07.最後の夜だから

第48話:私のはじめて

 白く分厚い綿のような積雲が茜色に染まり、太陽が西に沈むか沈まないか、ちょうどそんな時、私とタルワールは、旅商人の多くが集まるという野営地に到着した。事前に私が調べていた通り、そこには数百人規模の旅商人が集まり、ここで一晩を過ごそうとしていた。


 私は野営地の片隅に荷馬車を止め、横で居眠りしているタルワールに声をかける。しかしタルワールは、まどろみの世界から帰ってくる気配がない。いつもなら腹立たしく思う私であったが、今回ばかりは仕方がないと思ってあげることにした。今日は狼と山賊との連戦だったし、ほとんど寝てないみたいだし、心身ともに疲れていると思うから。そう考えた私は寝ているタルワールの横に座り込み、しばらくタルワールと一緒に静かな時間を過ごすことにした。


 それにしても今回の旅は楽しかったな。そりゃ死にそうにもなったし、命を狙われたりもしたけれど、そんなことなんか問題にならないくらい楽しかった。この、なんというか、守ってもらえているというか、大事にしてもらえているというか、そんな感覚。ほんと女子冥利に尽きるというか、ほんと嬉しくてたまらない気持ちになる。しかもコイツ、無駄にカッコいいしね。私はそう独り言をつぶやきながらタルワールの髪をそっと撫でる。へぇ、あれだけ動き回ったんだから汗でベトベトだと思っていたんだけど、結構サラサラなんだ。さわり心地もいいし、手ぐしをしてもひっかからないし、私の髪質より全然いいじゃない。ほんと、こんな髪質だと未来の奥さんに嫉妬されちゃうぞ。そう言って私は、ふふっと笑う。


 でも、この旅で思い知ったこともあった。つまり想像と現実の間には大きな、そう、とても大きな乖離かいりがあるということを。私がこの商取引を思いついた時、命を狙われる覚悟はしていたけれど、実際に命を狙われるまではどこか他人事のように考えていたし、なんとかなるだろうとしか思っていなかった。しかし、現実と想像は違う。狼の件といい、山賊の件といい、自分の命が危険に晒されて初めて命というものの尊さを実感したし、今まで自分がいかに周りの人間から守られていたかという事実を実感した。頭で考えている事と現実で起こっている事は全然違うのだ。


 そして私は、自分達商人の業にも思いが至った。つまりこの戦争で、シルヴァンで、人がたくさん死んでいることを想像することはできていても、実感することはできていなかった。商人が、私が、今やっていることの修飾語をすべて取り去ったとしたら、後に残るものは、戦争を商売のダシにして、人の不幸をダシにして、金もうけをしているという事実だけ。そして、私が望む商売のダシが完成するためには、多くの人が家を失い、家族を失い、そして友人を失わなければならないのだ。しかも私は、その人数が多ければ多いほど都合がよいと考えていたのだ。まるで人の命を盤上でチェスの駒を動かすかのように、勝手に思いを巡らし、勝手に仕掛けを打ち、金もうけの仕組みを組み立てていたのだ。私が考えた状況というものが、多くの人の不幸と大量の血によって出来上がっていることを想像することもなく。


「ごめんね、タルワール」


 私はそう言って、親指の腹でタルワールの唇をそっとなぞる。乾いてカサカサだと思っていたその唇は、意外にも弾力にとみ、しっとりとした感触が親指にじんわり残る。


 そう、私はこんな当たり前のことを想像することさえできず、戦争で多くの仲間だけではなく、国も失ったタルワールに対し、シルヴァンの犠牲の上に立っているもうけ話を得意げに、とくとくと話し続けたのだ。しかも、シルヴァンで起きた悲劇を、まるで自分の最大のチャンスといわんばかりに。


 それに気がついた時、私の瞳から自然と涙がこぼれ落ちる。私は事態がここに至って初めて、自分のしていることの浅ましさを理解することができたのだ。そして自分のしている行為が、道徳的に明らかに間違っていることが分かっているのに、命を賭け札として差し出している以上、ここで降りるわけにもいかないという現実も併せて理解することができたのだ。


