天然で脱力系な夜の嬢王 後編

 グラスを片手に持ちながら、衣緒お姉ちゃんと雑談すること二十分ほど。なんだかやばいことになってきた……。


「あああ……瑞稀くんほんとに可愛い……肌もスベスベで気持ちいい……好き」


 俺の顔をベタベタと触りながら、頬を桃色に染めた衣緒お姉ちゃんは恍惚とした表情を浮かべている。

 五分程前からずっとこの調子で、俺のことを「可愛い可愛い」と言いながら、頭や頬を撫でてくるのだ。


「ど、どうも……」


 絶対に酔っ払っている。衣緒お姉ちゃんは酔っ払うと、こんなことになってしまうのか。

 俺はどうしていいのか分からずに、衣緒お姉ちゃんにされるがままでいる。


「可愛い……ほんとに可愛い……性欲どこ行っちゃったんだろうね」


「性欲は最初からないよ」


「性欲がなくても安心して。もしもの時は私が貰ってあげるから」


「貰ってあげるってどういうこと……?」


「結婚してあげる。瑞稀くん可愛い。結婚したい」


 テーブルの上に頬を乗せながら、衣緒お姉ちゃんは俺の頬や頭を撫でる。しかも舐め回すような手つきなので、くすぐったくて鳥肌が立つ。


「姉弟で結婚はちょっと……」


「私は気にしない。血は繋がってないから大丈夫」


「だ、だけどなあ……」


 酔っ払っている衣緒お姉ちゃんはちょっとだけ面倒だ。こんなにデレデレになられては、どんな顔をすれば正解なのかが分からない。

 衣緒お姉ちゃんは俺のことを撫でながら、グラスをグイッと煽った。これで四杯目だ。


「ぷはぁ。お酒美味しい。瑞稀くん可愛い。幸せ」


「……それはよかったな……」


 もう好きに言わせておこう。

 いつもは大人しい衣緒お姉ちゃんの酔っ払った姿を見られて、少しだけ得した気分でもあるし。

 お酒の力って偉大なんだな……と高校生ながらに思ったその時のことだ。さっきまで桃色だった衣緒お姉ちゃんの顔が、どんどんと青白くなっていく。


「ちょ、衣緒お姉ちゃん。顔色悪くない?」


 体調が悪いのかと思って立ち上がると、衣緒お姉ちゃんは今までのとろけた表情から一転して真顔になった。


「気持ち悪いかも」


「えっ、大丈夫……?」


「トイレ行ってくる」


「あ、うん。分かった」


 衣緒お姉ちゃんは口元に手を当てながら、カウンターから出てきた。しかし次の瞬間には、足をもつれさせてその場で膝を着いてしまう。


「ほ、ほんとに大丈夫?」


 慌てて椅子から降りて、衣緒お姉ちゃんの背中をさする。衣緒お姉ちゃんは床に手を着いたまま、立ち上がれなくなってしまったようだ。


「無理。吐く」


「えぇ……」


 さっきまでの甘々な衣緒お姉ちゃんはどこに行ったのだろう。今は切羽詰まったように、床だけを見つめている。


「あらあら。また酔っ払ったのね」


 床を見たまま固まる衣緒お姉ちゃんの背中をさすっていると、見かねた母さんがこちらにやって来た。

 顔を上げると、テーブル席の常連さんも心配そうな顔をこちらへと向けている。


「さっきまでは元気だったのに、酔っ払ったみたいなんです」


「衣緒はよく悪酔いするからね。お酒弱いのにがばがば飲むから。あんまりスナックで働くのは向いてないの」


「それなのにお店で働かせてあげてるんですね」


「私が言うのもなんだけど……お顔が可愛いからね」


 母さんはウィンクをしながら、衣緒お姉ちゃんの頭を撫でた。やっぱり母さんの目から見ても、衣緒お姉ちゃんの顔は可愛いらしい。


「それはそうと瑞稀くん。衣緒のことをトイレに放り込んで来てくれない? そうしたら勝手に吐くと思うから」


「そんな雑な扱いでいいんですか……」


「いいのよ。ここで吐かれても常連さんの迷惑になっちゃうから」


「あー、たしかにそうですね。それじゃあトイレに放り込んで来ます」


「ええ。よろしくね」


 微笑んだ母さんに「うっす」と返事をしてから、衣緒お姉ちゃんの腕を自分の肩に回して立ち上がる。

