第4話

 相変わらず、体の液状化は突然に始まる。

 平均すれば数日に1回、といったところであったが、時には1日に数回起こるときもあり、液状化したまま数日間元に戻らないこともある。さらにまったくと言っていいほど、規則性は見当たらない。

 また、液状化しているときは、意識はきわめて曖昧になる。当初は完全に思考が停止すると思っていたが、それは間違いであることに最近気づいた。うっすらとではあるが、液状化しているときの記憶が残っているのである。

 進歩したと言えるのかどうかはわからないが、少しずつ液体状態のまま自分の意志で移動できるようになってきていた。移動できるといっても、せいぜい1分間で数センチといったところだ。実用化には程遠い値である。しかし、これも液状化していても自分の意志が存在するというひとつの証拠ではある。


 私が液状化ヒーローになってから、数週間が経過していた。

 現状に慣れてきたとは言うものの、問題は何ら解決されていない。てきぱきと動き回る妻の姿を見るにつけ申し訳ない気持ちでいっぱいになる。自分ではなにもできないということに対する悶々とした憤りが、私のなかで澱のように積もっていた。そして、その矛先をロバート近藤に向けることでどうにか自我を保っていた。結果、ロバート近藤に対する怒りの感情は、日を追うごとに膨れ上がっていった。


 裁判関係について、今どのような状況となっているのかは妻の表情からは判断できなかった。それでも、おそらく、思惑通りに進んではいないのだろう。相手はあのロバート近藤なのだ。一筋縄ではいかないことは容易に想像がつく。

 ヒーロー権限を利用すれば、たかだか一般人をひとり亡き者にするなどたやすいことであった。世界の平和のためなら、その程度の犠牲はやむを得ないのである。

 だが、ロバート近藤は仮にも協会の方から紹介された人物である。そういう意味では一般人と同列に扱うわけにはいかない。私はなにか苦いものが口のなかに広がってくるような思いであった。無警戒に液状化薬を飲んでしまった自分の浅はかな行為に、いまさらながらに後悔の念が押し寄せてきたのである。


 箕面の駅で、初めて液状化したときのことが、脳裏に蘇ってくる。あの時は、まさかここまで厄介なことになるとは考えていなかった。ただ、戦っている途中で再度液状化すると困るので、その日はとりあえず引き上げてもらおう、とその程度の気持ちであった。

 そういえば、それ以来〈ロマンティック〉からは何の音沙汰もない。ロバート近藤とのいざこざですっかり忘れていたのだが、いったいどうなっているのだろうか。

私は、久しぶりに外部との連絡を取ってみようという気分が湧き上がり、協会から配布されている携帯電話を手に取り、本部へとつないだ。


 世界ヒーロー協会の日本支部から電話で得た情報によれば、〈ロマンティック〉が非常に困っているということであった。それは当然である。悪の組織は、ヒーロー不在の地域には手を出してはいけないことになっている。実質的にヒーロー不在となった日本においても同様であり、彼らは手を出してはいけない。ヒーローがいないわけではないが、かといって活動も出来ないという今の状況は悪の組織にとっては最も困る状況である。彼らは日本から撤退するわけにもいかず、しかし、手を出すわけにもいかない。宙ぶらりんのまま放置された形となっているのである。


 私が色々と逡巡していると、ふっと隣に人影が現れた。妻であった。

私の目の前で、上着を脱ぎ去った妻は、薄いネグリジェ姿でその場に立ち尽くしている。睥睨しているという表現がぴったりのように感じた私は、溢れ出してきた大量の唾を飲み込み、とっさに訊ねた。


「さっきの電話、聞いてた?」


 聞いていたらどうだということはないのだが、間がもたなかったのだ。

 妻は、そんな私の心情を知ってか知らずか、そっと私の隣に腰を下ろした。私は反射的に身を寄せ、肩を抱いた。妻も体をすり寄せて来る。私は彼女のももに手をやり、そのまま自然な仕草で、内側まで手を伸ばした。

 私のあごに、妻の白い手がそっと触れる。冷たい。

 思わず手を引っ込めると、そのまま体を寄せてきた妻に押し倒された。柔らかい肉の感触が、太ももから胸にかけて広がる。私の頬に妻の額が触れ、その長く乱れた髪が私の顔の皮膚をくすぐる。

 ずりずりと体を動かし位置を整えてから、妻の顔をまさぐりあごを探す。妻は、いやいやをするように私の腕をすり抜け、そして、真上から私を見据える形になった。その異様にぎらついた視線を感じた瞬間、私の体はまるでメデューサにでも見つめられたかのように、完全に硬直した。

 そっと頭を寄せてきた妻は、私の首筋を甘噛みする。ぞくり、という言いようのない寒気が襲ってくる。どこか懐かしい感覚だ。


 ――おお、最愛の妻よ。


 私は恍惚に浸りながら、その心地よさに身をゆだねる。



 時を経るごとに、妻が痩せていくのがわかった。目元は落ち窪み、頬がこけている。かつては豊満な肉付きであったその太ももは見る影もなく骨ばってきていた。

 ベッドの上からその姿を眺めていた私は、やりきれなくなり目をそらした。溢れ出してくる涙を妻には悟られないように、そのまま背を向けた。


 相変わらず液状化は続いている。

 この薬の効果が切れることはない、ということであった。つまり、半永久的に私の体は液状化し続けるというわけだ。当初は少しずつ進歩があった。それは液状化したときの意識レベルの向上であり、また移動できる距離の増加であった。

 しかし、ある一定の水準に達してしまうとそれ以上はどうしても超えられない壁があるようであった。


 私は酒におぼれた。どちらかといえば酒には弱い部類に入るはずであった。最初はビールをがぶがぶと飲んでいた。しかし、それでは酔う前に胃の用量を振り切ってしまう。次に、ワインに手を出した。一本数百円の安物である。これはそれなりに酔うことはできたが、さめた後のやるせなさを覆い隠してしまうには、さらなる強力なアルコールが必要であった。

 目の前には、ウイスキーのボトルがある。私は震える手でそのふたに手をやる。すでに抑えきれないほどの胃のむかつきを感じてはいた。それでも、飲むしかなかった。

 琥珀色のビンには、3分の1ほど液体が残っている。その注ぎ口に直接自らの口をあてがい、一気に飲み干そうとボトルを傾けたそのとき、気配もなく近づいてきた人影によりその行為は妨げられた。すでに骨と筋が透けて見えるような哀れな姿になってしまった妻であった。

 妻は私の手からボトルを取り上げると、ふたを閉めた。そっと隣に腰を下ろし、身を寄せてきた。そのごつごつとした感触に、私はいいようもない無力感を覚え、そして強く抱き寄せた。

 妻の吐き出した空気が、私の耳に触れる。こんな姿になっても、その吐息だけは肉感的だ。そのことに思い至った瞬間、以前のふくよかな妻が脳裏に蘇り、ただ涙が溢れてきた。


「あなた」


 私はその頭を抱くことで、呼びかけに応えた。

 妻は続けて、こう言った。


「〈ロマンティック〉と、取引しましょう、あなた」


 この言葉の真意は、すぐには分からなかった。

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