第6話

 ヒーローになってからここ数年のことが、自然と思い出されてくる。

今住んでいるこの一戸建ても、中の家具も全て、世界ヒーロー協会から与えられた。ただ、この腰を下ろしているセミダブルのベッドだけは、妻と共に買いに行ったものだ。

 それ以前は、六畳一間のアパートに2人で住んでいたのであったが、広いベッドというのは2人の積年の夢だったのである。


 ヒーローになるにはいくつか方法がある。ひとつ目、これが最も多いと言われているが、突き詰めて言えばいわゆるコネである。肩書きとしてはヒーロー養成学校卒業ということになっている。しかし、その学校に入学する道は一般的には謎に包まれている。試験があるわけでもなく、推薦で入るわけでもない。つまり、この学校に入るという段階でコネが必要と言うわけだ。


 十数年前まではそれで良かったのである。しかし、近年は世界の情勢が変わってきていた。国際化のあおりを受け、世界ヒーロー協会日本支部もその体質を変化させざるを得なかった。これまでうやむやのまま決定されていたヒーローの選定基準を明確にしようという動きが出てきたのである。

 これが、約5年前。それに伴い、一般市民にもヒーローになるチャンスを、という目的で通信教育で『ヒーロー養成講座』を受講することができるようになった。そこでAAA評価となると、ヒーローの選考に加わることが可能なのである。


 当初、世論は懐疑的であった。しょせんは形だけだろう、おそらくAAA評価など出ないようになっているのだ、という意見が大半を占めていた。よしんば選考に加われたとしても、結局はコネのある人間に決定してしまうのがオチだ。私がヒーローになるまでは誰もがそう思っていた。


 当時、勤めていた某メーカーをリストラされた私は、次の仕事を探すかたわら『ヒーロー養成講座』を受講していた。本気でヒーローになろうと考えていたわけではない。なれれば儲けもの、という程度であり、いわば宝くじを買うような感覚であった。

 再就職先はなかなか決まらなかった。

 私が仕事をしていた頃には専業主婦であった妻は、働きに出ていた。それでも時給千円程度のパートである。自然、貯金は目減りしてくる。私たちは、住み慣れたマンションを手放し、安アパートへと移ることにした。


 ちょうど就職活動と引越し作業で色々と忙しくしていた頃に、私の元に、一通の手紙が届いた。あなたは見事AAA評価を取得されました、ということであったのだが、最初はなんの話かと首をひねってしまった。忙しさにかまけて完全に忘れていたのである。次の、ヒーローの選考に加わることになった、という文面でようやく気がついた。

 半信半疑であったが、それからも何度か世界ヒーロー協会の方からコンタクトがあり、どうやら本当のことらしいぞという実感がわいてきた。


 選考は着々と進行していき、私は順調にパスしていったようであったが、相変わらず就職活動は続けていた。しょせんは形だけ、結局最後はコネのある人間が当選するのだという意識がどこかにあった。妻も、浮き足立つことなくただ淡々と仕事に通っていた。もっとも彼女に関して言えば、私が阿呆のように興奮してヒーローになったという事実を伝えたときにも、表情すら変えず「おめでとう、あなた」と一言口にしただけだったのであるが。


 体を包み込んでいた心地よいぬくもりがすっと消え去り、私は我に返る。妻が立ち上がったのだ。私は名残を惜しんで手を伸ばすが、妻は一瞬だけ唇の端で笑みをつくっただけで、そのまま背を向ける。


