六畳一間 転 [前編] ~day of beginning~

私は白い陶器のコップにインスタントコーヒーの粉を少量入れ、お湯をゆっくりと注いだ。あまり、コーヒー自体にこだわりはない私だが、注ぐお湯についてはこだわりがある。それは、お湯の温度が大体80度前後であること。これが、長年呑んできたコーヒーでは苦みが抑えられ、まろやかな味になることに気づいたのだ。また、お湯を注ぐ際にもゆっくりと注ぐことにより、香りを飛ばさないようにする方法である。

 さて、コーヒーの準備は出来た。WEB会議の準備をしなければな。私は執務室から、個室へと移動する。個室でやったほうが、周りを気にすることなく話せるうえ、会議らしさも出る。会議自体は課員一対一のものであるため、会議と云うよりは面談に近いだろう。対象職員は5人で、皆担当している箇所が異なるため、会議を五つに分けたのだ。彼らの時間は限られている。少しでも、業務を早く片付けてもらうためにも、分けたのだ。1名でおよそ10分から15分。Zoomを開き、部屋を作る。既にIDとパスワードは各職員に送っているため、後は待つばかりである。私はコーヒーを一口啜る。いつもどおりの、インスタントにもかかわらず、挽いた香りが楽しめる。それでいて、苦みも強すぎないものに抑えられていた。それから、二口、三口。それから、四口目程啜る頃に、部屋へ課員が入室した。


「すみません、遅くなりました」


 声と共に現れたのは、入社二か月目の新入りの会社員だ。スポーツ刈りと云える、爽やかな髪型をした好青年、それが彼に対して感じた印象である。ただ、それよりも、私は背景、赤い壁紙が強烈に既視感がある。


「そんなことは無い。むしろ私が早すぎただけだ」


 と云い、私はさっさく会議を始めることにする。

 現在の進捗状況、今後の予定、新機能搭載についての説明。開始から、30分程度。予定より伸びてしまった。仕方のないことである。新入りに予定していなかった、新システムを頼んでしまっているのだから。まぁ、彼のプログラミングスキルは新入りとは思えないもので、既に課員と肩を並べるものであった。今日予定していた話を終え、雑談に入った。雑談は、課員とのコミュニケーション、友好関係を深めるものであるため、必要なものである。ふと、気になったことを口にした。


「にしても、君の部屋は綺麗にしているようだね」


「そんなことないですよ、見えると事だけを片付けています」


「そうとは思えないな。今までほかの社員とも会議をしていたが真面目に片づけをしていたのは両手に納まるくらいだ。中田くんなんて部屋どころか寝ぐせに髭含めてあまり見ていて嫌だったよ」


 そう、前回の会議では7年目の中田については彼のデスクからある程度想像していたが、想像以上にひどい物であった。画面に映し出される背景は飲み干したペットボトルが棚の上にずらりと並べられ、眼を凝らせば、やや中身の残ったペットボトルも見受けられた。だから、私は彼を注視した……が、彼も寝ぐせがひどく見ていて不快だった。そのため、あのときは私は画面を見ることなく、会話を続けた。


「彼は社内のデスクも整理されてませんからね」


「ははは、そうだな。にしても君の部屋の壁紙の色は気になるがな」


 ここで、失言してしまったことに私はそれから気づくことになる。聞かなければ、彼を殺めることなど、無かっただろうに。


「あ、これですか。」


 彼は振り返る。彼の背景にあるものは赤黒く染められた部屋の壁紙である。


「すこし不気味だな」


「自分もそう思います。ですが、借りた当時からこの色なもので好きに返ることは出来ないんですよ」


「そうか、でもほかにも家なんて幾らでもあるだろう、なぜそこにしたんだ?」


「他は10万台がざらですから。此処みたいに3万5000円の部屋を探すなんて簡単じゃないです」


「その部屋はどうやって借りたんだ?」


 もし、私が知りうる部屋であるのであれば、そこはもう二度と借りることのできない部屋となっているはずだ。

 

「不動産屋で安くて、駅近って頼んだらここを勧めれたんです」

 

