第31話 真実を前にして泣くことしかできなかった

 遠くから人々の話し声が聞こえる。穏やかな声ではない。怒鳴るようになにかを命じたり、緊張をはらんだ叫び声が耳に入ってくる。

 眠りから覚めると、あたりはうっすらと明るい。

 ベッドから下り、窓を開けると、早朝の涼しい風が入ってきた。山際が明るくなってきたばかり。

 声の聞こえる方に顔を下げると、庭に大勢の男たちが集まっている。それも剣や盾を持った男たちばかり。


「まるで戦争に行くみたい」


 何気なく発した言葉に、凍りつく。わたしは急いで鈴を鳴らし、隣の控室で休んでいるセルマとブレンダを起こす。

 身支度が終わったちょうどそのとき、ヴェリニヘルムが部屋を訪れた。侍女二人を下がらせる。


「外が騒がしいですが、どうされたのですか⁉︎」

「ムスター地方で、農民による反乱が起こりました。領主の屋敷を攻め落とそうとしているとの報告が入った。今すぐに行かなければなりません」

「殿下自らが行くのですか⁉︎ 危険ではっ!!」

「父の命令ですから……」

 

 ヴェリニヘルムは悲しそうに目を伏せると、力なく言った。


「あなたを幸せにしたいのに、どうしてうまくいかないのだろう。今日は結婚式の予定だった……。約束は守ります。左手を出してもらえますか?」


 素直に左手を差し出すと、ヴェリニヘルムはポケットから指輪を出した。


「結婚指輪です。ここは教会ではないし、司祭もいない。けれど、あなたを想う気持ちは本物です。誰にも負ける気がしない。ですからどうか……私の妻になっていただけませんか?」


 感極まって涙がこぼれる。頬を伝い落ちる涙は熱く、口元は自然と笑みを浮かべる。


「妻になります! ヴェリニヘルム殿下の妻になりますっ!! あなた以外の人では駄目なんです! わたしの心を占めているのは、いつだってあなたしかいない。あなたじゃないと、駄目なんです……」


 大粒の涙を流すわたしに、ヴェリニヘルムは包み込むような愛おしげな眼差しを送ってくる。その瞳には悲しみの色が混じっている。

 ヴェリニヘルムが指輪を嵌めてくれ、わたしも手渡された指輪をヴェリニヘルムの薬指に通す。

 窓から入ってくる朝日が、指輪を輝かせる。


「わたしたち、これで夫婦ですね」

「お願いがあります。私が出立しゅったつしたらすぐに、ストアディアに向かってください」

「えっ……」


 思いもよらない展開に、頭が真っ白になる。


「どういうことですか! 意味が分かりません!!」

「あなたに初めて会ったとき。まだ幼く、少女らしいあどけなさがあった。その後あなたは、私の妻になるのを望んでくれた。私もそれを望み、あなたが平凡に成長すればいいのに……と願った。綺麗な子供が、成長するにつれて凡庸な容姿になるのはよくあることです。なのにあなたは気品ある美しさに加えて、聡明さと色香を容姿に加えてしまった」

「なにがおっしゃりたいのか、分かりません」


 ヴェリニヘルムは苦しそうに表情を歪めた。


「知っていましたか? 父はあなたに興味を持っていた。和平条約を結びたいならあなたを差し出せと、そう、ストアディアの先王に迫ったのです。ストアディアの先王はきっぱりと断った。先王が激怒してグラスを投げたのは、父が『娘を差し出せば和平条約を前向きに考えてやると言っているのに、それができないとはストアディアは思慮が足りないと見える』……そう言ったからだそうです。申し訳ない。先王を死に追いやったのは、父が原因です」

「そんな……」


 知らなかった。まさかわたしを守るために、父が激怒したなんて……。 

 胸が痛いほどに締めつけられる。

 希薄だった父との関係が悔やまれる。一緒にいる時間を作ればよかったとの後悔の念がどっと押し寄せてきて、涙が止まらない。


 ヴェリニヘルムは「このようなことを、あなたの耳に入れたくはなかったのだが……」と前置きしたうえで訥々とつとつと話しだした。


「父にあなたを妻にしたいと願い出たところ、貸して欲しいと言われた。そんなことできるわけがない。あなたを父の愛人にさせるなど……。あなたとの結婚を諦めた。他の男性と幸せな結婚をして欲しいと願った。なのにいつまでたっても、あなたの婚姻話が聞こえてこない。探るために、大変に失礼な求婚の手紙を送ったのです。そうしたらまさか、求婚に応じる返答が届いたので驚きました。あなたはどうかしている。だが、それくらい私を求めてくださることが嬉しかった。だから私はあなたの願いに応え、父から守ることを誓った」

