天然で脱力系な夜の嬢王 前編

 今日は休日だったので、家でダラダラとしていた。


 奏美お姉ちゃんはバイトに出掛けていたが、衣緒お姉ちゃんと鈴乃お姉ちゃんは家に居たので、三人で映画を観ながら過ごしていた。


 夕飯は家族全員ですき焼きを食べた。特に何もなかった休日だったけれど、一家団らんの時を過ごせたから大満足である。


 夕飯を食べ終わり、姉たちは自室へと戻って行った。

 母さんは仕事に出掛けてしまったので、今は父さんと二人でリビングのソファーに座っている。


「いやー、瑞稀も衣緒ちゃんたちと仲良くなれてよかったなあ。父さん安心したよ」


「ほんとよかったよ。おかげさまで可愛がってもらってる」


「可愛がってもらってるらしいなー。この間、鈴乃ちゃんと話した時に「お揃いのピアスつけてるんです!」って嬉しそうに言ってたぞ」


「そうなんだよね。俺も遂にピアスデビューしちゃった」


「髪型も奏美ちゃんプロデュースらしいよな」


「そうそう。お姉ちゃんたちに変えられてる最中なんだ」


 父さんと何気ない会話をしながら、テレビで流れるお笑い番組をぼーっと眺めていると──ガチャリとドアが開いて、衣緒お姉ちゃんがリビングに入ってきた。

 しかしいつもの衣緒お姉ちゃんじゃないと、すぐに気が付いた。唇は艶のあるピンク色をしていて、目元は泣いたあとのように赤い。たしかこれは、地雷メイクと言われているものだった覚えがある。


