第2話
山道への入り口に設置されているゴミ箱付近に集まっていた男達の一人が、私に目を向け、すぐさま身を翻した。それを見た他の男達も、次々にその場から逃げ出す。私はさらに速度を上げる。
もともとそういう算段であったのか、それともたまたまそうなったのかはわからない。しかし、皆それぞれ別々の方向へと逃げているため、照準が絞りにくい。
私は一瞬だけためらうが、すぐに決意してあるひとりの男の背中を追う。小柄ではあるがずんぐりとした体型の男で、その無骨な横顔には見覚えがあった。
男は橋を渡り終えると、そのまま道を逸れて山のなかへと分け入っていく。急勾配であることに加え、道があるわけでもない。男は一歩進むごとに無数の枝に行く手を阻まれている様子で、ひとつひとつ丁寧にかき分けている。そしてそのあとには人がちょうど一人通れる程度の道ができていた。
私は思わず鼻で笑ってしまった。これでは追いついて下さいと言っているようなものである。私は期待に応えることにして、男の後から山へと足を踏み入れる。落ち葉と枯れ枝を踏みしだきながら、一歩一歩足を進める。男の背中が徐々に迫ってくる。私は拳を握りしめた。
あと1メートルほどの距離に迫ってきたところで、男は私のほうを振り返った。その場に腰を下ろして両手を上げて降参のポーズをとっている。泣きながらなにかを訴えようと口を開こうとした男の鼻をめがけて、私は拳を振り下ろした。
果物が押しつぶされたような情けない声を発しながら、仰向けに倒れこんでいく男。
私はそのままの勢いで男の下腹部に馬乗りになり、続けざまにその顔面を殴りつけた。
男は、女々しいことに両手で顔を覆い、私の拳を防ごうとしている。
途切れ途切れに、男の口から痛い痛いという声が漏れ始めた。それでも私は意に介さず、ただひたすら殴り続けた。痛いということであれば、同様に私の拳も痛いのだ。自分だけが不遇な目にあっているように思うのは大きな間違いである。そういった甘い被害者意識は完膚なきまでに叩きのめし、反論できぬまでに抑えつけてやる必要がある。泣けばいいということではない。
唇、鼻、目蓋、その他、まずは顔の中でも弱い部分から、鮮血が吹き出し始めた。頬骨の辺りを殴ると、私の拳に鈍い衝撃が走る。もしかすると、左拳のどこかしらは骨に異常が生じているかもしれない。少しずきずきと痛んできた。
男は、はじめは激しく抵抗していたが、しだいにその手の動きが緩慢になっていく。そして、だらりと両腕を左右に投げ出したまま動かなくなった。その視線は虚ろで、どこにも焦点があっていないように見える。私は手を止めた。馬乗りになったまま、しばらく男の顔を眺める。鼻の穴と口のなかからだらだらとどす黒い血液が流れ出ていることの他には、動きらしい動きは見当たらない。
――これでよし。
私は一息ついて、そっと立ち上がり背後を振り返る。もうほとんどの悪党達は逃げ出してしまっただろう。それでも、出来る限りのことはしなければならない。
来た道を引き返し山から下り、一度辺りを見回した。猿にゴミを捨てさせていた男達の影はすでに見当たらない。こちらの件は諦めるしかない。
気持ちの切り替えをしてすぐに身を翻し、その場を離れた。今回はもう一件、滝に石を投げているという報告もあった。そちらの方もなんとかしなければならない。山から持ってきた石を滝に投げ込む、ということなどあってはならないのだ。
滝にたどり着いたときにはあたりは閑散としており、人の気配は感じられなかった。もっとも、そうして油断させることが奴らの目的なのかもしれない。
休憩所として小さな小屋があったため、私はその影に身を潜め、しばらく様子を見ることにした。
平日の昼間とあって、一般の観光客の姿はあまり見当たらない。それでもときおり、大学生らしき人間がぼんやりと滝を眺めて去っていくことはあった。私はそのつど唾を飲み込み、緊急事態に備えていた。大学生を装った悪の組織かもしれないのだ。
相変わらず白い飛沫を上げている滝つぼを、2時間ほど見つめていた。しかしなんの変化もない。それどころか、ここ1時間ほどは人の気配さえ感じられない。
ふと、顔を上げてみると、朱色に染まりつつある西の空が視界に入った。夕暮れが近いのだ。そろそろ晩御飯の時間である。帰らなければならない。悪の組織といえども生活があるのだ。こんな時間から活動することなどないだろう。
私がそんな風に考えていたちょうどそのとき、滝の方向から不規則な物音が聞こえてきた。思わず身を固くして振り返る。
水が流れ落ち、そのまま溜まっている泉に、ぽつりぽつりと、飛沫が上がっている。明らかに人工的な現象だ。私はゆっくりと目を這わせていく。再度、続けざまに白い泡が立ち、いくつもの波紋が広がり、互いに干渉して消えていく。
――どこだ。
私は高鳴る胸を押さえながら、周囲を見渡す。対岸の石畳、屋台、まばらに木々が生い茂る森のなか、さらに滝の上まで、順番に視界に捉えていくが、その影すら見つからない。
泉へと視線を戻す。しばらくは何事もないように静まり返っていた水面が、再度飛沫をあげ、波紋が広がる。私はその周辺を凝視した。と、その視線の先にちょうど、飛んでいく石を捉えることができた。
弾道を考えると――。
背中から、一気に汗が引いていく。まさに、灯台もと暗しというやつだ。
いや、言いわけが許されるなら、これは不可抗力である。なにしろ、私が身を隠している小屋のなかから石を投げているのである。私からは死角になる位置だ。
見つからないように気をつけながら、壁からそっと顔を出すと、ちょうど男が石を投げるところであった。確認できるだけで、3人、さらに影になっている部分に数人いる可能性もある。
投げ終わった男は挙動不審なまでにびくびくとしながら、あたりを伺っている。私は思わず顔を引っ込めた。今見つかっては元も子もない。
どうやって懲らしめてやろうか、と一通り逡巡する。せっかくなので水攻めにしたいところである。まずは体の自由を奪うためにしこたまに殴りつけ、そして滝に放り込む、頭を上げたところで再度沈め、また上がってくると沈める、という行動をひたすら続けようか。
しかし、それではひとりにかかりきりになってしまい、他の奴らには逃げられてしまう可能性が高い。全員に対してより効果的に制裁を加える方法は……。
「ん?」
一瞬感じた強烈なめまいに、思わず声が漏れた。
大きく頭を振り回し、その違和感を払いのけようとしたが、どうにもならない。胃の奥の方から、これまでに感じたことのないほどの吐き気がこみ上げてくる。急激に、視界が狭くなり、そして薄ぼんやりとしてくる。いったいどういうことだ、という思考も、曖昧になって消えていった。
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