第35話 思い出も過去もいらない
予想に反して、村は静かだった。馬を村の入り口に繋ぎ、歩く。そのうちに
小鳥が囀りながら空を飛び交い、野原には草花が咲き乱れ、山羊がのんびりと草を食いでいる。
のどかな農村風景が広がっているが、丘の上に目をやると屋敷から黒い煙が出ている。
わたしはエークルランドと顔を見合わせ、あそこが領主の館だろうと頷き合った。
「館周辺に騎士たちの姿が見えます。どのような状況なのか探ってきますので、姫様はここから一歩も動かないでください。殿下の容態も聞いてきますので、おとなしく待っていてください」
「わたしは行ってはいけないの?」
「当たり前です! 暴動に巻き込むわけにはいかない! 俺が忠誠を誓ったのは、深窓の姫君。戦場に憧れる姫様ではない!!」
「分かったわ。ここに連れてきてくれたことに感謝している」
「姫様だけなら断りました。だが、リンデル王妃にも頼まれたのです。王妃はあのおしとやかな侍女の主人ですから、恩を売っておくのにいいと思いましてね」
「あなたを護衛に持てたことは、わたしの最大の財産だわ」
エークルランドは眩しそうな顔をすると、小高い丘の上にある領主の館へと走って行った。
エークルランドは一晩を共にした侍女を気に入ったらしい。けれど先ほどの発言は冗談半分、本気半分といったところだろう。
エークルランドは、わたしが冒険に憧れて外の世界に飛び出したいことを知っている人だ。彼はたまに鳥籠の蓋を開けて、閉じ込められている鳥に外の空気を吸わせてくれる。鳥は感謝して、また鳥籠の中に戻るのだ。
わたしは家々から離れた場所にある木の下に座り、エークルランドが戻ってくるのを待つ。
胸元からハンカチーフを取り出し、刺繍してあるイニシャルを指先でなぞる。
「大丈夫。絶対に大丈夫。殿下は生きている……」
ヴェリニヘルムのイニシャルが入ったハンカチーフは、二年半前、ストアディア城の庭にあるグロゼイユに結ばれていたもの。
愛の証でもあるこのハンカチーフを、わたしは肌身離さず大事にしてきた。
大切な思い出の品であるけれど……。
「でも、欲しいのは思い出じゃない」
ようやくひとりになった今。冷静沈着な王女の仮面が落ちて、恋人を想う十九歳の少女が現れる。
「ヴェ……」
ヴェリニヘルムと言おうとして、思い留まる。
「ヴェリー」
舌で転がすように愛称を呼んだ途端。会いたい気持ちが爆発して、わたしは顔を覆って号泣した。
馬車の中で彼の膝に座ったときの太ももの逞しさや、彼から香る樹木の香水や、目を合わせたときの戸惑うようなはにかみが思い出される。
わたしの顔を見たいがために、部屋に通り穴を作ったヴェリニヘルム。
わたしたちは結婚式を挙げて正式な夫婦となり、誓いのキスをするはずだった。
「違うっ! 思い出をなぞりたいわけじゃない!! 過去の時間なんていらない。わたしが欲しいのは、ヴェリーと夫婦として歩む未来……」
暖かな日差し。穏やかな農村の風景。その中で、子爵の館だけが異様さを放っている。炎は見えないが、室内で火が
ヴェリニヘルムはどこにいるのだろう? 生きている?
一刻でも早く安否を知りたいが、エークルランドは戻ってこない。
不安に苛まれて涙をこぼしていると、帽子を目深に被った男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
急いで涙を拭き、ハンカチーフを胸元にしまう。乱れていた呼吸を整えて王女の仮面をつけたとき、男が帽子をとった。
男の正体が太陽の下に晒される。
後ろでひとつに結んだ黒髪。浅黒い肌。彫りの深い整った目鼻立ち。筋肉質の体。人々を魅了するオーラを放つ、色男。
「ア、アディマス……?」
意外すぎる人の登場にポカーンとしてしまい、次の言葉が出てこない。
アディマスは勝ち気な笑顔を浮かべると、わたしの前に立った。
わたしは頭が真っ白なまま、ぼんやりと、海賊王を見上げる。
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