「行くわ。あなた」


 その言葉に、心臓が締め付けられる気がした。私は思わず腰を上げる。

 と、突然の破砕音が私の脳髄を襲う。同時になにかが部屋に飛び込んでくる。私は必死にそちらへと体を向ける。

 カーテンが揺れている。強風だった。

 そういえば、前線が近づいてきていると天気予報で言っていた。明日は大荒れの天気になるらしい。呆然と立ち尽くしたまま、なんとなくのろのろと思考を進めてしまう。

 いかんとは思うものの、一体何が起こったのかわからない。

 割れた窓ガラスが、ベッドの上にまで散乱している。風にあおられた枯葉が、部屋に舞い込んでくる。


「あなた」


 妻の声だ。私は振り返った。見知らぬ男が、妻の腕を締め上げている。

 目の前の状況が、次第に頭にしみこんでくる。


「奥さんはいただいていく。返して欲しくば明日朝――」

「それは違うわ」

 言うと、妻は男の手を振り払う。

 男は少し怯んだように後ずさり、妻を凝視している。初めは非常に屈強な男だと勘違いしてしまったが、良く見るとそういう訳でも無さそうである。背は私より幾分低いように見える。ちょうど妻と視線の位置が同じ程度だ。


 割れた窓から、さらに2人、男が侵入してきた。勢い良く入ってくるものの、そのあとはいそいそと私の隣を通り過ぎ、妻の腕を締め上げていた男の隣へと並ぶ。どうやら彼がリーダーのようだ。


「まあ待て、これを見ろ」

 少し冷静さを取り戻した私は、男達に向かって〈ロマンティック〉から届いた便箋を見せつけてやる。

 3人がこちらを振り向く。読み進むうちにそのこめかみには青筋が浮かび、千切れんばかりに唇をかみ締め始めた。ひとりが、地団太を踏む。


「うぬー、誰だこんなことをしやがったやつは」

「全くだ。我々に黙って」

「けしからん」


 口々に叫びながら、彼らは三人で口論を始めた。どうやら〈ロマンティック〉内部での組織間の連絡がうまく取れていないようである。

 予定では先に彼らが現れて妻をさらっていってから脅迫状を届ける手順だったのだろう。どこかで手違いがあり、順序が後先になってしまったのだ。

 口論の内容は私にはよくわからなかったが、組織内部の人間についての誹謗中傷に始まり、組織自体の体質批判へと続いているようだ。


 議論が白熱し、完全に興奮の渦に飲み込まれたらしき中肉中背のリーダーは、隣の小柄な男を拳で殴りつけた。

 不意をつかれた形になった小男は、壊れたマリオネットのようにだらしなく四肢を振り乱しながら、ガラスの破片が散らばる床に転がった。すぐに上半身だけ起こし、リーダーを睨みつける。鼻息は荒いがその反面、体を支える小枝のような腕はぷるぷると小刻みに震えている。

 勝ち誇ったようにその姿を見下ろすリーダー。小男は激昂した。体を起こしリーダーに飛びかかろうとする。と、不意にリーダーが吹き飛んだ。その体に押し倒される形になった小男はまたしても床に転がった。その上に、リーダーが倒れこむ。

 トマトが潰れたような断末魔の音が漏れ聞こえた。おそらく小男の発した声であろう。私は思わず顔を逸らしてしまう。リーダーを殴りつけたのは、もうひとりの〈ロマンティック〉の男であった。その表情は怒りに満ちている。

 太っているため一見すると強そうに見えるのだが、手足はアンバランスに細い。要するに、ただのデブなのだ。そのデブが、リーダーと小男を見据えながら、近寄っていく。

 リーダーがすばやく横に転がる。その勢いで立ち上がろうとしたようであったが、開いたままになっていた三面鏡に頭をぶつけた彼は、再度床に転がり七転八倒する。

その様子を観察するデブ。一瞬だけ唇をゆがめる。笑ったのかどうか、私には判断できない。視線を小男に向けようとした刹那、バランスを崩したデブは仰向けに地面に倒れた。地響きにも似た鈍い音が響く。よく見ると、その足には小男の足が絡みついている。小男は勢い良く立ち上がるとデブに飛びかかる。文字通り、その場で飛び上がったのである。デブの腹に、小男の両ひざがめり込む。甲高い悲鳴に、私は耳をふさぐ。

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