第33話 優しい人たちを生に繋ぎとめたい

 わたしは侍女に声をかけて、桶に入った水を持ってこさせた。

 ためらう王妃の手を掴み、太陽の光が映る桶の中で王妃の手を洗う。


「あなたがそんなことをしなくても!!」

「わたしたちが到着する前に国王にビールを飲ませたのは、わたしを犯人にしないためでしょう? リンデル様はとても優しい方。死ぬ覚悟で、暗殺と毒のことを打ち明けてくださいました。その覚悟に必ずや、応えてみせます。リンデル様を絶対に死なせません。リンデル様の父親は約束できませんが……」


 わたしの言いたいことが分かったのだろう。

 リンデル王妃は首を緩く振り、「父が悪いのですから仕方ありません。それに、私は処刑されてもかまいません。生きていたって、楽しいことなどないですし……」と蚊の鳴くような声で答え、言葉を続けた。


「ムスター地方に向けて騎士たちが出掛けるのを、父と見送りました。そのときに父が、この混乱に乗じてヴェリニヘルムを殺すと……。農民の中に密使を紛れ込ませてあると、そう話したのです。私も息子も権力を欲していない。穏やかな生活を送りたいと説得を試みたけれど、聞いてくれなかった。暗殺したのが知られたら罪に問われると訴えたら、父は……バレることはない。戦で流れ矢に当たって死ぬなんてよくある話しだと……」


 王妃の目縁まぶちから、新たな涙がふわっとこぼれる。

 身勝手な者たちに、いまだかつてないほどの怒りが沸く。



 けれど、祖父の友人であった教師が教えてくれた。

 ——怒りに飲まれてはなりません。視野が狭くなり、真実を見失ってしまう。怒りのエネルギーを利用しながら、頭は冷静に働かせるのです。



 わたしは意識して深呼吸を繰り返し、逸る心臓を落ち着かせる。


(わたしは気高きストアディア王家の王女。取り乱すことなど許さない。不安になる心を律しなさい! わたしは優しい人たちを守れる。ヴェリニヘルム殿下とリンデル王妃を、生に繋ぎとめてみせる!!)


 わたしは立ち上がると、深い吐息とともに肩から力を抜いた。それからグッと、お腹に力を入れる。


「王妃様にお願いがあります。威勢のいい長距離馬を二頭用意してください!!」

「なにをするの……?」

「ムスター地方に行きます」


 涙に濡れた顔で、ポカンとわたしを見上げる王妃。

 わたしは口角を上げ、不敵に笑ってみせる。


「心配しないでください。わたしには頼りになる護衛がついています。無傷で帰ってきます」


 王妃は思案げな顔をし、それからためらいがちに口を開いた。


「ヴェリニヘルムを、愛しているの……?」

「ふふっ。そこらへんに落ちている石ころみたいな、面白みもない男になど興味はありません。未亡人になってしまったら、兄に呼び出されてストアディアに戻されてしまう。ノルールをもうしばらく堪能したいですし、お友達になったリンデル様と離れるのが寂しいからですわ」


 リンデル王妃は、少女のようなふわっとした笑みを浮かべた。


「私、ヴェリニヘルムを面白みのない男だとは思いませんわ。婚約が決まって、あなたと手紙のやり取りをしていたでしょう? 早馬が来るたびに、ヴェリニヘルムはそわそわしていた。あなたからの手紙を心待ちにしているのだと分かって、微笑ましかったわ。ヴェリニヘルムは女性に見向きもしなかったから、愛する心がないのだと思っていた。でも、そうではないのでしょうね」


 王妃は立ち上がると、スズランを触っていなかったほうの手で、わたしの前髪の乱れを直した。


「騎士の間に呼んだのは、贈り物の話を聞きたいのもあったけれど……。ヴェリニヘルムを夢中にさせた女性と話してみたかったからよ。あなたがあまりにも美しいから、嫉妬心からきついことを言った。けれどあなたは怒りもせず、侮蔑の目を向けることもしなかった。そのうえ、友達だと言ってくださる。その言葉に嘘がないことは、目を見れば分かります。あなたこそ、強くて心の綺麗な女性だわ」


 恐怖から解き放たれたリンデル王妃の素顔は、心の美しい女性だった。



 ✢✢✢



 ムスター地方に行こうとするわたしに、セルマとブレンダの侍女二人は猛反対した。だからこう言って、黙らせた。


「あなたたちに反対されたからって、わたしがおとなしく従うとでも? 言葉に体力を費やす暇があったら、旅に出るための支度に体力を使いなさい」


 セルマとブレンダは顔を見合わせると、諦め顔で支度に取りかかった。


 セルマに手伝ってもらって、乗馬服に着替え、髪をひとつに結い上げた頃。やっとエークルランドがやってきた。


「随分と遅かったわね。朝早く、報告に来るものだと思っていたわ」

「まだ昼前だ。十分に朝だと思いますがね。……で、その格好はどうしたのですか?」

「予定を変更したわ。母親の報告はいりません。今すぐに出かける準備をして」

「はぁ? 報告はいらないって……いや、すごい頑張ったんですけど! 聞いてください!! ヴェリニヘルム殿下の生母は意地の悪い女で、男を次々と駄目にしていく妖婦……」

「耳が腐るからやめて。それよりも、ムスター地方に行くわよっ!!」

「はあ?」


 事態が飲み込めていないエークルランドへの説明はセルマに任せて、わたしは颯爽と城外に出る。

 城の門前には、リンデル王妃が用意してくれた馬がおり、わたしは躊躇することなく馬に乗った。

 エークルランドがリンデル王妃と話しながら、渋々といった態度でやって来る。


「どこの世界に、刺客を退治しに行く姫がいるのですか。正気ですか⁉︎」

「ここにいるじゃない。勇敢な姫の頂点に立ってみせるわ」

「初めてお会いしたときは、なんて可憐なお姫様だと感動したものだが……。まさかじゃじゃ馬に育つとは……」


 エークルランドはぼやきながらも、もう一頭の馬に乗り、リンデル王妃に礼を述べた。


「ムスター地方への行き方を教えてくださってありがとうございます」

「王妃様の御心を曇らせる者を、わたしが排除してきます」

「姫様は余計なことをしないでくださいっ!!」


 わたしたちのやり取りに、王妃はふふっと笑みをこぼした。


「ご無事をお祈りしております。……ユリシス様。石ころは形も色も自然の味わいがあり、朴訥だからこそ心休まるものがありますわ。石ころも素敵だと、私はそう思います。だからどうか、ヴェリニヘルムを助けてあげてください。私は彼が嫌いではないのです」


 わたしは力強く頷いた。それから馬の手綱をしっかりと握り締めると、エークルランドの後に続いて馬を走らせた。



 武力でもなく、腕力でもなく、恐怖でもなく、支配でもなく、苦痛でもなく——。智慧から生まれる言葉と態度で、わたしは人生を切り開いていく。

 すべては愛するヴェリニヘルムのために。

 わたしは彼を盲目的に愛している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る