「勧めたか……。君は××駅から徒歩五分のとこだったかな?」

 

「ええ、そうです。あれ?前話してましたっけ?」

 

 やはり、あの部屋か。私はすぐに適当にごまかす。

 

「何言ってるんだい?君、前の親睦会で云ったじゃないか」

 

「そうでしたっけ」


 親睦会など、今のご時世出来ないというのに、適当にも程があったな。


「初任給では色々と大変だろう?私も買いたいものを買うのに大変だったよ。あの当時は……。娘ももう20歳、君と同じくらいだ。美人で出るところは出ている。どうだ?今なら我が家もつけてやるが」


 私はすぐに話題を変えた。


「娘さんのこと安売りしちゃだめですよ。娘さんだって好きな人と結婚したいだろうですし」


「君になら渡してもいいと思ったのだがね」


 次々と話題を変わる。


「さっきから私の右手を見ているようだけどどうしたんだい?」


 恐らく、こう思うだろう。何故、七月だというのに、


「手袋をしていて熱くないのかと思いまして……」


「確かに暑いな。まぁ、君にだけ教えてあげるけどね小さい頃に火傷したんだよ。母が揚げ物をやっているのに、目の前で遊んでいた。その時に母にぶつかり、油を右手だけ被ってしまった。まぁ、そんな、エピソードがあるから恥ずかしくて隠してたんだ」


 私は懐かしむように話した。だが、もう一つ、黒皮の手袋を身に着けている理由はある。それは、手の甲に付けられた、ナイフの切り傷を隠すためである。


「そうだったんですね」


「いろいろと大変だと思うけど、よろしく頼む」




―あのとき、あの夏の日に私はとある過ちを犯した


―大抵の過ちは反省すれば、許しを得られるだろう


―だが、私が犯したことは許しなど到底得られるものではない


―人を殺めた私など、許しは得られない


―だが、彼女は生きているのだ


―だから、後悔などしていない




 あれは10年前の夏の日だった。外はじりじりと暑く、僅かに吹く風は焚火の近くを通った熱風のよう。やけに蝉がうるさかったものだから、若かった私は苛立っていた。きっと、それだけで、苛立っていたわけではなかった。


「私、この人と結婚しようと思うの」


 私の唯一の家族である妹はとある大企業に勤める同年代の男性と付き合っていた。私は、妹の幸せを願い、結婚を了承していた。私の両親は自動車事故に巻き込まれ、死んでしまったため、10歳も年の離れた妹を既に会社に勤めていた私が、学費や生活費、全てを両親の代わりをしていた。だからこそ、幸せになってくれて本当に良かったと心底思ったのだ。

 だが、ある日、事件は起こった。私は、帰り際に繁華街を寄った時だ。様々なものがありふれた繁華街は見ていて飽きない。そして、人の動向を観察するのが私にとっては職務にも必要な事であったため、そういった目的で観察していた。その時、私はとある男性を見つけたのだ。その男は私の妹の彼氏だった。たまには、妹抜きで話してみたかった。だから、話しかけようと思い、近寄った時だ。彼の傍には見知らぬ腹の大きな女性が彼の手を取り、繋げていた。妹以外の女性と手を繋いでいたのだ。私はすぐに察した。私が今日見たものは、きっと忘れるべきだ。夢なのだ。妹は幸せになる。きっと、あの男が幸せにする。悲しませることなんて、ない。

 そう、思いたかった。だが、私は我慢など出来ない。だから―

 彼が一人になるのを待った。彼には聞かなければならない。なぜ、他の女といるのかを。なぜ、妹を……捨てたのかを。

 彼が一人になったのは妹の家の近くの路地裏。俺はすぐさま彼の近くまで行き、肩を叩く。彼は振り向きざま、表情を変え、歪みのある笑顔を作った。

 

「あ、御兄さん、こんばんは」

 

「こんばんは」

 

「その……ど、どうかされました?」

 

「一つ訊いていいか?」

 

 彼は顔を引き攣らせる。私が云わなくても彼はすでに私の訊きたい事は察せるだろう。だから、彼の肯定を聞くよりも先に訊いた。

 

