第5話
ふと気付くと、私は醜く太っていた。
ベッドの上で上半身だけを起こし、そのまま前屈をすると、どうにも苦しいのである。腹の辺りに引っ掛かりがあるのだ。そっと上着をたくし上げて自分の胴回りに目をやる。はち切れんばかりの肉だ。私は見なかったことにした。
考えてみれば当然ではある。日がな一日何もせず、ただ酒をあおり食っちゃ寝しているのである。
私はベッド脇の台に手を伸ばす。ウォッカのボトルを掴むと、一気にあおる。
酔いが回ってくると、もうどうにでもなってしまえばいいという気分になってくる。
そんな私を紙一重でこの世につなぎとめているのは、妻の存在だった。
その妻が進めていたロバート近藤との裁判は、結局敗訴に終わった。相手が非常に優秀な弁護士を雇ったのである。彼の言い分によれば、ロバート近藤に対する依頼というのはあくまでも体を液状化する技術にあり、そういう意味ではほぼ要求性能には達している、ということであった。さらに、それ以上はユーザー側が考えることであって一般技術者であるロバート近藤の範疇外のことであるというのである。
完全に詭弁である。
そのことは後から聞いたのであるが、それでも私は叫びだしそうなほどの憤りを感じた。しかしだからこそ、妻はその敗訴の知らせを私には聞かせなかったのだ。
敗訴についてはそれとしてしっかりと受け止めた妻は、すぐに次の手を考え始めたのである。それが〈ロマンティック〉との取引であった。
まず、日本の〈ロマンティック〉は今非常に困っているという情報がある。これを利用しようと言うのである。
どういうことかというと、「ヒーローが液状化した時には、いっさい手を出さない」という契約を彼らに結ばせるのである。これは私にとっては非常に画期的な提案であった。成立すれば、多少の不便はあるものの、おおよそ今まで通りヒーローの責務を果たすことが出来るはずである。
しかし――。
妻がその旨を正式な書面にしたためて〈ロマンティック〉に郵送してから数週間がたっている。いまだになんの音沙汰もない。それはつまり、要求は受け入れられないという〈ロマンティック〉側の意思表示なのではないだろうか。
こう思うと余計に胸の中で不安が渦巻き始める。
再度ウォッカに手を伸ばそうとした矢先、けたたましい機械音が私の耳朶を打った。電話の呼び出し音である。普段は一階で妻が出ることになっていたのだが、今はちょうど買い物に出かけている。
仕方がない、と私は一度大きく深呼吸すると、ウォッカのボトルの隣で耳障りな音を発している子機を手に取り、通話ボタンを押した。
「ヒーローさんのお宅ですか?」
その言葉に、一瞬にして酔いが吹き飛ぶ。
『ヒーローさん』という呼び方から判断して、相手は世界ヒーロー協会かもしくは悪の組織〈ロマンティック〉のどちらかだ。
何か喋らなければと焦るが、錆びきってしまった脳は全く機能しない。さらに焦る私はとりあえず「はい」とだけ答えた。答えた、つもりであったが、うなり声になってしまった。数秒の沈黙のあと、相手が先に口火を切った。
「〈ロマンティック〉の者ですが、――あの、もしかしてご本人様?」
「はい」
今度はうまく言えた。またしばらくの沈黙のあと、相手先から間を持たせるようなおざなりな自己紹介と挨拶が続く。
どうやら〈ロマンティック〉の中でも渉外担当の人間のようだ。いつも私と戦っている憎むべき敵とは少し組織が違う。ほっと息をつく。
「では、恐縮ですがさっそく本題に入らせていただきます。例の件ですが……」
ここで言葉を濁したことで、私には答えがわかってしまった。
つまり、契約は受け入れられない、ということだ。
私は沈黙を守っていた。
返す言葉が見つからない、ということもあった。しかしそれよりも、身の内から次第に湧き上がってくる怒りが、その最も大きな原因であった。
こちらから書類を出してからいったい何日たったと思っているのだ。その程度の結論を出すだけなら、ほんの数日で処理できたはずだ。