 衣緒お姉ちゃんは全体重を俺に委ねているので、運ぶのは大変そうだ。


「衣緒が吐き終わったら外の空気吸わせてあげてちょうだい。それで酔いも醒めると思うから」


「分かりました」


 俺の返事を聞くと、母さんはヒラヒラと手を振ってから常連さんの元へと歩いて行ってしまった。

 残された俺は「行くか……」と独り言をこぼして、衣緒お姉ちゃんを引きずりながらトイレへと向かった。


 ☆


 衣緒お姉ちゃんのリバースタイムは十分程で終わった。「ごめんなさい……」と言いながらトイレから出てきた衣緒お姉ちゃんの顔色は、若干ではあるが回復しているようにも見えた。吐くものを吐いてスッキリしたのだろう。


 けれどもここで油断は出来ないからと、母さんに言われた通りに衣緒お姉ちゃんと外に出た。

 スナックのドアの横に置いてあったコンクリートブロックに、衣緒お姉ちゃんと並んで座る。

 秋の夜風が心地よい。


「衣緒お姉ちゃん大丈夫?」


「頭なら大丈夫」


「冗談が言えるくらいには回復したんだな。よかったよかった」


 冗談を言うような口調で言うと、衣緒お姉ちゃんは「うぅ……」と可愛らしい声を漏らした。


「私変なこと言ってたよね」


「だいぶ変なこと言ってたな」


「……忘れた?」


「なにを?」


「可愛いって言ったり、結婚してって言ったこと」


「……もしも忘れてたとして、いま衣緒お姉ちゃんの口から聞いちゃったんでアウトだな」


「おぉ……たしかにそうだぁ……」


 膝を抱えて座る衣緒お姉ちゃんは、落ち込んだような声を上げながら俺の肩に頭を乗せた。お酒で火照った衣緒お姉ちゃんの体温が、服越しに伝わってくる。


「衣緒お姉ちゃんさ。もしかしなくても天然だよね」


「うん。よく言われる」


 衣緒お姉ちゃんはいつも脱力しているイメージがあったが、今の出来事で天然だということも判明した。そして意外と甘えん坊であることも分かったが、それは口に出さないでおこう。


「でも衣緒お姉ちゃんから結婚したいって言われて嬉しかったよ」


 素直に思ったことを伝えると、衣緒お姉ちゃんは目を大きくさせて俺の顔を見上げた。


「ほんとう?」


「ああ、ほんとだ。それくらい気に入ってくれてるってことだろ?」


「そう。それくらい瑞稀くんが好き」


「俺も衣緒お姉ちゃんのことは大好きだよ」


 真っ直ぐに目を見ながら言うと、衣緒お姉ちゃんは更に目を大きくさせた。地雷メイクも相まって、衣緒お姉ちゃんの眠たそうな目は普段の数倍くらい大きく見える。


「それもほんとう?」


「これも本当だ。衣緒お姉ちゃんの弟になれてよかった。マジでそう思う」


 俺が照れ隠しのために笑顔を作った途端に、衣緒お姉ちゃんが勢いよく抱きついてきた。


「嬉しい。私も瑞稀くんのお姉ちゃんになれてよかった。大好き」


 こうやって自分の感情を素直に伝えてくれるところも、衣緒お姉ちゃんの好きなところの一つだ。

 いつもは眠たそうにしているが、夜になると口数も増えるのだろうか。さすがはスナックで働いているだけある。


「これからも俺のお姉ちゃんで居てくれ。衣緒お姉ちゃん」


「うん。瑞稀くんもずっと私の弟で居てね」


 俺に絡みつく腕に、ぎゅーっと力が入った。なんだかそれが可愛かったので、背中をトントンと軽く叩いて上げる。


「あと、結婚してって言ったことは忘れてね。完全に酔っ払ってた」


「はいはい。忘れた忘れた」


「むぅ。馬鹿にして」


 拗ねる衣緒お姉ちゃんも可愛いから、ついからかってしまう。

 衣緒お姉ちゃんが頬を膨らましたので、それを手で潰してみる。ぷしゅっと頬から空気が抜けただけなのに、何が起こったのか分からないといった顔をする衣緒お姉ちゃんを見て、思わず笑い声をあげてしまった。


 衣緒お姉ちゃんは天然でいつも脱力しているが、自分の気持ちに素直な夜の嬢王だ。

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