第23話:恐怖をお金にかえないと

「私はもう大丈夫、こっちを向いていいわよ。タルワール」


 私は自分自身の声がまだ涙声であることを理解していたが、できる限りの元気を振り絞ってタルワールに声をかけた。しかし、私の中の理性と感情のバランスは左右に大きく揺れ動き、何かちょっとしたきっかけで泣き出してしまいそうではあった。ただ、これ以上タルワールに負担をかけるわけにはいかないという気持ちが、私の心の中で大きな感情の壁を形成し、私はなんとか笑顔を保つことができていた。


「リツ、なんかもう、涙でくしゃくしゃだな。折角のかわいい顔が台無しだ。もう少しで月も雲から顔を出す。明るくなったら、川に行って顔でも洗ってきたらどうだ?」


 ぶっきらぼうだが優しさのこもったタルワールの言葉に私は「うん」と素直にうなずいた。こういうタルワールの優しさ、本当にありがたい。


「タルワールの背中、返り血で真っ赤っかよ。後ろの部分を拭いてあげるから、その布、貸して。剣と甲冑の手入れは騎士のたしなみなんでしょ?」


 私はそう言ってタルワールから古い布を受け取ると、甲冑についた返り血を拭き始め、小さな声で「ありがとう」とタルワールに謝意を伝えた。するとタルワールは大きく頷いてくれた。そして訪れる約束されたかのような沈黙。森の中に、甲冑を布で拭く音だけが、金属と布がこすれる音だけが静かに響く。まるで時がうたを奏でるかのように。


 私が甲冑についた返り血を拭き終わった時、東の空はほのかに白みをおび、松明がなくてもかろうじて遠くが見通せる明るさになっていた。この頃になると私は完全に落ち着きを取り戻し、タルワールと普通に会話ができるようになっていた。私が甲冑についた血をすべて拭き終わったことを伝えると、タルワールは「助かったよ」と短く礼を言い、真剣な顔で私にこう忠告する。


「とりあえず今すぐにでも出発したほうがいい。そろそろ夜目が利かない動物が目を覚ます。そうなれば、狼の死体から漂う血の匂いを嗅ぎつけて、他の動物が近づいてくる。どんな動物がこようが俺は負けるとは思わんが、これ以上のリスクをリツに負わせるわけにはいかないからな」


 私はタルワールの言っていることを理解することができた。できていたのだけれども、私は商人である以上、この提案を素直に受け入れる事ができなかった。


「タルワール、ごめんなさい。私はこの狼を解体して持っていきたい。肉も毛皮も売ればお金になるから。こんな目にあわされたんだし、せめてお金に変えないと納得できない」


 私がそう告げるとタルワールは安堵した表情を浮かべ、大きな声で笑い始めた。


「こんな時まで、リツは立派に商人なんだな」


 タルワールは、この発言で私が平静を取り戻したことに確信を持てたようであった。しかしタルワールはその事に触れる事なく話を続ける。


「確かにその通りだ。雇い主がもうけるチャンスを奪うわけにはいかないな。こんな大事な事を見逃してすまなかった。狼の解体は俺もできるから手伝わせてくれないか?」


 そんなタルワールの言葉に、私はタルワールなりの気遣いが込められていることを理解していた。だから私は笑顔で「ありがとう」と返し、その善意を素直に受け取ることにした。


 私たちは、さっそく狼の解体に取りかかる。解体作業といっても、この森でできるのは血抜き・・・内臓の摘出・・・・・の二つだけ。でも、この二つをするのとしないのとでは、毛皮はともかく肉の味は大きく変わる。肉は味が落ちれば売値も下がる。つまり、私のハッピーな商人生活のためにも、この作業を行わないという選択肢はないのだ。


 ただ、この二つの作業、そんなに難しい作業ではない。血抜き・・・は狼の後ろ脚をロープに括りつけ、逆さに吊るして頸動脈を切って大量の血を出すだけだし、内臓の摘出・・・・・といっても、血抜き・・・が終わった狼の肛門にナイフを入れて内臓を取り出すだけだ。慣れている人がやれば一匹あたり十分もかからない。


 しかし今回解体する狼は八匹だ。そのため私はこの作業が一時間以上かかると覚悟をしていた。しかし結果はそうはならなかった。なぜならタルワールが本職の肉屋顔負けの解体技術で、あっと言う間に八匹の狼を解体してしまったからだ。


 結局、私がやったことといえば、逆さに吊るされた狼の首元にナイフを入れただけ。あとの作業はタルワールがすべて引き受け、作業が完了するまで三十分もかからなかった。タルワールは「たまたまさ」と謙遜していたものの、さすがに私の二倍の速度で作業を終えられてしまうと自信がなくなってしまう。


 とりあえずそんな感じで、私は解体した狼の肉を荷馬車にのせ、出発の準備を整えていく。ただ、狼に襲われる寸前に荷物をある程度まとめていたから、それほど時間はかからなかった。こうして私がすべての作業を終えた事をタルワールに笑顔で告げると、タルワールは私の顔をマジマジと見つめてきた。


「リツ、今度から俺に向ける表情はそれで頼む。俺も男だ。泣いている女性の顔を見せられると、どうしていいかわからなくなる。今日みたいな事はするなと言うつもりはないが、ほどほどに頼む」


 そういってタルワールは私に右手を差し出した。私は素直にその右手を取ったものの、タルワールの顔を直視することはできなかった。なぜなら今になって急に恥ずかしくなり、私の顔は、いや耳まで、真っ赤に染まっていたからだ。

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