第7話

 いつの間にか、妻が隣まで近寄ってきていた。


 私が手を伸ばすと、妻はそれをやんわりと拒絶した。顔を上げ、その表情を見た瞬間、ひやりとした。決定的に感情をそぎ落とした人間の顔は、機械よりも冷たく見える。

 他を寄せ付けぬ氷の視線を私に注ぎながら、行くわ、と小さく呟いた妻は、そのまま背を向けた。

 私は思わず立ち上がり、その後姿を呼び止める。妻はドアに手をかけたまま立ち止まり、


「これもヒーローの妻の宿命よ」

 と、決意のこもった言葉を放つと、部屋を出た。

 しばらくその後姿の余韻に浸っていた私は、突然の衝撃に前のめりになる。何とか倒れる前に踏ん張って即座に振り返った。

 目の前の床には、うつ伏せの小男。視線を上げると、赤い顔のリーダーが肩をいからせている。その額に、つーっと赤い筋が入る。血だ。おそらく頭のどこかを切っているのだろう。

 

 いったいこいつらはなにをやっているんだ? 

 

 私は疑問を感じながらも急いでその場を離れ、三人から離れた。そんな私を完全に無視して、男達はくんずほぐれつ、ドタバタ劇を続けている。ひとりがもうひとりを殴り飛ばす。さらに追い討ちをかけようとする男を、3人目が殴り飛ばす。そしてとどめをさそうとするその男を、初めに殴り倒された男が張り倒す。つまり、完全にループしているため、この争いには終わりがない。


 相変わらず、窓からは強い風が吹き込んできていた。部屋は枯葉とガラスの破片にまみれ、フローリングの床にはところどころに男達の血液らしき赤いしみが出来ている。無残に破壊された三面鏡の引き出しからは妻の化粧品が飛び出し、辺りに散乱している。おそろしく現実味に欠けた風景である。


〈ロマンティック〉というのは、元来は非常に紳士的な組織なのだ。今までの経験に照らし合わせて考えると、このような狼藉を働くとは信じがたい。

 まず、ガラスを割って入ってくるというのがおかしい。これまでも家にまで侵入してきたことはあった。しかしそれは予想の範囲内であり、私は常に窓の鍵は開けたままにしているのである。毎回窓を割られてはかなわないのだ。〈ロマンティック〉もそれは承知しているため、これまでは、窓を開けて静かに入ってきていた。その程度は最低限の礼儀と言えるものであろう。


 今日の男達はなにもかもまったく〈ロマンティック〉らしくない。まず、表情だ。〈ロマンティック〉の人間が感情を剥き出しにして怒ることは非常にまれなのである。先日の電話に出た渉外係の男のように、どちらかと言えばはっきりしない、事なかれ主義が人柄に滲み出ている人間が多い。そのおかげで、世界ヒーロー協会と悪の組織〈ロマンティック〉の間では大きな揉め事もなく、お互いにもちつもたれつ、均衡を保ってなんとかやってきたのである。


 考えているうちに次第にいらつきが増してくる。これまでせっかくいい感じに機能していたシステムを、こういう奴らがぶち壊しにしてしまうのだ。迷惑極まりない話ではないか。いつもならヒーローの務めとして、こんな無礼千万な男達などひねり潰してやるところである。が、今は状況が違う。私の体は、いつ液状化してしまうか分からないのである。

 そもそも、ヒーローが出動できない状況のなかで襲ってくること自体が、これまでの常識に反する愚行なのだ。法に触れなければなにをしてもいいのか。そうなのか。


 握り締めた自分の拳が、震えているのがわかった。私は、それでもなんとか自分の心を鎮めて、怒りをやり過ごす。このようなゴロツキに関わりあっている場合ではない。妻を助けなければならないのである。

 幸い、3人の男達は私のことなど完全に忘れ去ったかのごとく、ひたすら殴り合いのループにはまり込んでいる。今のうちである。


 私がドアに手をかけた瞬間、甲高い破砕音が耳朶を打つ。我知らず振り返る。新たに2人の男が今まさに侵入してきたところであった。しかも、割れていなかった方の窓をわざわざ叩き割って入ってきたのだ。隣の窓はすでに割れているのだからそちらを通ればいいようなものである。割ることに意味があるということなのか。それでは単なる嫌がらせではないか。