「……ようやくすべてが分かりました。思い違いをしていました。欲望を満たすために平気で人を傷つけ、殿下が幸福になるのを許せないというのは——国王のことなのですね……」

「そうです。あなたと私が仲睦まじくすれば、父は力づくで横取りしようとするでしょう。あの人は、誰よりも幸せでいないと気が済まない人なのです。他人の幸せが許せない。……あなたに冷たくしたのも仮面夫婦の演技を受け入れたのも、父の暗い欲望を抑えるため。父は不幸な者に寛大なのです。不幸な者に優しくすることで、自分が幸福であることをより強く味わえるからでしょう。不本意な仮面をあなたにつけさせてしまったことを、お詫びします」


 涙をこぼしながら首を横に振り、ヴェリニヘルムの腕に縋りつく。


「わたしは大丈夫です! 謝らないでください。だから、お願いです! 行かないでくださいっ! ここにいて!!」

「そういうわけにはいきません。今日結婚式を挙げるための交換条件として、父の命令に従うことを昨夜約束したばかり。そのとき既に、父はムスター地方で反乱が起こる情報を聞いていたのでしょう。罠にかかった気がします……。ですが、生きて戻ってきます。だからどうか、あなたはストアディアに一旦お戻りください。私がいない隙に、父はあなたを自分のものにしようとするかもしれない。あなたをこのような形でしか守れずに、申し訳ない」


 わたしは震える手で顔を覆い、涙混じりに嗚咽をこぼす。

 彼を守るだなんて粋がっていた自分の愚かさに吐き気がする。ヴェリニヘルムを守るために妻になると決めたのに、それが彼を窮地に追い込んだなんて滑稽だ。

 守るつもりになっていただけで、本当はずっと彼に守られていた。


 ヴェリニヘルムは、泣きじゃくる子供を安心させるような明るい笑顔をこぼす。


「心配しないでください。必ず生きて戻ってきます。一地方の農民の暴動ですから、規模が小さい。危ないことはなにもない。それにムスター地方は近いですから、事後処理も含めて一週間以内に帰ってこられる。そうしたらあなたを迎えに行きます。ですからどうか、ストアディアに戻っていてください。できますね?」


 彼をこれ以上困らせたくなくて、素直に頷く。

 ヴェリニヘルムは指輪をしている左手で、わたしの頭を撫でた。


「あのっ! 気になることがあって……」


 感情が騒ぎたてる。聞いてはいけない。犯人はリンデル王妃だ。彼女には動機も時間もあった。彼女がひとりでやったことだ!!

 だが理性は冷静に問いかける。従者アラモンドは、王妃にヴェリニヘルムの言動を報告している。


 ——アラモンドの密告を逆手にとって、都合の良い話を流させるよう仕向けましたか? わたしを守るために、リンデル王妃に都合の良い情報を流したのでは?


 聞きたいのに、聞けない。

 黙り込んだわたしに、ヴェリニヘルムは頭を撫でるのをやめて、笑みを消した。


「都合良く、国王の体調が崩れたことが気になっているのではありませんか? そうです。私が父に……毒を飲ませました」

「えっ……」


 耳を疑う。リンデル王妃ではなく、ヴェリニヘルムが毒を――?


「嘘ですっ!! だって国王が倒れたのは、わたしたちが城に着く前です! 殿下にそのような機会などありません。王妃様をかばっているのでしょう⁉︎」

「機会はあります。本のページに毒を塗ったのです」


 茫然自失となったわたしに、ヴェリニヘルムは独り言のように語った。


「父は理不尽で冷たい人間ですが、不幸な人には限りなく優しい。私は母に酷い折檻せっかんを受けた。泣くと食事を抜かれ、笑うと頬を叩かれ、目つきが気にいらないからと鞭で叩かれた。あるとき、お前がいるから恋人に捨てられたのだと叱られ、熱くなっていた火かき棒を背中に押しつけらえた。——父が現れ、私を後継者に選んでくれた。死んでいるような目が気に入ったと、そう言われたのです。おかしな話でしょう? 父は歪んでいる。けれど私にとっては、地獄から救ってくれた恩人なのです。父を殺めるには……意志が弱すぎました」


 ヴェリニヘルムは寂しそうに微笑んだ。


「過去を振り払えないせいで、あなたをつらい目に合わせて申し訳ない。それでも、あなたと人生を共に歩んでいきたい。身勝手な話ですが」



 軍隊を引き連れ、ムスター地方へと向かうヴェリニヘルム。

 わたしは涙を流しながら、遠ざかっていく彼の背中を自室の窓から見送った。 


 




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