初体験の相手 前編
アラームが鳴る前に目が覚めた。
スマホで時刻を確認すると、まだ五時半だった。
ちょっと喉が乾いたし、下の階に飲み物を取りに行こう。
掛け布団を剥がしてベッドから起き上がろうとすると、目の前がクラっとした。
寝起きだからかな……と思いながらも立ち上がろうとすると、目の前が歪んで立っていられなくなる。
なんだこれ……目が回るし頭がガンガンとする。額に手を当ててみると、湯たんぽのように熱かった。これはまさか……。
「俺、風邪引いたのか……?」
風邪なんて滅多に引かないが、これは確信できる。風邪だ。
馬鹿は風邪を引かないんじゃなかったのか? あのことわざって嘘だったのか。馬鹿で居ることで風邪を予防していたのにな……なんて、熱のある頭ではしょうもないことを考えることしか出来ない。
とりあえず布団に戻ろう。それから学校に連絡して、一応家族のライングループにも『風邪を引いた』と報告することにしよう。
それから……なにをすればいいんだ……?
熱がある頭では、何も考えられなかった。
だからまだ意識がある内に家族のライングループに『風邪引いたから学校休む』と送信して、運良く学校にも電話が繋がった。
もうこれ以上は体力的に何も出来なさそうだ。俺は這うようにしてベッドに潜り込み、深い眠りへと就いた。
☆
悪夢を見た。お姉ちゃんたちと莉愛が遠くに行ってしまうような……そんな感じの夢。それ以上の内容は覚えていないが、すごく悲しかったのだけは覚えている。
ゆっくりと目蓋を開くと、額に冷たい何かがあることに気が付いた。
額にあるものを手に取ってみると、まだ冷たさが残る冷えピタだった。
「あ、せっかく貼ったのに」
その声に体がピクリと反応した。部屋には俺しか居ないと思っていたのでビックリしてしまったのだ。
ゆっくりと声をした方を見てみると、今日もピンク髪が美しい衣緒お姉ちゃんがこちらを見ていた。
「ああ、ごめん。冷えピタありがとう」
「いえいえ。体調はどう?」
「まだ頭がガンガンするかな」
「風邪だね。完全に」
「やっぱり風邪だよなあ。あー、風邪なんて久しぶりに引いたよ」
俺は冷えピタを額に貼り直して、枕元に置いていたスマホを手に取って時刻を確認する。
現在の時刻は午前十時過ぎ。もう学校には欠席の連絡をしているので、まだまだ寝ていられそうだ。
スマホの画面を見ているのも辛く、すぐに電源を切って枕元に置く。
「それで、どうして衣緒お姉ちゃんが俺の部屋に?」
衣緒お姉ちゃんへと視線を向けると、彼女はそそくさとベッド横に座ってくれた。そのまま衣緒お姉ちゃんは、俺の頭を撫でてくれる。
「家族のライングループで風邪引いたって言ってたから来たの。今日は瑞稀くんの風邪が治るまで看病する。心配だから」
「治るまでかあ……まだ熱あるっぽいし、いつ治るか分からないぞ?」
「それでもいい。治るまでここに居る」
「風邪がうつるかもよ?」
「瑞稀くんに貰った風邪なら別にいい。風邪を引いてる時に一人だと寂しいでしょ?」
風邪を引いている時にそんな優しい言葉を掛けられて、俺は思わず泣きそうになってしまう。
風邪を引いてる時って、本当にメンタルやられるんだな……普段風邪を引くことがないから知らなかった……。
「寂しい。風邪を引いてもいい覚悟なら、ここに居てくれると助かる」
「うん。素直で可愛い。ちゅーしてあげたい」
「それはダメ。絶対に風邪うつるから」
すぐにキスを禁止すると、衣緒お姉ちゃんはしょんぼりとしてしまった。
でもキスだけはダメだ。確実に風邪がうつってしまう。少しでもリスクを回避しないといけないもんな。衣緒お姉ちゃんも大学があるんだし……。
「あれ、衣緒お姉ちゃん。大学は?」