「え、衣緒お姉ちゃん今から出かけるのか?」


 さっきまではすっぴんだったのに、突然化粧をして来たからビックリした。

 今の時刻は十九時。こんな時間から出掛けるのだろうか。


「うん。バイトに行ってくる」


「あ、バイトか」


 なんだバイトか。てっきり誰かに会いに行くのかと思ったので、少しだけ安心した。


「お父さん。バイト行ってくるね」


「おう。行ってらっしゃい。今日は酔い潰れないようにね」


「うん。気をつける」


 仕事で酔い潰れる? 衣緒お姉ちゃんは一体なんのバイトをしているのだろうか。

 父さんは衣緒お姉ちゃんがなんのバイトをしているのか知っているようなので、仲間はずれにされている気分になる。


「衣緒お姉ちゃんってなんのバイトしてるんだ?」


 こういう時には聞いてみるのが一番だと思って聞いてみたが、衣緒お姉ちゃんは目を丸くしながら首を傾げた。


「まだ瑞稀くんにバイトのこと言ってなかった?」


「聞いたことないな」


「……たしかに言ってない気がする」


 衣緒お姉ちゃんは納得したように頷くと、持っているカバンからスマホを取り出して何かを確認した。

 そして顔を上げると、衣緒お姉ちゃんはこちらに手招きをする。


「瑞稀くん着いてきて。私が接客してあげる」


「接客? 飲食店ってこと?」


「それに近いかな。来てみれば分かる」


「衣緒お姉ちゃんのバイト先に行ってもいいの?」


「今日は常連さん少ないから暇になっちゃう予定。だから私が接客する」


 何を言っているのかさっぱり理解できないが、とりあえず着いて行けば分かるのだろう。

 そう考えて、俺は腰を上げた。


「そこまで言ってくれるなら行こうかな。いいよね? 父さん」


「ああ、もちろんいいぞ。でも瑞稀はまだお酒飲めないからな」


 酒ということは居酒屋だろうか。

 居酒屋で衣緒お姉ちゃんが働く姿は、全く想像することができない。


「酒は飲まないから安心してくれ。じゃあ行ってくる」


「おーう。楽しんでこいよ」


 目尻に皺を作りながら、父さんは俺たちに向かって手を振った。

 俺と衣緒お姉ちゃんも手を振り返して、二人で玄関へと向かう。その最中で、衣緒お姉ちゃんからフルーティーな香水の匂いが香った。


 ☆


 店に入るなり、カウンター席に通された。

 離れた場所にあるテーブル席では、白色のタイトワンピースを着た母さんとスーツ姿のおじさん二人組が、お酒を片手にカラオケを楽しんでいる。


 ここは一体どこなのか。

 そう。俺は今、母さんが働いているスナックに連れてこられている。

 カウンター席が数席とテーブル席が一つという小さめのスナックだ。

 でもカウンターの向こう側には棚いっぱいにお酒が並んでいたり、カラオケが出来る機械が置いてあったりと、見ているだけでワクワクする。

 店内はちょっとだけ薄暗く、夜の大人な雰囲気が漂っている。


 それからも初めて入るスナックの店内を見回していると、カウンターの奥から赤色のタイトワンピースを着た衣緒お姉ちゃんが出てきた。

 地雷メイクと体のラインが出る服装は、一見アンマッチだが衣緒お姉ちゃんにはよく似合っている。


「ども」


 俺の目の前に立つなり、衣緒お姉ちゃんはお辞儀をした。


「ど、どうも」


 俺もお辞儀をすると、衣緒お姉ちゃんは氷の入った二つのグラスをカウンターの上に置いた。


「瑞稀くんにはお酒出せないからジュースでいい?」


「ああ、もちろん」


「コーラかグレープフルーツジュースどっちがいい?」


「コーラでお願いします」


「はーい」


 衣緒お姉ちゃんは冷蔵庫から普通のペットボトルのコーラを取り出すと、それを俺のグラスに注いだ。カランコロンと氷がグラスと触れ合う音が鳴った。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 スナックで発生した飲食代は母さんが負担してくれるらしいので、安心してコーラを受け取る。

 俺にコーラを渡し終え、衣緒お姉ちゃんは後ろの棚からお酒の瓶を手に取った。茶色とオレンジ色の間をしているような色のお酒だ。


「衣緒お姉ちゃん。そのお酒なに?」


「これはウィスキーだよ」


「ウィスキー。聞いたことはあるな」


「ウィスキー美味しいよ」


 衣緒お姉ちゃんはそう言いながら、グラスにウィスキーを三分の一だけ注いだ。かと思えば、冷蔵庫から炭酸水を取り出して、それをウィスキーの入ったグラスに注いだ。


「ウィスキーと炭酸水を混ぜるのか」


「そう。これでハイボールの出来上がり」


「へえ。ハイボールってウィスキーと炭酸で出来てたんだ」


「簡単だよね」


 父さんはあまりお酒を飲まない人間なので、こうやって間近で見るのは初めてかもしれない。

 初めて見るハイボールに感心していると、衣緒お姉ちゃんはグラスを片手に持った。


「乾杯しよ」


「あ、はい」


 俺も釣られるようにしてグラスを手に持ち、衣緒お姉ちゃんと目を合わせる。二人で「乾杯」と声を合わせると、グラス同士がチンと音を立てて触れ合った。

 そのまま俺と衣緒お姉ちゃんは、グラスの中の飲み物をグイッと煽る。


「ぷはあ……ハイボール美味しい。お酒美味しい」


 ハイボールをグラスの半分くらい飲むと、衣緒お姉ちゃんは口元を拭った。

 俺もコーラを三分の一ほど飲んで、グラスをテーブルの上に置く。すると衣緒お姉ちゃんは何かを思い出したのか、手をポンと叩いた。


「おつまみがない」


「おつまみか」


「うん。おつまみ。何か食べたいものある?」


「あー、なんでもいいかな」


「じゃあ私が好きなおつまみ持ってくる」


 衣緒お姉ちゃんはそう言うと、カウンターの奥へと消えて行った。

 また一人になってしまったので、なんとなく母さんの方を見てみる。

 相変わらずカラオケを楽しんでいるおじさん二人組の隣で、母さんが控えめな手拍子で盛り上げている。

 すると俺の視線に気が付いたのか、母さんはこちらを見て小さく手を振ったので、俺も手を振り返しておく。


「お待たせ」


 その声を聞いて前を向いてみると、衣緒お姉ちゃんがガラスのお皿をテーブルに置いたところだった。

 お皿の中には、親指くらいの大きさの黒い粒が山盛りに入っている。


「なにこれ」


「アーモンドチョコだよ」


「アーモンドチョコをつまみにお酒飲むのか」


「うん。ハイボールとすごく合う」


 衣緒お姉ちゃんはアーモンドチョコを一粒つまむと、それを俺の口元に寄せた。


「あーんして」


 衣緒お姉ちゃんが言う「あーん」とは、口を開けろということだろうか。その言葉に従うように口を開けると、衣緒お姉ちゃんは俺にアーモンドチョコを食べさせてくれた。

 俺がアーモンドチョコを食べたことを確認すると、衣緒お姉ちゃんはどこか嬉しそうに頬を緩めた。


「今日は常連さん来ない日だから、私といっぱいお話ししようね」


 衣緒お姉ちゃんはにこりと笑うと、母さんの方をチラリと見た。


「その前に常連さんに挨拶に行かなきゃ」


 衣緒お姉ちゃんは「少し待ってて」と言うと、母さんたちが居るテーブル席の方へと歩いて行った。

 テーブルに到着した衣緒お姉ちゃんが頭を下げると、おじさん二人組と何か喋り始めた。

 きっとあのおじさんたちは、何度もこのお店に訪れている常連なのだろう。


 衣緒お姉ちゃんは母さんのスナックでバイトをしていたのか。ちょっと意外かもな。なんて思いながら、俺はコーラを飲んで衣緒お姉ちゃんが戻ってくるのを待つことにした。

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