「さっきの女性は誰なんだ?」

 

 彼は頬を頬を掻きつつ、云う。云い放つ言葉は重みのない軽い、そんな嘘を吐いた。

 

「会社の同僚ですよ。繁華街まで一緒に帰っていたんです」

 

「そうか……それにしては手を繋いでいるようにも見えたが?」

 

「!……そ、それは、彼女がいきなり手を繋げてきたんですよ。俺は嫌でその腕を解こうとしましたが……」

 

「そのようには、見えなかたっが」

 

「……」

 

 彼は私から顔を逸らし、俯く。

 

「あと一つ訊きたいのだが」

 

「……はい」

 

「さっきの女性、妊娠しているよな?」

 

「ッ……それがどうかされましたか?」

 

 そうか、自ら云わないのか。まだ、逃げるというのならばなら、もう、逃げ場を塞ぐしかない。

 

「お前の子だろう?」

 

「……」

 

 彼は黙り込む。それは、云わずとも肯定ととれる態度だ。なら、

 

「解った。もういい」

 

 彼に背を向け、私は妹の六畳一間のアパートへと向かう。今なら、妹も彼を捨てることが出来る。やり直しは可能だ。

 

「あのっ、御兄さん!」

 

「もう、君の御兄さんなんかじゃない」

 

「ッ、あの!彼女には云わないでください!」

 

「それは、無理な話だ」

 

「お願いします。それだけは……それだけはお願いします。彼女を悲しませたくない!」

 

「君の行動が彼女を悲しませることになったんだ。今更遅い」

 

「それでも!彼女には云わないでください!彼女のお腹には……」

 

「何?……おい、まさか?」

 

 私は唖然とした。彼は他の女性に手を出し、子供を授けただけでなく、私の妹にまで……。それだけでなく、彼は今更、彼女を悲しませたくないから、黙っていろと。私は冷静になれと、頭を冷やせと脳が警鐘を鳴らす。でないと、私は本能のままに彼を殺める。私は必死に堪えた。だが、もうすでに遅かった。私の視界は紅の世界が侵食し、染まった。その後のことなど、忘れ、ただひたすら、怒りに身を任せ、手を振るうのだった。




 私の視界が、ようやく元に戻った頃には彼は人間をやめ、肉塊と化していた。頭部からは血を零し、眼は白眼で見開いている。口はぽっかりとだらしなく開いていた。私は自らの手を見る。紅く染まり、中指の先端は歪み、小指は斜めに曲がっている。そうか、私はこの手で彼を殺めたのか。だが、罪悪感など微塵も感じられない。私が感じる感情は、


「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ」


 そうか。清々しい気持ちで満ち溢れている。ざまぁみろ。お前が悪いんだ。お前が、他の女と遊んでいるから。

 さて、妹の家へ行こう。そして、確認しよう。私の妹が妊娠しているのかを。




 私は妹の住む六畳一間のアパートに辿り着くと、チャイムを押すことなく、ドアノブを引く。部屋からは明かりが見受けられることから、鍵など掛かっていない。予想通り、部屋にはすんなりとは入れた。

私は、靴を脱ぎ、部屋へと入る。


「お帰りなさい、あな……兄さん!どうしたの、そんな険しい顔をして……え?その手、どうしたの?」

 

「ちょっとな。なぁ、一つ訊いていいか?」

 

「え、そんなことより、腕を」

 

「そんなこと、どうだっていい!」


 私はいつもなら、妹に叫んだりしない。だが、今は違う。

 

「きゃ!」

 

 私は妹を近くのソファへと押し倒す。両手を右手で塞ぎ、妹の身動きを封じた。そして、話を切り出す。

 

「お腹にいないよな、彼の子供?」

 

 妹は身動きを封じられていることには触れず、頬を染め、云う。

 

「そっか……ばれちゃったか。実はね、いるの、子供」

 

「ははは、そんなわけないじゃないか、君のお腹、大して変わってないし」

 

「まだ、分かってそこまでたってないからかな」

 

「そうか……そんなわけないはずだ。一度確かめてみるか?」

 

「え、それってどういうこと?」 

 