「今日は全休」
「全休って、講義が一個もないことだよね?」
「そう。一日フリー。だから瑞稀くんが風邪引いてくれてちょうどよかった」
「そんな言い方……まあ別にいいけどさ」
そんな言い回しも衣緒お姉ちゃんらしいと思ってしまった。今は誰かが話し相手になってくれるだけで、メンタル的には健康を保てる気がした。
「奏美お姉ちゃんと鈴乃お姉ちゃんは学校?」
「そう。二人とも学校。だから二人の分まで私が看病するの」
衣緒お姉ちゃんはそう意気込んでから、ローテーブルに置いてあった缶ジュースを飲んだ。
「そっか。じゃあ看病よろしくね」
「うん、任せて」
「でもずっと病人の相手してると暇じゃない?」
「暇じゃない。お酒飲みながら看病してるから」
「えっ」
衣緒お姉ちゃんは俺に向けて、持っていた缶ジュースを見せた。それをよく見てみると、ラベルにはデカデカと『ハイボール』と書かれていた。ハイボールとは、衣緒お姉ちゃんの好きなお酒だったと記憶している。缶ジュースではなく、お酒を飲んでいたようだ。
「ずっとお酒飲んでたのか……」
「うん。おつまみもあるよ」
衣緒お姉ちゃんはローテーブルを指さした。
その指先を辿って行くと、ローテーブルの上にはアーモンドチョコの箱が置いてあった。
「完全にお酒を飲む気満々だな」
「休みの日は一日中お酒を飲んでても誰も怒らない」
衣緒お姉ちゃんは自信満々にそう言うと、またハイボールをぐいっと煽った。
午前中からお酒を飲む衣緒お姉ちゃんの姿は、ピンク髪も相まってダメ人間にしか見えない。
どうやら今日は酔っ払いのダメ人間に看病をされるらしい。
「衣緒お姉ちゃん。俺も飲み物欲しい」
昨日の夜から何も飲んでいないので喉が乾いた。
だから衣緒お姉ちゃんに甘えてみると、眠たそうな顔で飲みかけのハイボールを渡された。
「いや、俺未成年だから」
「そっか。残念」
衣緒お姉ちゃんは俺の手からハイボールを奪い取ると、代わりにスポーツドリンクを渡してくれた。
「スポーツドリンクなんて家にあったのか」
「ううん。なかったからさっき買って来たの」
「え、わざわざ買って来てくれたんだ」
「そう。ついでにお酒も買ったけど」
それはお酒がついでだったと信じていいんだよな。俺のためのスポーツドリンクがお酒のついでだったら悲しいぞ。
「そうなんだ。ありがとう。俺のためなんかにスポーツドリンク買って来てくれて」
「心配だからね」
「ありがたくいただきます」
「どうぞ召し上がれ」
俺は体を起こしてスポーツドリンクを飲んだ。冷たい飲み物が喉を走り、体力が回復していく気がした。
「美味しい?」
「美味しい。スポーツドリンクってこんなに美味しいんだね」
「よかった。買ってきた甲斐があった」
衣緒お姉ちゃんはそう言って、また頭を撫でてくれる。その撫で方がとても上手で、すぐにでも夢の中に誘われそうだ。
「衣緒お姉ちゃん。このまま寝てもいい?」
「いいよ。寝るまで撫でててあげる」
「ありがとう」
俺がベッドに横になっても、衣緒お姉ちゃんは頭を撫でるのをやめなかった。だから俺は安心して目を閉じる。
「じゃ、おやすみ。衣緒お姉ちゃん」
「うん。おやすみ。いい夢見てね」
目を閉じた暗闇の中で衣緒お姉ちゃんの声が聞こえて来たので、俺は安心して全身から力を抜く。
風邪で重くなった体を感じながら、段々と意識が途絶え始める。
「大好き。瑞稀くん」
朦朧とする意識の中で衣緒お姉ちゃんの声が聞こえた。
夢かうつつか分からないが、「俺もだよ」と言葉を返したところで、俺の意識は完全に夢の中へと落ちていった。
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