「いたぞ、ヒーローだ」

 ベッドの上で、男が叫んだ。

 その声に弾かれたかのように、今まで殴り合っていた3人の男が手を止めた。ゆっくりと、私の方を振り返る。


 ――やばい。


 本能的に感じた私は、すぐさまドアを開け、外に転がり出た。

 階段を降りようと手すりに手を伸ばしたそのとき、背筋にぞくりと違和感がのたうつ。

 液状化だ。

 私の頭から、血の気がうせていく。今液体になってしまったら一巻の終わりだ。小瓶に詰められ、悪の組織に送り届けられる自分の姿が目に浮かび、さらに危機感が増していく。

 隣の物置部屋に入るか、それともこのまま階段を下り一階に身を潜めるか、外に出るか。

 ちらとだけ、背後に視線を向ける。

 その刹那、ドアが蹴破られた。扉の残骸と共に、ごろごろと男達が飛び出してくる。なぜ何でもかんでも破壊するのだ。窓もドアも、普通に開ければいいのである。

 私は勢いをつけて、階段を転がり降りた。それ以外に選択肢は無かった。

 気持ちの悪い浮遊感が襲ってくる。方々に体がぶつかっているような感触が、どこか遠くで感じられる。すべての感覚が、薄いヴェールの向こう側から間接的に伝わってくるようになった。


 私はついに液状化してしまったのだ。大変だ、なんとかしなければ、と焦る気持ちももちろんあるが、その焦燥すら曖昧に誤魔化されてしまう。

 階段を降りきって一階に到着したようであった。私はえっちらおっちらと何とか体を動かし、物陰に身を潜めた。巨大な熊の木彫りの足元に、同化するように身を横たえる。

 男達は絡まり合いながら階段から降りてくると、しきりに周囲を見回している。おそらく私が液状化するという情報を、彼らは知らないのだろう。目の前にいる私に気付いていない様子だ。彼らにとってはただの水溜りにしか見えていないのだろう。もっとも、家の中に水溜りがあること自体が不自然なのだが。


「外か」

「いや、そんなはずはない」

「まだ二階にいるんだ。物置部屋だ」

「そんなはずあるか。降りて行ったではないか。あほか」

「黙れ」

「なにを」

 言い合いながら、またもや殴り合いが始まった。5人揃って修羅のごとく激昂しながら、お互いを罵倒し、飛びかかる。

 その隙に逃げたかったのであるが、いかんせん、私の周囲でそのループが続いているのである。一瞬隙間が見えたかと思うと、誰かが倒れこんでくるといった按配だ。

 ある程度の速度で動けるようになったとは言え、すさまじい勢いで暴れまわっている彼らのあいだをぬっていくことはとてもではないができそうにない。それに、動いているところを見られれば、さすがに不審に思われる可能性もある。


 私は、じっと耐えた。


「俺がリーダーだ。俺の言うことを訊け」

「何を言うか、この青二才」

「黙れ、生意気言うな」

「そうだ、デブのくせに」

 その言葉に応えるかのように、デブが男達に突進した。冷静に見るとそれほどたいした体当たりではないのであるが、それを受けた男達もそろって貧弱な体つきをしているため、大げさに吹き飛んだ。デブは勢い余ってそのまま前のめりによろける。4人の男達はそれを避けきれない。デブの下敷きになった。


 今がチャンスだ。


 本能で感じ取った私は、じゅるじゅると体を床に這わせる。熊の木彫りの影から、玄関まではざっと見積もって2メートル弱。私のスピードでは数分の距離だ。

 男達をうかがうと、うつ伏せに伸びたデブを抱えたまま、いまだにジタバタしている。デブの胸の辺りが大きくうごめいている。おそらく息切れなのだろう。デブのくせに動き回るからだ。


 私は決心して、その場を離れた。玄関に向かって一心不乱に流れていく。スピードを出すコツは、表面張力だ。私はこの数週間のうちに、液体状態での挙動について様々な学習をしたのだ。今では急な方向転換もお手のもの。さらに表面張力をうまく使うことで、少々であれば段差を上ることもできる。また、下るときはポタポタと滴って最終的に一つにまとまればオッケーだ。


 玄関が迫ってきた。あと1メートル……50センチ……

「あ」という男の声に、私は一瞬その場に体をとどめた。

 しかし、一寸だけ遅かった。

 小柄な男が訝しげにこちらを凝視している。

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