心の錯覚に躍る

「一千万ある。これで莉愛から手を引いてくれ」


 その言葉が鼓膜を突き破り脳に到達すると、俺は「一千万!?」と声をひっくり返しながら、目を見開いて前のめりになっていた。


「中身を確認してみなさい。きちんと一千万入ってるはずだ」


 莉愛のお父さんは一切表情を変えない。むしろ真剣な表情を作っているので、冗談ではないことは分かる。

 俺は莉愛のお父さんの視線を気にしつつ、恐る恐る紙袋の中を覗いてみる。そこにはタワーのように積み立てられた、一万円札の束が入っていた。

 一千万円なんて大量の金は初めて見たが、これくらいの量なのか。なんかもっと多そうなイメージだったが、意外とこんなものらしい。

 でも一千万円というお金が大金であることに違いない。俺の小遣いは一ヶ月で一万円だから、単純計算したら千ヶ月分だろうか。

 一千万円……すごく夢のある大金だ……。


「こ、これ……俺にくれるんですか……?」


「ああ。君が莉愛のことを諦めてくれればね」


 そう言うと、莉愛のお父さんは目尻に皺を作って笑った。初めてみた莉愛のお父さんの笑顔に、俺は警戒してしまう。


 もしも莉愛を諦めたら一千万円が貰える。

 一千万円なんて夢のような大金だし、俺が普通に働いてもちょっとやそっとじゃ稼げないだろう。

 それが莉愛を諦めるだけで貰えるというのか。

 だけども俺には、その『だけ』すらも出来そうになかった。

 莉愛の顔が思い浮かぶと、一千万円がくすんでしまうのだ。


「ごめんなさい。これは受け取れません」


 俺は紙袋をそっと莉愛のお父さんに近づけた。

 その行動を見た莉愛のお父さんは、笑顔を消して目をすがめた。


「本気で言っているのか?」


「ええ、本気ですよ」


「それじゃあもう一千万を追加してやろう。それでどうかね?」


「金額の問題じゃないです」


「じゃあどういう問題なんだね」


「いくら積まれても俺は莉愛のことを諦められません。それだけです」


 危なかった。危うく目の前の大金に魅了されるところだったぞ。もしも莉愛の顔が頭に浮かばなかったら、俺は今頃紙袋を受け取ってそそくさと帰っていただろう。お金というものは恐ろしいな。


「君はお金の価値を分かっていないようだね」


「まだ働いたこともない普通の高校生なんでね」


 俺の生意気な言葉に、莉愛のお父さんはため息を吐いた。呆れた顔をしながら、莉愛のお父さんも椅子に深く腰掛ける。


「それじゃあ普通の高校生の君にも分かるように、お金の価値を教えてやろう」


 莉愛のお父さんはそう言うと、俺の返事を待たずに話し始める。


「君のした選択は、一時の恋愛感情を優先して、目の前の大金をみすみす逃す選択をした。その自覚はあるかね」


「まあ、はい」


「それを自覚しておきながら、大金を捨てたのだね。でもとても高校生らしい。青春だね。お金よりも恋愛感情を優先するなんて」


「何が言いたいんですか」


 莉愛のお父さんの言葉遣いが説教じみていて、段々とイライラしてくる。でもここで感情的になってもいいことがないのは理解しているので、深呼吸して耐える。


「私が言いたいのは、一時の恋愛感情で目の前の金を失うのは勿体ないってことだよ。考えてみなさい。君の周りにも恋愛を楽しんでる人たちが居るはずだ。その人たちが恋人を作ったり別れたりしているのは、どうしてだと思う」


「一時の恋愛感情だからって言いたいんですか?」


「それも当たりかもしれないね。でも真実はもっと簡単だ」


「なんですか」


「みんな暇なんだよ。暇だから恋愛なんてくだらないものに時間を掛ける。恋愛なんて心の錯覚だ。みんな暇な時間を利用して、心の錯覚で遊んでいるだけだ。もっと他にやることがあるなら、恋愛なんてしてる暇はないはずだ」


 莉愛のお父さんはそう言うと、俺のことを指さした。


「きっと君の人生は暇なのだろう。だから恋愛なんてくだらないものに走ってしまった。恐らくそれは、勉強や趣味に打ち込めていないからだ」


 グキっとした。たしかに俺は勉強もロクにしたことがないし、趣味なんてものも持っていない。

 でも俺が莉愛のことを好きな理由が、『暇だから』と言われたような気がして、心の底から気に入らなかった。


「それは違うんじゃないですかね。実際、あなたも誰かと恋をしたから、莉愛が産まれたんじゃないですか?」


「はっはは。面白いこと言うね。俺は恋になんて打ち込んでいる暇はないよ」


「結婚してるんじゃないんですか?」


「もちろん結婚はしているよ。でもその結婚には恋なんてくだらないものはない。ただ金のために結婚した。それだけだ」


 当然のように言い放った莉愛のお父さんの言葉に、俺は血の気がサーっと引いていく感覚が襲った。


「なんですかそれ。じゃあ金のための結婚で莉愛が産まれたって言ってるようなものじゃないですか」


「その通りだね。でもそれの何が悪いんだい? 結婚の形なんて人それぞれだ。子供が欲しかったり。恋愛から発展したり。誰でもいいから籍だけを入れたかったり。独り身が嫌だったり──それが私たちの場合は、金のためだったってだけだよ」