「タルワール。この二日間、こんな私に付き合ってくれて本当にありがとう」


 私はタルワールが起きていたら絶対に言えるはずのない言葉をそっとつぶやいた。そして私の心は、契約金以外にもこの男にお礼をしなければならないという気持ちに徐々に傾いていった。顔中涙でびしょびしょの私は、タルワールの唇を触っていた右手で両目の涙を拭くと、商人としてはこれ以上出費をすることはできないけれど、女性としてなら私が出費できるものがあることに気がついた。しかし、実際には、なんというか、それを行動に移すとなると、なんというか、なんというもので、なかなか決断することができなかった。商取引ならいくらでも図々しくなれるのに、ここ一番になると何もできない自分自身がほんともどかしい。


 「うぅん」とタルワールの寝言。私は思わずのけぞってしまったものの、私に残されている時間がわずかであることを一瞬で理解した。今しかない、私は、私の心の中で急に沸き上がった感情に従い、思い切った行動にでた。そう、今、私ができる行動の中で一番思い切った行動。つまり、あとで振り返ろうものなら、あまりにもの恥ずかしさに卒倒してしまいそうになるほどの思い切った行動を。


 でも、ほら、商機というのは必ずあって、その商機を逃すことは商人として恥ずかしいことなんだし、商機を見つけたら一番利益が得られる行動をするなんて、そりゃ、商人として当たり前のことなんだから、私は商人として利益を最大限に追及しただけなんだから、誰も私の行動を非難できないはずよね、うん。私はそう言って自分自身を無理やり説得したものの、自分のしたあまりにも大胆な行動に自分自身が恥ずかしくなり、あわてて荷馬車から野営に必要となるであろう火起こしの道具を下ろし、野営の準備を始める。


 ここも近くにアラス川の支流があるし、水に困ることはなさそうね。そんなことを考えながら私は火起こしの準備を始めたのだが、自分の胸の鼓動が信じられない速度で脈打ち、自分が自分でいられなくなるような、そんな気持ちと必死で戦わなければいけなかった。


「リツ、火起こし代ろうか?」


 後ろから急にタルワールの声。「ひゃっ」と私は声にもならない悲鳴をあげる。


「い、いつから、お、起きていたの?」


「いつからって、さっき起きたばかりだが」


「さ、さっきって、いつよ。もしかして、私がしたこと、気がついていた?」


「あぁ」


 私はタルワールのこの言葉に信じられないくらい動揺し、口の中が一瞬で乾いていくのを感じた。そして思わず下を向く。もう、ダメ。恥ずかしさで死にそう。今日、私は何度も死線をくぐってきたはずなのに、ここが一番の死線になるなんて絶対におかしい。私は自分の運命に今日一番の抗議をする。


「リツ、どうしたんだ。さっきから火起こしくらいでそんなに動揺して。もしかして、火を起すの苦手なのか?」


「そ、そうなの。私、火起こしは少し苦手で」


 私はタルワールの質問に即答する。よかった、この反応なら大丈夫。たぶん私の勘違い、たぶん私がしたことに気がついていない。ここさえ凌げばなんとかなる。ここは全力でタルワールの会話に乗っからないと。そう考えた私は必死にそう言葉を返すと、タルワールは一瞬不思議そうな顔をしたものの、とりあえず私の態度には気がつかないフリをして、会話を先に進めてくれそうであった。


「こんなもの女性で得意なやつ、そうはいないさ」


 タルワールはそう言って火起こしの道具を受け取ると、続けて「今日はリツと過ごす最後の夜か」とつぶやいた。タルワールの急な一言に、私の顔は一瞬で真っ赤に染まる。ちょっと、やっぱり私がしたことに気がついているんじゃないの。なにこの男、いじわるにも程がある。私は恥ずかしさのあまり、もう顔を上げることさえできなくなっていた。しかしタルワールは、そんな私の様子を気にすることなく言葉を続けてくる。


「いまさら、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。さっき夫婦に間違われたばかりだろ?」


 そう軽口をたたくタルワール。


「確かに今日あった山賊、そんなこと言っていたわね。まぁ、私も悪い気はしなかったけど」


 私はなんとか小声で返事をする。


「うん、なにか言ったか?」


「いや、なんでもない、です」


 私はタルワールの言葉をとっさに否定する。もう、結局、私がしたことに気がついているか、気がついていないかはっきりしなさいよ。あと、もし気がついているなら、お礼くらい言いなさい。私のはじめてだったんだから!


 私は心の中で強く抗議をしながら、複雑な笑顔をタルワールにむけた。

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