第20話:こんな話はきいていない

「リツ、起きろ。起きてくれ!」


 タルワールの必死の叫び声で私は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。たしか私がなんで旅商人をしているかみたいな話をしていたと思うんだけど、そこから先、何を話していたんだっけ。って、これ、もしかしてまずい状況? 視線の先にタルワールを捉えた私は、タルワールが尋常ならざる精神状態であることに気がついた。でも、今日、散々からかわれてきたし、これ、どこまで本気かわからないよね。私はそんな呑気なことを考えると、再び毛布の中にもぐりこむ。


「おい、リツ。起きているなら、すぐ焚き火の前に移動しろ、死にたいのか」


 タルワールの怒鳴り声で私は思わず飛び起きた。これ冗談じゃない、なにか大変なことが起きている。タルワールのあの緊張感ただ事じゃない、よね。


 今さらながら危機的な状況を理解した私は、毛布をはねのけ、タルワールに言われた通り焚き火の近くに移動する。一方、タルワールは森の暗闇に剣先を向け、微動だにしない。周りの空気は凍りつき、不自然な静寂があたりを包みこむ。


「タルワール、この音はなに?」


 時折聞こえる小枝がパキパキと折れる音が気になった私は、恐る恐るタルワールに尋ねる。


「多分、狼が歩いて小枝を折る音だ」


「ちょ、ちょっと、狼って。狼に襲われるなんて滅多にあるものじゃない。そんなこと言っていたじゃない。あれはなんだったのよ」


「誰がそんなことをいったんだ」


「だれが、って、私が」


 あまりにもの恐怖に混乱し、私は自分が何を言っているのか分からなくなっていた。とにかくこの状況はおかしい。狼は出ない予定であったのだから、この小枝の音も狼とは限らない。いやいやそれ以前に、この野営地の周りにそんな都合よく小枝が落ちているわけがない。


「やっぱりタルワールおかしいよ。今日の私の予定に『ここで狼に襲われる』なんてなかったもの。だからこの音の主も狼ではないんじゃないの?だいたい何かの物語や芝居じゃないんだし、そんな都合よく私たちの野営地の周りに小枝が落ちているわけないと思うの」


 私はガタガタ震えながらタルワールに精一杯の笑顔を向ける。


「いいから落ち着け」


 タルワールはそう言って私を一喝する。


「小枝は、俺がマキを拾いにいくついでに仕掛けておいたものだ。だからそこに疑問を持たなくてもいい。いいからもう少し耳を澄まして、注意深く周りの音を聞いてみろ。狼の唸り声が聞こえてこないか」


「まさかぁ」


 現実を受け入れたくない私はタルワールに生返事をしたものの、念のため、一応、タルワールに言われた通り、恐る恐る耳を澄ましてみる。すると確かに狼と思われる低い唸り声が聞こえてきた。もしかして、これ、タルワールの言う通りなの? 現実を認識することを拒否することで、なんとか最低限の冷静さを保っていた私の心は徐々に恐怖という感情に支配されていく。


「こ、これ、荷物まとめて置いた方がいいわ、よね?」


 私がタルワールにそう尋ねると、タルワールは私に向かって振り返ることなく「頼む」と短く返事をする。いつもの軽口がでない。もしかしたら状況はかなり逼迫ひっぱくしているかもしれない。もしかしたら本当に狼に取り囲まれているかもしれない。私は急いで外に出ている寝具や荷物を荷馬車に乗せ、キャロルを荷馬車に繋いで出発の準備を整えていく。するとタルワールは、まるで後ろに目が付いているかのようにそれを制止する。


「リツ、馬は荷馬車に繋ぐな。馬は狼より足の速い動物だ。この整備された街道なら、馬に乗って突っ走れば命だけは助かるかもしれない。馬は夜目が利く、行先は馬に任せておけばいい。俺が勝てないと判断したら指示を出すから、お前だけは馬に乗ってすぐに逃げるんだ。いいな」


 「はい」と私は短く返事をして、タルワールの指示に従う。私は狼の脅威から少しでも身が守れるよう焚き火にマキをくべ、火を大きくしようと試みたが、マキを持つべき手はガクガク震え、その役割を果たすことができない。それどころか悲鳴さえ喉を通ることができず、ただ、この恐怖の時間が早く過ぎることを願うことしかできなくなっていた。


 そんな私の不安を感じとったのか、キャロルは私の顔に自分の顔をすり寄せて、私を落ち着かせようと必死に働きかけてくれるようであった。私はそんなキャロルに少しだけ勇気をもらえた気がしたが、そんなキャロルも体を小刻みに震わせ、口を固く閉じ、耳を左右にバラバラに動かし、なんとか恐怖と戦っているみたいであった。私はそんな健気なキャロルを見て「ふふっ」と笑うと、キャロルのたてがみを撫でながら「キャロル、君は男の子なんだから、もっと肝が座っていないと女の子にもてないぞ」と話しかけた。


 私はそんなキャロルとのやり取りで、自分自身が徐々に落ち着きを取り戻しつつあることを理解していたものの、恐怖や不安が払拭されたというにはほど遠く、私の中の張り詰めた緊張の糸が緩むことはなかった。


「リツ、とりあえず、今俺たちを囲っている狼の頭数であれば大丈夫だ。俺一人でなんとかなる。ただ、これ以上頭数が増えたら自信がない。いいか、さっきも言ったが、俺が指示を出したら馬に乗ってすぐに逃げるんだ。わかったな」


「そんな薄情な事できるわけないじゃない。それって私だけが生き残って、タルワールが死ぬってことでしょ?」


「いや、そうは言っていない。これくらいの頭数であれば俺一人で充分対処できる。しかし、リツを守りながらとなると話は別だ。ナイフは料理の時にしか使ったことがないんだろう?それではこの場で生き残ることはできない。だから、万が一の時は、俺に構わず逃げろ。そして陽が昇ったらここに戻ってきてくれ。ちゃんとリツの荷物と一緒にお留守番しておいてやるから」


 私は、いつの間にかタルワールにいつもの軽口が戻ってきていることに気がついた。しかし、その声はいまだ真剣さを帯びていることにも気がついた。きっとこの軽口も、私に早く冷静さを取り戻して欲しいというサインなのであろう。


 つまり、それは事態がもう抜き差しならない状態になっているとタルワールが判断しているということだ。すなわち、いつ狼が暗闇から飛び出してきてもおかしくない状況だということだ。私は恐怖と戦いながら、最低限の護身用の荷物と食料をキャロルに括り付け、いつでもキャロルに乗って逃げ出せる準備を整えていく。特にこの青い箱だけは無くすわけにはいかない。そして気がつくと、狼の唸り声は、いつの間にかどんどん大きくなってきていて、もう耳をすまさなくても聞こえるくらいの大きさになっていた。

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