第3話
ロバート近藤の研究所にたどり着いたときには、すでに夜の8時を過ぎていた。
私は『アポなし訪問お断り』と記された紙が貼り付けられたドアに手をかける。
押し開けようとしたちょうどそのとき、すぐ背後をひと組のカップルが談笑しながら通り過ぎた。瞬間、私は発作的に殴ってやろうかという衝動に襲われる。
私はヒーローなのである。そのヒーローが苦しんでいるときに、幸せいっぱいの空気をふりまきながら往来を練り歩くとは何事か。いったい誰のおかげで悪の組織から守られていると思っているのだ。まったくけしからん話である。本当に後を追いかけて殴ってこようかとも思ったが、やめておくことにした。今はそれどころではない。
私は気を取り直し、無造作にドアを開き、まっすぐにロバート近藤の部屋へと向かった。
いつものように雑然とした室内では、怪しげな液体の入ったビーカーやフラスコが散乱していた。どのサンプルがなんなのかは、おそらくロバート近藤にしかわからないだろう。通路にまではみ出したポンプやラックを掻き分けながら先へと進む。
奥で装置をいじっているロバート近藤の後姿を視認した私は、思わずその場で立ち止まり、彼の名を叫んでしまう。
気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、彼は振り返らない。
「ロバート近藤」
もう一度、今度は少し感情を抑えて呼びかけると、
「聞こえているよ」
と応えはしたものの、ロバート近藤はそれでも振り返らない。
脳内に怒りが充満してきた私は、彼の隣まで行くとその胸ぐらをつかみ無理やりこちらを振り返らせた。
ロバート近藤は、ちょっと待て今大事なデータが、ともごもご口にするが一切無視して、
「今日、本部から連絡が入った。箕面の山奥で〈ロマンティック〉のやつらが猿たちを手にかけている、と」
ロバートはもごもごと口を動かし私の話に反応はしているようであったが、その視線はまだ装置の方へと向いている。叫びだしたいのをこらえ、何とか冷静に話を進める。
「で、飲んだよ、あの薬」
と、ロバート近藤が初めてこちらに興味を示してきた。
「して、その効果は?」
「確かに、体は液状化した」
ロバート近藤は満足げに頷いている。その瞬間、完全に怒り心頭に発した私は、ぐいと彼ににじり寄り、
「ただし、俺の意志ではない。勝手に液状化した。しかも、戦闘中に、だ」
と早口にまくし立てた。
ここまで言えばわかるだろう、と私は思ったのだ。
小屋の影に身をひそめているときに液状化してしまったあと、元に戻るまでにはおそらく数時間が経過しただろう。ただ、液状化しているときの記憶が極めて曖昧であることから、正確にはわからない。
しかし、勝手に液状化してしまうとあっては、戦いどころではない。相変わらず滝に石を投げ続けている〈ロマンティック〉一味に声をかけた私は、事情説明を行った。一時休戦という申し入れである。
少し困っていた様子だったが、彼らはヒーローに逆らうことはできない。結局、とりあえず引き上げてもらうことにした。こちらの事情を鑑みれば、当然のことではある。
私はその足で研究所へと向かった。なにしろ勝手に液状化したのだ。そんなものは秘密兵器でもなんでもない。むしろただの弱点となってしまうではないか。それも致命的な弱点だ。この責任をどのように取るつもりなのか。そのことを追求するつもりであった。
しばらく視線をあらぬ方へと向け黙りこんでいたロバート近藤であったが、一度大きく頷き、そして、なにごともなかったかのようなしれっとした表情で語り始めた。
「通常は好きなときに液体になり自由に元に戻れるはずだったのであるが、おそらくは何らかの不具合によりランダムに液状化するようになってしまったのだろう。まあ個人差の範囲だ」
呆気にとられ立ち尽くしてしまう私に、さらに彼はこう言ってのけたのである。
