03.だって、お金が好きだから
第18話:沈黙されるとツライのです
楽しかった夕食も終わり一息つくと、木々の間から見える空はすっかり暗くなり、見渡す限りの星の海が広がっていた。聞こえてくるのは川のせせらぎと、遠くから聞こえる名も知らぬ鳥の鳴き声のみ。そして森は、まるで眠りについたかのような静寂に包まれていた。
私の前にある焚き火はパチパチと不規則な音を繰り返し、森の静寂に対してささやかな抵抗を試みたものの、明らかに力不足で、私の寂寥感は増すばかりであった。手持ち無沙汰でたまらない私は、かまどにかけてあった水、いや、今ではお湯になっているのだけれども、とにかく鍋に入っている液体をコップに注ぐと、それをタルワールに差し出した。
するとタルワールは、私の目を見ることもなく「ありがとう」と短く不愛想に答え、ふたたび剣と甲冑の手入れに没頭し始める。ほどなくして森の静寂は、布で剣をふく不規則な音で満たされていった。なんというか、長い静寂というものは、多かれ少なかれ人の感性に影響を与えるものらしい。私の場合、この静寂は、まるで周りの空気を圧縮し、時までも濃縮し、やがて万物に、ありとあらゆるものに粘性を持たせるような、そんな錯覚を感じさせていた。そう、いつも見上げている星の輝きですら、ゆっくりと
これが長年連れ添った老夫婦が共有している時間であるとすれば、それはそれで良いものなのかもしれない。お互い心で強く通じ合う二人にとって、沈黙は表面上の事象、常に以心伝心の二人にとって周りの音は、心の通信を邪魔するノイズでしかないのだから。
しかし、そもそも私とタルワールは夫婦ではないし、恋人でもないし、そんなことを感じあえる仲でもない。そして何より私は若いのだ、少女なのだ。つまり私がこの沈黙に耐えられないのは、間違いなく正しいことなのだ。
そうやって自己正当化を完了した私は、真剣な顔で剣と甲冑の手入れをするタルワールに構って、じゃなくて、話しかけることにする。お話するだけだったら別に作業しながらでもできるでしょ?私、今、とっても寂しいの。
「ところで、タルワール。余ったミルクを温めて飲もうと思うんだけれど、いる?」
私のこの優しい問いかけに、タルワールは全く興味を示さない。ただ黙々と古い布をお湯につけ、手持ちの剣を磨き上げるだけで手を休めようとしない。しかし、脳のリソーセスは空気を読む能力にある程度割いているらしく、一呼吸ではすまされない沈黙のあと「ああ」と短く一言だけ返事をする。
さすがの私もこれでは会話のきっかけを作りようがない。どうしたものかとほとほと困り果てながらも、私は今日の料理で余ったミルクを火にかけた。何かタルワールの興味を引きそうな話はないかしら、私がそう必死に考えていると、ふと、タルワールが夕食にこだわっていたことを思い出した。この話題ならいけるかもしれない。
「今日の夕食、美味しいと言ってくれてありがとう」
そう言いながら私は温めたミルクをタルワールに手渡した。
「あぁ、期待以上に美味しかった。ありがとう」
タルワールから感謝の言葉が返ってくる。でもこれ明らかに生返事。どうやら剣の手入れに忙しいタルワールには、食事の話も刺さらないらしい。
「その剣、今日は一度も使ってないんだし、わざわざ手入れをしなくてもいいんじゃない?」
私がそう尋ねると、タルワールははじめて剣を磨く手を止める。
「そうだなあ、こういう身の回りの道具というものは、毎日手入れをすることが大切なんだ。特に剣と甲冑は、俺たち騎士の命を守る最後の砦だからな。常に万全にしておく必要があるし、それが騎士としての最低限の仕事だからな」
「俺は、剣の手入れをおろそかにして実力を発揮できずに死んでいった同僚を山ほど見てきた。そう、山ほどな。俺は明日死ぬかも知れない騎士だ。だからこそ、こういった道具の手入れに関しては手を抜きたくない。ただ、それだけの事なのさ」
そういい終わると、タルワールは少し寂しそうな表情を浮かべる。しかし、私がタルワールの言葉を心配そうに聞いていたことに気がついたのであろうか、急に明るい声で私に話しかけてくる。
「リツだって新しい商売を始める前、ちゃんと下準備をするだろ?それと同じさ」
「そうね」
私は温めたミルクを入れたコップを片手に、タルワールの隣にゆっくりと腰をおろす。
「たしかに、私も何かしらの取引をする前は綿密な準備をするもの。実際に取引をしている時間より準備をしている時間の方が長いくらい。だから、そういう意味では商人の準備というものは、タルワールの言う騎士の最低限の仕事に近いかも知れないわね」
私はそう言って「ふふっ」と笑うと、さりげなくタルワールの肩にもたれかかった。
「そうだな、どんな仕事でも準備が一番大事ということなのかも知れないな。シルヴァンだって、ちゃんと準備をしていれば滅亡することはなかったかもしれない。そう考えると、神様という存在は、意外と俺たちをよく見ているのかもしれないな」
タルワールはそう言って寂しそうに笑うと、油の入った携行用の壷を取り出し、新しい布に油をつけて、ふたたび剣を磨き始める。
「何言ってるの、タルワール。シルヴァンという都市国家は確かに滅びたかもしれない。でもシルヴァンという街が消えてなくなったわけじゃない。街が残り続ける限り、シルヴァンが滅びたとは言えないんじゃないの?」
私がそう言って笑うと、タルワールの手が再び止まる。
「リツ、すまないな。いらない気を使わせてしまったみたいだ。確かにリツみたいな街での生活を礎にした商人なら、そういう割り切り方もできるかもしれないな」
そう言うとタルワールは大きなため息をついた。
「しかし、残念なことに、俺は国に仕える騎士だったんだ。騎士にとって仕える国が亡ぶということは、そういうことなのさ」
「例えばだ。器が同じでも中の酒が変わってしまえば味は変わってしまう。そして、酒の製法が同じだとしても、作り手が変われば味は微妙に変わってしまう。リツみたいな商人は、きっと誰が作っても同じ味だと言ってその酒を気にせず買うのだと思う。しかし、俺たち騎士は酒にうるさくてな、たとえ味が同じでも、作り手が違えば納得できないものなのさ」
そう言って、タルワールは自嘲気味に笑う。
「それにだ。うまい酒を造るには時間がかかる。たとえシルヴァンという器が残っていたとしても、そこに独立という酒を注ぐには、今入っている酒を飲み切って器を空にする必要がある。そして、そこからまた新しい酒を造る作業が始まるというわけだ。出来上がる酒の味が違ったものになるとわかっているとしてもな」
「どちらにせよ、再びシルヴァンが独立できたとしても何十年も後の話さ。そしてその時、俺たちは生きてはいない。つまり俺たちの世代にとって、シルヴァンは確実に滅びたのさ」
タルワールは、今日一番の寂しそうな顔でそう語ると、すくっと立ち上がり、磨いていた剣を鞘におさめた。
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