第8話

「何だあれは」

 どうするか、私は瞬時には決めかね、そのまま微動だにできない。もうばれてしまったのだから一か八かそのまま急いで玄関に向かうと言う方法もある。しかし、それは危険すぎる。

「なんだ、なにを見ているんだ」

 疲れたのか、男達は暴れるのをやめてしまった。


「水だ」

「だから何なんだ。ただの水だ」

「なんでこんなところに」

 デブものそりと顔を上げて私の方へと視線を向ける。


 もうだめだ。

 破れかぶれになった私が玄関に向けて移動を開始しようとしたその瞬間、2階の方からけたたましい物音が轟いてきた。かと思うと、またもやガラスの割れる音が響く。今度はどこを割ったのだろう。重ね重ね言うが割る必要などまったく無いのだ。

 ごとごとと階段を転げ落ちてくる男達。今度はさらに4人増えた。

 下りてきた拍子に、ちょうど階段の入り口にいた男を突き飛ばす形になる。突き飛ばされた男はデブにぶつかり、デブはそのひょろりと伸びた足では自分の体重は支えきれず、小男を下敷きにして盛大に転がった。


「どけ、デブ」

「黙れ、チビ」

 新しく加わった4人はこれまた全員なぜか怒り狂っており、けしからんけしからんと叫びながら殴り合いを始めた。やや疲れが出始めている男達もそれに巻き込まれる形になり、9人が盛大に暴れ始める。

 新入りに突き飛ばされた男が木彫りの熊に追突する。熊は傾き、一度は体勢を整えつつあったが、再度男が突っ込んでくることで後ろ向きに倒れこむ。別の男がひとり、下敷きになった。もがくその男に追い討ちをかけるように、デブの尻が彼の頭を踏みつけにする。デブの上にはシャンデリアが落ちてきて弾けとんだ。そのあおりで小男が吹き飛び、壁に激突する。


 私は行動を開始していた。玄関までたどり着くと、そのまま段差の下に滴りを開始した。ぽたぽたじょろじょろと体を一端分断してはまた元通りに一体化していく作業を、ただ淡々と続ける。少しずつ、私の中でフェードアウトしていく周囲の喧騒。落ち着きが戻ってきた。


 玄関のドアの隙間から這い出た私は、庭へ向かった。元に戻るまではとりあえず庭の片隅で身を潜めていた方がいいだろう、と判断した。

 ほっと一息つくと、胡乱になった意識の片隅にどうしようもないほど膨れ上がった違和感が押し寄せてくる。


 なにがどうなっているのだ。彼らはいったいなにをどうしたいのだ。もはや異常事態である。

〈ロマンティック〉内部でなにかが起こっているのか?

 私はふと思うが、それを確かめるすべは、今の私にはない。

 思考を妻のことに集中させた。とにかく、今のこの状況をなんとか脱して明日早朝には高野山まで妻を助けに行かねばならないのである。織田信長墓所前、という記述があったはずだ。それがいったいどこなのか、現場に行ったことのない私にはわからないが、とにかく行くしかないのである。


 少しずつ体を動かし、定位置を模索していると、上空で物音が響く。

 もういい加減やめて欲しいのであるが、また〈ロマンティック〉から新規に男達が来たのだ。例によって2階のガラスを割って入っていく。ちょうど、庭から見える位置に物置部屋があり、そこの窓が割られたのだ。私が見守っていると、男達は次々に部屋の中へと消えていく。今度は10人近くいるのではないだろうか。


 と、そのうちのひとりが、「水を狙え」と叫んでいるのが、私には感じられた。もはや聞こえるという概念ではない。何となく感じられるのである。


 私の秘密を知る人間が現れた。

 このまま外へ繰り出そうかという考えも浮かぶが、その思いつきは選択肢から排除した。危険すぎる。それよりも、このまま庭に待機するのが得策だ。もうしばらくすれば元に戻れるかもしれない。


 家の中から、何かが割れる音が続き、そのたびに叫び声がこだましている。20人近い男達がそれぞれ好き勝手な主張を繰り返しながら殴り合っているのである。そこにはもはや混沌しか存在しないだろう。そうであれば、私の秘密を握られていたとしても、大丈夫かもしれない。


 そう思い油断していた私の隣に、突然人間が降ってきた。

 私は微動だにせずに経過を見守るしかなかった。2階から落ちてきた男は、ぴくりと体を震わせ、上半身を起こす。腕をさすっているところから見ると、捻挫か、もしくは骨折でもしたのかもしれない。その顔が見る間に凶悪にゆがんでいく。

 と、またしても2階から、今度は2人続けて人が降ってきた。

 それぞれ別々の位置にどさりどさりと落ちて、小さく蛙のような悲鳴を上げる。

 私は巻き込まれないように、それでいて動いているのがばれないように慎重に、場所を移していく。


 火薬でも使ったかのような爆音に引き続き、激しい破砕音が響く。私は体を固めてそちらへ注意を向ける。居間のガラスを粉砕しながら、男が庭へと弾け飛んでくる。その四肢は滑稽なほどにばらばらに振り乱され、体はいびつに傾いたまま宙を舞っていく。ちょうど立ち上がりかけた別の男に衝突して2人絡まりあいながら庭をごろごろと転がる。


