暴力は全てを解決する

「な、何を言ってるんだお前は……」


 離婚届を突きつけられた莉愛のお父さんは、動揺から何度も瞬きを繰り返している。


「聞こえなかったのならもう一度だけ言います。莉愛と瑞稀くんの結婚を認めないなら、わたしはあなたと別れます。それだけよ」


 莉愛のお母さんは笑顔で言い終えると、婚姻届を無理やり莉愛のお父さんに持たせた。莉愛のお父さんはその婚姻届を見て、目を大きくさせる。


「も、もう婚姻届にお前の名前が書いてあるじゃないか! これはどういうことだ! まるで準備をしていたみたいじゃないか」


「わたしと離婚すると、あなたは沢山のお金を失うことになるものね。離婚届は脅しに使えるかと思って、こんなこともあろうかと側近に渡していたのよ」


「どうして莉愛の肩を持つんだ! お前は私の妻だろ!」


 離婚届をぐしゃぐしゃに握りしめて、いつになく莉愛のお父さんは余裕がなさそうだ。

 突如として始まった白塚家の夫婦喧嘩に、教会の中に居る全員が注目している。

 莉愛と結婚しようとしたら、ご両親が離婚の危機に……えらいこっちゃ……。


「もちろんあなたの妻よ。でも、莉愛の母親でもあるの」


「夫か娘かで、お前は娘を取るのか」


「当たり前でしょ? 日本に住む九割の母親が、旦那よりも娘を選ぶと思うけど」


「お前……ここまでいい暮らしが出来るのは誰のおかげだと思っているんだ」


「はあ……そういうところよ、あなたを好きになれない理由は。わたしは娘が幸せになれるのなら、あなたと離婚することによって貧しい暮らしが待っているとしても娘の幸せを選ぶから」


「よろしくね」と言いたげな笑顔で、莉愛のお母さんは肩をすくめてみせた。

 莉愛のお母さんは夫と違って娘思いの人らしい。どうやら莉愛のお母さんは俺たちの味方のようだ。


 莉愛のお父さんは何も言えなくなって、悔しそうに歯をギリリと噛みしめる。


「お前……本気で言っているのか……?」


「ええ、本気よ。元よりわたしは両親の命令であなたと結婚しただけ。でも今はわたしの両親は天国に居る。こうなってしまえば、あなたと一緒に居る理由なんてひとつもないの」


 莉愛のお母さんは本気で別れようとしている。その本気さがヒシヒシと伝わってくるので、この場に居る全員が固唾を飲んで見守るしかなかった。


 莉愛のお父さんは悔しさからなのか、怒りからなのか、離婚届を握りしめた手をわなわなとさせている。

 また得意の大声を出すのだろうか。そう思っていると、莉愛のお父さんの体から一気に力が抜け落ちた。床に膝を着いて項垂れるその姿は、会社をクビになったサラリーマンのようだった。


 今までの堂々とした佇まいとは打って変わって、床に膝を着いて項垂れる父を見て、莉愛はかける言葉が見つからないでいる。


「俺は……家族が幸せになれる最善の選択をしただけなのに……」


 莉愛のお父さんは弱々しく声を紡ぐと、持っていた離婚届を真っ二つに破いてみせた。そのまま何度も何度も千切り、離婚届は散り散りになって床に散らばった。


「家族の幸せとか言って、自分の利益しか考えてないじゃない。莉愛の幸せなんて放ったらかしで、金になる男とくっつけようとして」


「それは……! オリバーくんの家は私なんかよりも数十倍も金持ちの家だ。そんな家に嫁入りしたら、莉愛は一生裕福な暮らしを送れるじゃないか……!」


「莉愛本人は瑞稀くんと結婚したいって言ってるけど? 本人の意志は無視なのね」


「莉愛はまだ成人もしていない子供だ。そんな子供に結婚の大切さなど分からないだろう」


「だからと言って親が勝手に決めた結婚で、莉愛が本当に幸せになれると思う? あなたは金に溺れた人生だったから分からないかもしれないけれど、恋心というものは確かに存在します。その恋心を信じて、覚悟を決めたのだから、莉愛の結婚を認めるべきだとわたしは思いますけどね」


 淡々とした口調で言い終えると、莉愛のお母さんは途端に顔から感情を消した。その感情が覗かない瞳で、床に膝を着く莉愛のお父さんを見下ろしている。


「でも……一般庶民との結婚なんて──」


 莉愛のお父さんが反論しようとした刹那、莉愛のお母さんは大きく手を振りかぶった。かと思いきや、そのままムチのごとく腕を振るい、莉愛のお父さんの頬に平手打ちをかました。


「でもでもでもでも、金金金金うるさいんだよ! ちょっとは娘の気持ちも思いやれ、この金の奴隷がッ──!」


 鈍く大きな平手打ちの音が教会内に響き渡ると、莉愛のお母さんはドスの効いた怒鳴り声を上げた。今まで上品にしていた人の怒鳴り声に、姉三人と莉愛は肩をビクリとさせた。


 突然ぶたれた莉愛のお父さんは、何が起こったのか分からないといった様子で目をパチパチとさせている。

 そんな莉愛のお父さんを見て、莉愛のお母さんは腰を下ろして目線の高さを合わせた。


「莉愛は今、自分で道を選ぼうとしているの。それを自分の私利私欲のために、そっちの道は危険だって決めつけて道を閉ざすのは、親としては失格。ちょっとは親らしいところ見せてよ。ねえ、あなた」


 ドスの効いた声とは打って変わって、莉愛のお母さんは諭すように言った。

 莉愛のお父さんは平手打ちをされて萎縮してしまったのか、さっきまでの勢いを無くして、捨て猫のような目で莉愛のお母さんと目を合わせている。


「私の選んだ道は一番正しい。私たち家族も、莉愛だって幸せになれる」


「いいえ。私たちは得するかもしれないけれど、その道じゃ莉愛は幸せになれない。莉愛を救おうと必死な瑞稀くんを見て、そのことに気付かされたの」


 良くも悪くも、莉愛を強引に連れ出したのは正解だったようだ。

 莉愛のお父さんは怒っているだろうけれど、莉愛のお母さんに熱意は伝わっていたらしい。ほんと、無理してよかった。


「この世で一番大事なのは金だ。ウチよりも金のない家に一人娘を任せるなんて、それこそ親失格じゃないのか……?」


 もしかして莉愛のお父さんは、自分の私利私欲のためだけではなく、莉愛のこともよく考えていたのだろうか。莉愛のお父さんは、ちゃんと父親の心を持っているのかもしれない。

 金のある家と、金のない家。その二つの選択肢が目の前に現れた時に、娘を任せたいのは金のある家に決まっている。

 莉愛のお父さんは恋心をただの感情だと言っていた。その一時の感情だけで、明らかな選択ミスをしようとする娘が心配で仕方がなかったのだろう。


 その根本は同じ考えだったのか、莉愛のお母さんが言葉を詰まらせた。


「大丈夫。本間家に任せて」


 教会内が静まり返ろうとした時、声を上げたのは衣緒お姉ちゃんだった。

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