私は思わずベッドから立ち上がり、うろうろと部屋をうろつく。
そのあいだにも、男は用意していたとおぼしき言いわけじみたセリフをとつとつと語っていた。
私があからさまに不機嫌そうに相槌を打っていると、電話相手の男はさらに早口に何やらまくし立ててくる。前例がどうだの数年前に交わした条約の関係だのと、もっともらしいことを口にしているようではあった。
世界ヒーロー協会と悪の組織〈ロマンティック〉のあいだでは、様々な取り決めが結ばれてきた。それは正式な書面で結ばれた条約であることもあり、また、暗黙の了解として双方で共通認識としているものもある。ちなみに、悪の組織がヒーロー不在の地域に手を出してはいけないというのは、後者によるものである。
「というわけですので、分かっていただけますとありがたいのであります。私としましても精一杯のところまで掛け合いましたが、結局は経営判断といいますか、何と言いますか……」
やたらと語尾を濁すのが得意な男である。それが余計に鼻につくのである。私は心の中で嘲笑する。
では何か。結局は「私のせいではない」と言いたいのか。
ベッドの脇で立ち止まり、目の前にあるウォッカのボトルに手をかける。飲んでやろうと思ったのではない。ただ、何となく手に取ってしまったのだ。ストレスが溜まってくるとアルコールに手を伸ばす、という癖がついてしまったのかもしれない。
受話器を押し付けている耳の部分からじわじわと汗がにじみ出ているのが分かった。私はいちど耳から離し、手で汗を拭き取った後、再度耳に当てる。
「――もしもし?」
不安げな調子で、こちらが聞いているかどうかを確認してくる。
いっそのことこのまま切ってしまおうかとも思ったが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。少し冷静になってきた私は、ベッドに腰を下ろした。
と、耳につく高音を発しながら、不意にドアが開く。私は首をひねり、そちらへと視線を向ける。両手から買い物袋をぶら下げた妻が、そのまま無言で部屋に入ってくる。その場に、袋を降ろす。呆気にとられる私には一瞥もくれず、ただ私の手中の受話器を、果物の皮でもむいているような仕草でもぎ取っていった。
妻は、はっきりした声で受話器に向かって一言挨拶の言葉を伝える。
洩れ聞こえてくる音から判断すると、相手の男はすこし戸惑っているようであった。
「契約を結んでいただけないようであれば、金輪際ヒーローは出動しません」
妻はそれだけを伝えると、一方的に電話を切ったようである。その視線が、私のほうへと向く。ベッドに腰を下ろしている関係上、妻を見上げる形になる。瞬きもせずに見開かれたその目は、虚ろに濁っているように感じられた。
しばらくそのまま見つめ合っていたが、あなた、という妻の声が、その沈黙を破った。いつもよりも覇気のない消え入りそうな声だ。
一枚の便箋が、そっと差し出された。つい先程郵便受けに入っていた手紙のようである。
『拝啓 ヒーロー様 貴殿の奥方を預かった。明日早朝に高野山の織田信長墓石前にて待つ 悪の組織ロマンティック』
私は思わず便箋を握りつぶした。ぎりぎりと歯をかみ締める。
妻が誘拐された。最愛の妻が。
「汚い奴らめ……」
こちらは実質上出動できない状況なのだ。そこは暗黙の了解として通用すると思っていた。しかし、考えが甘かったようだ。
「あなた」
妻が、私の隣に腰を下ろし、
「わたし、さらわれたわ。行かなきゃ」
目の前に妻はいる。しかし、悪の組織が「預かった」と言っている以上はさらわれたということなのだ。事実、今、妻はすぐ隣に存在するが、すでにさらわれてもいるのである。それが真実である。事実と真実は、似て非なるものなのだ。
私は差し出された手をそっと握る。きっと助け出すからな、というあまりに陳腐なセリフを飲み込んだ私は、そのまま、妻の肩を抱いた。
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