むらさきくゆる
「窓、開けるか」
戸田は気を取り直すように立ち上がり、窓の鍵に手をかける。
さっき1本吸いきっておいて今さら換気か、とは思ったけれど、わざわざ口にすることでもない。
半開きにした窓の隙間からは湿った土の匂いがふわりと漂ってきた。
夜更けからごく弱い雨が降り続いているからだろう。
外では霧雨に負けじと何かの虫がジージーとひっきりなしに鳴いている。
こうして春から初夏の夜にかけて鳴く虫の正体は、バッタの仲間らしい。
自分の位置を他の虫に知らせて、自らの縄張りを主張するために鳴くのだと聞いたことがある。
どこで聞きかじった知識だろうかと記憶をたどってみると、目の前の男に行き着いた。
あれは大学に入学して少し経った頃のことだ。
新入生歓迎会と題したサークルの手荒い飲み会の後、僕は酔いつぶれた戸田を引きずり、大学から程近いこのアパートまで連れてきてやった。
博識な戸田は、外から聞こえる虫の声に「うるさい」と文句を垂れながら、豆知識を披露してきた。
確かあの時は、先輩にむやみに頼まれた酒を戸田が一人で処理してくれたのだっけ。そして僕はささやかな礼として、引っ越し先が決まらず宿無し状態の戸田を二晩ほど泊めてやったのだった。
それからだ。こいつと僕がつるむようになったのは。
戸田は立ちのぼる煙をぼんやりと眺めながら、ふう、とさらに息を吐いた。
気だるい甘さがほのかに香る。
「戸田。いつまでここに居んの」
「とりあえず週末までは世話になるかな」
「そう」
戸田は手土産を手に時々ふらりとこのアパートにやってきては去っていく。
今回は、インターンシップを受ける会社から距離が近いという理由で僕の部屋に泊まりに来ていた。
適当に生きているように見えて抜け目のないこいつのことだから、自分の進路にもある程度見通しを立てているのだろう。
順当に行けば学生生活は残り約2年。
2年後には大学を卒業して、多分この部屋は引き払っている。
戸田はその時までここに変わらず来ているのだろうか。
戸田は虫の鳴き声が煩わしくなったのか、タバコを空き缶に置くと、おもむろに立ち上がり窓を閉めた。
「大阪」
「は?」
振り向きざまの一言に面食らう。
戸惑っていると、戸田は旅行雑誌の1冊を取ってどすんと座り込んだ。
「大阪に行きたい。城と寺社を見る。あと水族館」
「なんだよ急に」
「来月の土日月で空いてる所あるか?ゴールデンウィークは混むからそこ以外で」
「……旅行に行きたいってこと?」
「ああ。雑誌を見たせいで行きたくなった」
突拍子もない提案にすぐには言葉が出てこなかった。
人が物思いをしている時にどうしてこう絶妙にペースを乱してくるのか。
「月末なら空いてるけど」
卓上カレンダーをめくりながら声をかけると、戸田は「そうか」とうなずいた。
「じゃあその週で。宿と経路は適当に見ておくから、お前はメシの店探しといて」
俺はうどんすきさえ食えればあとはどうでもいい。
そうおざなりなリクエストをして、スマートフォンをいじり始める戸田。
「日本100名城は20代のうちに回っておかねえとな」とうそぶく様子に、呆れ半分感心半分のため息が出た。
「お前、そんな目標あったのか」
「ああ。つい最近思い立った」
「いい加減だなぁ。今はいくつ制覇してんの?」
「あー……多分、7か8くらい」
「全然じゃん」
「ああ、再来年の春までかけても無理だろうな」
「だろうね」
再来年の春、つまり卒業までに達成できる目標ではないだろう、ということはさすがの戸田でも分かっているらしい。
「遠い県は学生の内になるべく押さえとくとして。後はお互いうまく休みを合わせられればどうにでもなるだろ」
「うん?」
さらりと言われた“お互い”という響きに、少しの違和感を覚える。
「関東甲信越だったらぎりぎり日帰りでも行けそうだよな」
「……戸田、あのさ。俺にも一緒に城巡りさせようとしてる?」
「そうだけど」
当然だと言わんばかりの堂々とした態度に、なんと言えばよいか分からない。
「進路も何も決まってないのにか。多分就職する場所とか異動とか休みの取り方とか色々あると思うけど」
「そんなもの、実際決まってから考えればいいだろう。なんだ、行かないのか」
「……そうとは言ってないって」
「このアパートも卒業したら引っ越すんだろ?次はもっとスーパーから近い方が楽なんじゃないか。それと、郵便局と図書館も近い方がベターだな。個人的には目の前に畑がある所は避けてもらいたい、虫と蛙の声で気が散る」
どちらが家主なのか分からない尊大な言い分に、呆れを通り越して笑いが込み上げる。
バルブを締め忘れた自転車のタイヤみたいに、体の力がごっそりと抜けた。
「勝手な奴」
戸田は小言など意に介さない様子で、スマートフォンを指で叩く。ちらりと見えた画面には、新幹線の検索サイトが表示されていた。
空き缶の上に置かれたままのタバコからは一筋の煙がたなびいている。
煙は窓の外に向かい、明け方の空に同化して消えていく。
その甘さがやけに清々しく感じるのは、雨上がりの土の香りのせいだろうか。
陽の色と空自身の色は、煙にぼかされたように淡く混じり合った。
それは確かに紫という言葉が合っていた。
マジックアワー ビリヤニ @yurugi_santaro
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