 私はソファから、起き上がると、彼女の云うことを確かめるべく、必要なものを取りに台所へと向かう。

 

「ねぇ、何をしているの……ッそれ、包丁だけど!ねぇ、何をしているの!」

 

 私は起き上がった妹を再度、押し倒すと、妹の腹部へ右腕に持つ包丁を突き刺した。それは鳩尾より少し下に突き刺さる。包丁を下へ、下へと手術のメスのように腹部を裂いた。一瞬彼女の悲鳴が聞こえたようだが、すぐに黙り込んだ。

 私は、右腕を彼女の開いた腹部へと入れ、弄る。だが、予想通りだった。

 

「……なんだ、いないじゃないか」


 そう、何もなかった。子宮と思われるものを見つけたが、膨らんでいる様子はなかった。子供がいない、そう結論づけ、ふと、我に返る。彼女の意識がないことに気づいたからだ。


「どうした!そ、そうか、気を失っているんだ。はやく、糸で縫えば……」


 その時だった。


「あらあら、あ困りですか?」


 突然聞こえてくる女性の声。その声は、玄関のほうから聞こえてくる。そして、こちらへと向かってくるのだった。

 

「君は?」

 

「私は綾城美紀と申します。お困りのようですね、何かお手伝いできることはありますか?」 


 すらりと伸びた長い白い髪は初老を思わせるが、顔を見る限り、まだ、30代前半と云ったところだろう。そんな彼女はやや微笑を含みながら云う。炭のような瞳は妖しく輝いていた。正直、彼女と話しているのは無駄だ。はやく、妹のお腹を塞がなければ。


「恐らく、貴方は倒れている女性のお腹を塞ごうとしているようですが、もうすでに遅いですよ」


「何?」

 

「もう、意識どころか、心臓が止まっています。通常の方法では助からないかと」

 

「なぜ、触れていないのに解る?」

 

「私にはそう云った知識を有していますから」

 

「そうか、なら、私の妹を助ける方法を教えてくれ」

 

「一般的な方法であれば、助かりません。ですから、彼女の身体は諦めてください。魂だけなら助けられますが」

 

「どういうことだ?」

 

「ですから、肉体はもう死んでいますと云っているのです。ですから、魂を移しましょう」

 

「それは、どうやってやるんだ」


 彼女の表情は歪み、笑みを零す。そして、云った。

 

「貴方が、妹さんの脳を食らえばいいのです」

 

「は?」


 予想していない話に理解が出来ない。彼女はそれを察して丁寧に説明する。

 

「妹の魂は、脳にあります。正確にはすべての細胞にもっているものですが、最も多く保有しているのが、脳です。ですから、貴方が脳を食らえば、同時に魂を移動します。貴方の中に貴方と妹の魂を二つ保有することになりますが、特に問題はありません。正直云って、私が知る限り、それ以外に妹さんを助ける方法はないでしょう」

 私は彼女の云うことを信じた。私は彼女と共に妹の頭蓋を開き、脳を取り出す。ピンク色の綺麗な脳が露わになり、そして、彼女に云われるまま、脳を貪る。果実のように潤っているが、やや鉄臭い。正直云って、食べれたものでは無い。だが、そんなこと考えている暇はない。一滴残らず、脳から溢れ出す液体を飲み干す。そうすれば、妹が私の中に生きると信じて。

 


 あれから、私の中には妹がいる。そんな感じがするのだ。僅かに聞こえる妹の声。あぁ、妹は私の中に生きている。そう感じると、彼女、綾城に感謝の気持ちが湧いた。あのままでは、妹は死んでいた。危うく妹を殺してしまうところだった。

 それから、綾城はあの男の肉塊と妹の肉体を処理したと云った。元々、彼女は死体を処理することを生業としていると、聞いた。その後、どういった処理をしているのかまでは訊いたことはないが。

 ふと、思い出していたな。時計を伺う。彼の会議を終えてから10分。さて、次の会議だ。その前に私は窓を眺める。そこには綺麗な蒼い空が広がっている。


 そして、あの日のように、じりじり、とアブラセミが鳴いていた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る