「しかし、そんなことはたいした問題じゃあない。人間の体を液状化できる技術が成功したこと自体が人類の科学史に残るすばらしい発明なのだ。液状化するタイミングなどというささいな誤差をとやかく言うのは間違っている。そういう枝葉末節にとらわれて物事の本質が見えなくなるということは、残念ながらよくあることだ。君のせいではない」
ぽん、と私の肩に手を載せ、眉間にしわを寄せるロバート近藤。
もうどうしようもない、こいつは殴るしかない、と拳を固めた刹那、私の体になんとも言えない違和感が広がる。先ほど、箕面の駅前で感じたものと同じ感覚だ。液状化しかけている、と瞬時に理解した私は、そうはさせじとひたすら四肢に力をこめる。そんな私の意志に反して、じわりじわりと視界がとろけていく。まずい、と思ったときには、すでに握り締めた拳の感覚はなくなっていた。
気がついたときには自宅のベッドの上であった。
上半身だけ起き上がり、しばらくぼんやりと虚空を見つめていた私の隣に、最愛の妻が寄り添ってくる。反射的に抱き寄せた。
妻によれば、私は小瓶につめられてロバート近藤から郵送されてきたということであった。しかもクール便だという。冷やすことでどうなるのかはわからなかったが、それにしても途中で元に戻ってしまったら一体どうするつもりだったのだ。
そのことに思い至り、再度ふつふつと怒りがこみ上げてきた私は、その場で七転八倒した。そんなことをしてもなんにもならないことはわかりきっていたが、それでも次から次へとこみ上げてくる憤懣をやりすごすには、そのやり方以外私には思いつかなかったのである。
世界ヒーロー協会に直接被害届を出す、という手段もあった。通常の場合はそうすべきなのだ。協会の方から圧力をかけてやれば、ロバート近藤など蚊ほどの力もない。
ただし、気がかりな点が一つあった。それは、私自身も無能と判断され、亡き者にされるのではないか、ということだ。
以前も一度、同じようなケースがあった。私がヒーローになってから間もない頃のことだ。韓国支部のヒーローが、やはり同じようにヒーロー協会からの勧めで使用した強制具により、ひどい怪我を負った。原因は本人にある、と協会からの公式情報としては発表されていたが、真偽のほどは定かではない。怪我をしたその韓国のヒーローは、世界ヒーロー協会に何度も交渉を試みたらしい。
そして数ヵ月後、突然韓国のヒーローが世代交代した、という情報が入ってきた。表面的には華やかなニュースとして伝えられ、新ヒーローに対する期待のコメントのみが紙面を賑わせていた。反面、旧ヒーローの話題には触れてはいけない、という暗黙の了解ができていた。一般的には任期の8年が経過しない限り、ヒーローが交代するということはまずありえない。誰も何も言わないが、その旧ヒーローは今頃東シナ海にでも沈んでいるに違いない。
「あなた」
妻の声に、私は顔を上げた。そっとその肩に手を回し、抱き寄せた。涙が溢れてきた。私はその姿を妻にだけは見られたくなかったので、抱きしめる腕に力をこめた。妻が顔を寄せてくる。その吐息が、私の耳をくすぐる。
「訴えましょう、あなた」
はじめ、妻が何を言っているのかわからなかった。協会に今の状況を伝えてなんとかしてくれとお願いしたところで、簀巻きにされて海に沈む可能性があるのだ。そのことは妻も知っているはずなのである。しばらく私を正面から見つめていた妻であったが、そのまま腰を上げ、部屋を後にした。
それからの妻の行動は極めて迅速であった。私は時にベッドの上から、またある時には液体となりじゅるじゅると地面を濡らしながら、妻を見守っていた。どうやら、妻は正式な裁判所に、あくまでも一般人として訴える算段のようだ。そうすれば、協会とは関係がない。
何度かは妻を手伝おうとしたものの、それをさせない雰囲気を彼女は持っていた。電話口になにやらまくし立てている妻を尻目に、私は鬱々とした気分を抱えたまま日々を過ごしていた。
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