三人のお姉ちゃん 後編
「うん、きて」
俺に「お姉ちゃん」と呼ばれるのを、衣緒さんは今か今かと待っている。
感じたことのない緊張のなか、ようやく決心がついた。
重たい口を開いて、勇気を振り絞る。
「衣緒、お姉ちゃん」
「私の名前とお姉ちゃんが離れてた。やり直し」
「むー」と唸る衣緒さん。
せっかく言えたのに、衣緒さんは気に入らなかったようだ。だから今度はやり直しにならないように、出来るだけ自然な感じで言おう。
「衣緒お姉ちゃん」
目を見て『お姉ちゃん』を付けると、衣緒さんは瞳をふるふると震わせたかと思うと──俺の頭を包み込むように、優しく抱き着いてきた。衣緒さんのおっぱいが、顔面に押し付けられて苦しい。
「瑞稀くんのお姉ちゃんになった。嬉しい。瑞稀くん、好き」
ぎゅーっと頭を抱きしめられて、少しだけ苦しい。だけど無事に『衣緒お姉ちゃん』と呼べたことに、内心ほっとする。
「じゃあ次はアタシかな。瑞稀くん、お姉ちゃんって呼びなさい」
奏美さんが命令口調で言うと、衣緒お姉ちゃんは俺の頭から離れてくれた。ようやく呼吸がままなる。
「はい。奏美お姉ちゃん」
衣緒お姉ちゃんで慣れたのか、奏美さんにお姉ちゃんをつける時にはスムーズに言葉が出てきた。
奏美お姉ちゃんは顔をニヤリとさせると、横から思い切り抱き着いてきた。
「おうおうなんだー。アタシの弟よー」
「い、いや。なんでもないっす。ただ呼んだだけなんで」
「ただ呼んだだけなんてそんな可愛いことが言えるのかー、アタシの弟はー」
奏美さんは俺の頭をガシガシと撫でる。今までの優しい撫で方とは違い、興奮なのか感動なのか、その感情のままに撫でられる。
「いいなーお姉ちゃんたち。瑞稀くん、わたしのことも早くお姉ちゃんって呼んでよ」
目の前に座っている鈴乃さんは、俺の目をじっと見ている。まだ両腕は衣緒お姉ちゃんと奏美お姉ちゃんに掴まれているので逃げられない。
俺は観念して、鈴乃さんにもお姉ちゃんを付けようとしたのだが──
「鈴乃……さん」
『お姉ちゃん』を付けようとしたのに、口が勝手に『さん』を付けた。これには自分でも驚いて、鈴乃さんと驚き顔を見せ合う。
「変わってないじゃん! それにどうして瑞稀くんも驚いたような顔してるのよ!」
この鈴乃さんのツッコミに、奏美さんは吹き出して笑った。
「ちゃんと『お姉ちゃん』を付けようとしたんですけど……」
「けど?」
「鈴乃さん全然お姉ちゃんっぽくないから……むしろ妹と言うか……」
さん付けになってしまった理由を正直に話すと、奏美お姉ちゃんは膝を叩いて笑いだし、鈴乃さんは顔を赤くさせてキーッと鳴いた。
「わたしの方が年上だからわたしがお姉ちゃんなの! 瑞稀くんは弟! いい!?」
俺の肩を掴み、洗脳するかのごとく揺すられる。
脳みそがぐわんぐわんと揺れ、気持ち悪い。
「わ、分かりましたから。そんなに揺すらないでください」
「瑞稀くんが『鈴乃お姉ちゃん』って呼んでくれるまで揺らし続ける!」
そういうワガママなところが妹っぽいんだよなあと思いながらも、衣緒お姉ちゃんも奏美お姉ちゃんも鈴乃さんを止めてくれないので、俺は仕方がなく口を開く。
「す、鈴乃お姉ちゃん」
言葉を詰まらせながらも『お姉ちゃん』を付けると、鈴乃お姉ちゃんは肩を揺するのを止めてくれた。ようやく揺れが止まったので前を見ると、鈴乃お姉ちゃんは感動で体を震わせていた。
「ついに……わたしにも弟が……わたし絶対に瑞稀くんのこと大事にする! 性欲がない弟〜!」
わーっと腕を広げて、鈴乃お姉ちゃんが俺に抱きつく。
両腕は衣緒お姉ちゃんと奏美お姉ちゃんが、体には鈴乃お姉ちゃんが抱き着いている。三方向から女の子の柔らかい体が押し付けられて、ちょっとだけ暑苦しい。
「瑞稀くん。これからは私たちのこと、お姉ちゃんって呼ぶんだよ。わかった?」
俺の顔を見上げながら、衣緒お姉ちゃんが首を傾げた。
「はい……分かりました」
「分かりましたじゃないよ。『分かった』でいいから」
今度は奏美お姉ちゃんが、敬語を使うなと言ってくる。
だけど年上のお姉さんにタメ口を利くなんて……。
「で、でも……」
「でもじゃない! わたしたちはこれから家族なんだから、敬語なんて絶対に禁止! もしも敬語使ったら、わたしたち三人で瑞稀くんのことくすぐるからね」
両方の頬を膨らませて、鈴乃お姉ちゃんは俺の頬を両手で包んだ。線の細い手は、俺の手とはえらい違いがあった。
こんな細い指でくすぐられたら……想像しただけでも鳥肌が立った。
「お、いいねー。瑞稀くんくすぐるの。アタシたちいじわるだから、悲鳴あげても止めてあげないからね」
「奏美の言う通り。私もくすぐり上手いから、容赦しない」
「お姉ちゃんたちは本当にくすぐり上手いよ! わたしも何回もくすぐられてるけど、十秒も耐えられないから!」
この三人からくすぐられる……十秒も耐えられないくすぐりなんて、絶対に体験したくない。
だから俺は最後の勇気を振り絞る。
「わ、分かった。今から敬語使わないから許してく……許して」
中途半端なタメ口になってしまったが、姉たちは三人で顔を合わせてニヤケ顔を見せ合った。
そしてようやく、両腕と俺の顔が姉たちの手から解放される。
「それでこそアタシの弟だよ。これからよろしくね、瑞稀くん」と奏美お姉ちゃんが。
「家族なんだから敬語使っちゃダメだよ。使ったらくすぐりの刑だから」と衣緒お姉ちゃんが。
「衣緒お姉ちゃんの言う通り! あとさん付けもしちゃダメだからね!」と鈴乃お姉ちゃんが言った。
これで俺には、『敬語とさん付けを使うと、くすぐりの刑が執行される』というルールが生まれてしまった。
こんなの理不尽じゃないか。と思いつつも、普通の家族の形に近づくためならば仕方がないことだと、自分に言い聞かせる。
「分かったよ。これからは敬語なしで。衣緒お姉ちゃん。奏美お姉ちゃん。鈴乃お姉ちゃん」
口に出してみても、やっぱりまだ少しだけ照れくさい。
けれども三人のお姉ちゃんは、姉妹で嬉しそうにハイタッチを交わしていた。
そんな姉たちを見て、俺も少しだけ嬉しくなるのだった。
ーー第一章 完ーー
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