冷や汗が出てくる。思索の際、すぐ傍の床を見ていたので視界の変化に気が付けた。
自分の足元を舐めようとするかの如く床にヒビが走ってきていた。思索している時にも床がひび割れる音を聞いていた気がするが何の音か確認せずに無視してしまっていた。
慌てて顔を上げて立ち上がり辺りを確認する。
いつの間にか二階の床のそこかしこに、ヒビが巡っている。それも表面にうっすらとあるものではない、干ばつによって割れた大地に見られる様な――。
大きなヒビ。
二階に忍び寄る大きな崩壊のヒビ、崩壊のヒビ、ホウカイノヒビ……という先程の霊的文章の一部が思い起こされる。
「――――!」
二階の状況を深刻に受け止め、考える間もなく三階への階段を駆け登り始めた文孝。
その背後で二階の床が嗤う様に崩れだした。
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