「そんな……酷すぎないですか?」


「何が酷いんだい? 実際にお金のために結婚する人は、君が思ってるよりも多い。結婚というシステムは金を産むケースが多いからね。ビジネスのチャンスなんだよ。まあ普通の高校生の君には分からないだろうけどね」


 莉愛のお父さんは煽るように言うと、「何か言いたいことはあるかい?」とでも言いたいかのような視線をこちらへと向けてくる。

 その態度にイライラとしながらも、俺は歯を食いしばって莉愛のお父さんと目を合わせる。


「莉愛はニュージーランドの金持ちの息子と結婚しなくちゃいけないって言ってました。もしかして莉愛は、金のために結婚するんですか?」


 どうしてニュージーランドの金持ちの息子と結婚しなくちゃいけないのか。夜通し考えたことだったが、莉愛のお父さんと実際に話してみて確信した。確信せざるを得なかったのだ。

 そして虚しくも、その予想通り莉愛のお父さんは首を縦に振った。


「当たり前じゃないか。せっかくアチラから声が掛かったんだ。こんな大金を産むビジネスチャンスは他にない」


「いいんですか? 親として娘の恋を応援しなくて」


「さっきも言ったが、恋なんてものは心の錯覚だ。そんなものに騙されて、目の前の大金をみすみす逃すのは勿体ない。どうやら莉愛は今現在も、心の錯覚に踊らされているようだからな」


 目を鋭くさせて、莉愛のお父さんは俺のことを睨む。どうやら本当に、俺のことをよく思っていないらしい。


「俺と莉愛が付き合うことは反対なんですね」


「当たり前じゃないか。君と莉愛の結婚は一円も金を産まない。そんなんじゃ莉愛は幸せになれないよ」


 莉愛のお父さんは鋭い眼差しのまま、「でもね」と言ってデスクに肘を置いた。


「私が提案した取り引きは誰にも得しかない。君は一千万円を手に入れることが出来るし、私には大量の金が入ってくる。莉愛も金持ちと結婚することが出来れば、この先の人生はイージーモードになるだろう。全員がハッピーになれる提案を、君の恋心というくだらないものだけで台無しにして欲しくないものだがね」


 莉愛のお父さんはそう言うと、デスクに置いてある紙袋をまたも俺へと近づけた。

 本当にこの紙袋を受け取れば、全員がハッピーになれるのだろうか。莉愛のお父さんの話を聞いていると、恋心なんてくだらないものなのだろうかと、自信がなくなってくる。


 でも俺のこの気持ちは、心の錯覚なんかじゃない。だってこんなにも、莉愛が愛おしくてたまらないのだから。この先もずっと、莉愛と一緒に居たい。きっとこの気持ちは嘘じゃない。心の錯覚という言葉だけで片付けて欲しくない。


「莉愛の気持ちはどうなるんですか」


 莉愛だって俺のことを好きだと言ってくれている。それなのに誰かも知らない男と結婚しなくちゃいけないなんて、あまりにも残酷じゃないか。

 もしも俺が莉愛の立場だったらと思うと、胸がキュッと苦しくなる。


 しかし莉愛のお父さんはため息を吐いて立ち上がり、窓際の壁を背もたれにして寄りかかった。


「結婚すれば金がいかに大事かが分かる」


「莉愛には金銭感覚が狂って欲しくないからっていう理由で小遣いを少なめに設定してるんですよね?」


「ははは。よく知ってるね。莉愛から聞いたのかい?」


「はい。莉愛から聞きました。金持ちの息子と結婚なんてしたら、それこそ金銭感覚が狂っちゃうと思うんですけど」


 莉愛は毎月三万円しか貰っていないらしい。

 莉愛のお父さんは俺にポンと一千万円を渡せるくらいの経済力を持っているのだから、もっと貰っていてもおかしくはない。

 でもそれにはきちんとした理由があって、莉愛の金銭感覚が狂わないようにしているのだそうだ。


 俺はそれを聞いた時に、莉愛の父親はちゃんとしている人なのかと思ったのだが──


「君は金銭感覚が庶民に近い女性か、金銭感覚が金持ちに近い女性だったら、どっちが金持ちにウケると思う?」


 ニヤリと笑った莉愛のお父さんの顔を見た瞬間に、俺の体の底から熱いものが湧き上がって来た。怒りで顔が熱くなり、思わず歯ぎしりをする。はらわたが煮えくり返る経験なんて、これが初めてだ。


 もうこの場にすら居たくない。そう思った俺は座っていたイスから乱暴に立ち上がり、莉愛のお父さんを睨んでから、背を向けて扉に向かって歩き出す。


 入って来た扉に手をかけて、もう一度だけ莉愛のお父さんの方を振り返る。もう視界にすら入れたくない男の姿を、もう一度だけ睨む。


「絶対にアナタの元から莉愛を奪いに行きますから。莉愛を幸せにしてやれるのは、俺しか居ないようなので」


 俺はそれだけを吐き捨てて、部屋をあとにした。


 莉愛のお父さんは「子供が何か言ってるよ」とでも言いたげな目で、俺のことを無言で見送った。

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