 私の目の前には大量のガラスの破片がちりばめられていた。その破片を踏みしだきながら、次々に庭へと這い出してくる男達。

 逃げ場を失いパニックに陥りかけた私は、それでも最後の理性を振り絞り、その場で何の変哲もない水溜りを装うことにして体を固定する。

 水だ水だという声が次第に近づいてくる。


「水を探せ」

「水が何だ」

「喉が渇いた」

「うるさい、黙れ」

「水だ水だ」

 上空に目を向ける。2階の窓からは次から次に人が入っていく。

 どうやら後半に入ってきた人間は、みんなして水だ水だという言葉を発しながら暴れているようである。水が何なのか本当にわかっているのかは良くわからない。それでも私にとって脅威であることには違いない。


 入っていく人の数だけ、庭へとはじき出されてくる。それはそうである。もう家のなかは隅々まで男達で溢れているはずだ。

 私は、気付かれない程度の速さで、少しずつ、移動を続けていた。目指すは床下の隙間である。

 これだけの喧騒のなかである。多少の音は問題にならない。その辺りには特に気を回す必要はない。ただ、あまりにも人の動きが激しいため、不用意な行動を取ればぶつかってしまう可能性があった。相手にとってはただ水溜りに落ちたという程度なのかもしれないが、その水溜りである私の立場からすればたまったものではない。


 しかし仮に――。

 私は想像してみた。もし誰かが私のなかに落ちてきたとしたら、一体どうなるのだろう。ばちゃばちゃと飛び散る私。男は何事もなかったかのように立ち上がり去っていくだろう。その衣服に私の一部をしみこませたままで。


 どさり、と不意に何かが倒れてくる。すぐ近くだ。私は注意を向ける。

 地面に転がっているその男と、目が合った――少なくとも私には合ったように感じた。実際、男からすればただ単に水溜りを見つめていただけだったのだろうが。

 言いわけをさせてもらえれば、この異常な状況にも私自身慣れてしまっていたのだ。そこからくる油断であったと言わざるを得ない。

 私は、男がこちらを見ているな、と認識しながらも、ずりずりと体の移動を続けてしまっていたのだ。なぜこの男はこれほど目を見開いてこちらを凝視しているのだろう、ということは漠然とは感じていたが、私が動いているせいであるとは全く気付かなかった。


「動いちょる。動いちょる。動いち」

 男が立ち上がり叫び始めた段になってようやく事の重大さに気付いたが、全ては遅かった。これまでの乱痴気騒ぎが嘘のように、男達はいっせいに動きを止めた。その視線が、次から次へと私のもとに注がれる。


 いったい、人生のうちでこれだけの熱視線にさらされることが何度あることだろうか。ついに見つかってしまった。完敗だ。私はじゅるじゅると小刻みに動いて見せた。水面には波紋が広がっていることであろう。周囲の数人はぎょっとしたような顔をして少し後ずさる。沈黙が流れたがそれも一瞬で、


「俺だ。俺のものだ。俺の手柄だ」と、第一発見者の男が騒ぎ始めた。

「なにを言うか。わしは最初から気付いておったわい」

「ところがどっこい、私が先だ」

「最初に言い出したのはわたしだ。わたしが最初だ。わたしのものだ」

「えーいうるさい、発見者の俺を差し置いて」

「なにを言っているの。あたしに蹴飛ばされて偶然見つけただけじゃない。あたしの手柄よ。そうに決まってるわ」

 一瞬、女がいるのか、とそちらへと注意を向けたが、そこには毛むくじゃらの足が見えた。タイトな服装に、化粧を施した髭面が乗っかっていた。

「黙れ、オカマ」

 言うやいなや、男はオカマを殴り飛ばす。キャっという気持ちの悪い嬌声を発しながら後ろ向きに吹き飛んだオカマを皆が避けていき、最後にデブにぶち当たる。彼だけは避けられなかったのだ。もちろんデブだからだ。


 再び、乱闘が始まった。今度は誰が私を捕まえた権利を得るかということで始まった揉め事であるのだが、途中からは殴られたからやり返さねばならないという反射行動となっているようなふしがある。

 2階から、次々に人が降ってくる。割れた窓から人が飛び出してくる。

すでに割れていない窓は無いようである。見る限り、ガラスというガラスを叩き割っていますといった様相だ。ガラスだけではない。ときおり、その手に板切れや木の棒を携えて暴れている男を見かけるが、それは我が家の家具に間違いない。


 妻との思い出が。最愛の妻が――。


 私は出来ることなら泣きたい気分であった。液体となってしまった今はそれもかなわない。涙なのかそれとも体の一部なのかわかりはしないのだ。そして、もうじき私は小瓶に詰められ、悪の組織に幽閉されるのであろう。全く酷いことになってしまった。

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