焔天明は逃がさない
先日、嬉しいことに焱ちゃんが図書館で蔵書検索した時のメモ書きを拾った。鉛筆で書かれた文字にはやはり期待と諦め、寂しさが内包されており、見れば見るほど引きつけられた。
何でもないふりをして一生懸命心理学の本を漁る焱ちゃん。彼女が文字の奥に隠したように、彼女の中には多彩な感情が喧嘩しながら一緒くたにされているのだろう。
だが彼女の魅力はそれだけではない。
毛先をゆっくり焦がすような小さな灯。紙の端から燃え広がるような確かな火。それが文字に見え隠れするから、深く深く沈んでいる彼女の火の正体を知りたいとも思ってしまう。隠された事柄は暴いてしまいたいのが人の性ではなかろうか。意地悪い性格をしていると自分でも思う。
『なぁ天明、流石にゴミは漁るなよ。流石の俺でも引いたぜ?』
『漁ってないだろ。焱ちゃんが捨てたものを俺が拾っただけだ』
『いや漁ってたろ。図書館だったか、そこにあるゴミ箱に躊躇なく腕突っ込んでんじゃねぇよ』
『問題ないさ。何も』
慌ただしく過ぎた四月を終えて、五月も半ばにさしかかる日。焱ちゃんは歴史の棚にいた。最近合服になったようなので細さが際立っているな。邪険な目で見ている訳ではないが少々心配である。
彼女は一冊の本を抱えて本棚上部を凝視していた。かと思えば空の脚立置き場に顔を向け、また上を見る。その散漫な動作が表情筋をくすぐったので、俺は初めて彼女に爪先を向けたのだ。
借りる予定の本で焱ちゃんの肩を小突く。触れただけで折れるような子でなくてよかった。手首細いな。
瞬時に体を動かした焱ちゃんは顔を上げてくれた。
「あ、すみません、すぐ退けますね」
なんだその書きやすそうな笑顔。
弧を描いた目、綺麗に上がった口角。それは余りにも笑顔の定型を成しており、好感を通り過ぎて薄ら寒さを感じる表情だ。瞬きの間にこれだけの笑顔を作れるのだから、やはり彼女の名は体を表していないと確信した。
俺は左頬だけ上げて笑ってみせる。だから何故片頬しか上がらないのか。俺の表情筋は焱ちゃんのように動いてくれないな。
「いや? 困っていると見たんだが。本、戻そうか」
「あぁ……」
許可を得ずにすくい取った本を棚に戻すが彼女はどう思ったのだろう。別に悪さをする気はないので、その固定された口元くらい緩めてくれてもいいのだが。
かく言う俺も緊張しているのだと思われる。片頬だけ上がり続ける笑みはきっと気味が悪い。緊張したら意地の悪い笑みになってしまうのは俺の欠点だ。残念なことこの上ない。引かないでくれるといいのだが。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ」
焱ちゃんの役に立てたと内心で安堵していれば、彼女は直ぐに会釈して去ってしまった。初めての、お喋りにも満たない会話はこれにて終了だ。これで赤の他人から図書館で出会った人として認知されただろうか。
いや別に認知はされなくてもいいのか。俺はもう少し焱ちゃんが捨てるメモが欲しいだけだ。
あの子の文字を見ていたい。あの子が隠した火種を観察したい。そういう理解されない願望があるだけなのだから。
その日の焱ちゃんは何も捨てることなく図書館のエントランスに行ってしまった。このまま帰るのだろうな。後をつければ焱ちゃんの帰り道が分かるとも考えたが、流石に「警察」の二文字が浮かんだのでやめた。俺は別に焱ちゃんの私生活が知りたいわけではない。……だが家が分かれば……駄目だ警察呼ばれるな、やめよう。
祀を脳裏に浮かべながら本の貸し出し手続きを終えると、焱ちゃんは何やら壁を見つめていた。
「あれ見てんだろ、天明が特別賞とった書。この図書館に展示してんだろ?」
「あぁ、そういえばそうか」
影から響く
何の気なしに焱ちゃんを見る。何人かの利用者は俺の書に近づいているようだ。まじまじと見たところで何も伝わらないだろうに。
嘆息した俺は焱ちゃんの足元を映す。
ローファーを履いた足。それは書から一定の距離を取っている。まるで線でも引いたような姿勢を観察していると、彼女は微かに動きを見せた。
下がったのだ、一歩。
視線を上げて篝火焚火の横顔を凝視する。
彼女は度し難い表情で書を見ており、その足はまた後退する。この距離ならば大丈夫だと言わんばかりの間合いの取り方だ。
誰もが褒めやかす書。それを見る目に用心する色が浮かんでいる。近づきたくないと彼女の態度が言っている。
気づけば俺はエントランスへ向かい、焱ちゃんの肩を小突いていた。
「さっきぶりだな」
「え、」
「また何か戻せなくなってたのか?」
「いや、書を見てたんです。特別賞の」
自分でも業とらしい近づき方だとは思った。こんな所で何か戻せなくなる理由がない。それでも律儀に答える焱ちゃんに背中をくすぐられた気分になり、俺は彼女の少し後ろに立ってみた。
「書道、してるのか?」
「してません。なので何が書かれているかも分かりません」
「なのに見てたのか」
「あぁ、まぁ、そうですね」
顎に指を添えた焱ちゃんが少々歯切れ悪く口を閉ざす。俺は少しだけ体が揺れる気分になり、鎌を掛けることにした。後退したこの子の真意を知りたくて、言い淀んだ言葉に何を隠したのか聞きたくて。
「あの特別賞、おかしくないか?」
顔を上げた焱ちゃんの黒目と視線が合う。彼女は暫し間を取って、俺の様子を窺うような姿勢を見せた。
「……おかしい、ですか」
「君はおかしいと思ったから後退しているんだと思っていたんだが」
焱ちゃんが俺の書に顔を向ける。この発言で最初の声掛けが変だと気づかれた予感がしたが、それよりも今は彼女の反応の方が大事だ。
少しだけ踵が上がって、静かに下げる。焱ちゃんは俺に視線を向けることなく淡々と感想をくれた。
「綺麗で優しい文字だと思います。でもそれは優しいの皮を被っているだけで、それより奥には爆ぜてる何かがありそうだなぁ、と」
あ、
「あの文字の皮を剥いだ先、人に違和感を与える産物の奥には、何かが宿っているのではないかと興味があります。が、流石に特別賞の作品を破くわけにもいきませんし、作者の方に問いかけるわけにもいきません。近づくとこちらが食べられそうですし、静観が一番かと」
全身に、鳥肌が立つ。
見てくれた。
見てくれた。
俺の文字の奥を、見てくれた。
足がうずいて口角が上がる。血液が熱を孕んで全身が高揚する。
焔が爆ぜて燃え上がり、俺の書を裏から徐々に焦がしていく。
この子は見ようとした。俺の書の奥。俺が溜めた墨の根源。綺麗な包装の中にある俺の墨。書を冒涜する焔の粘度。
それをこの子は見つけていた。見つけたから後ずさった。
見つけた、見つけた、やっと見つけた。俺の文字の奥を見てくれる子。俺の字を恐れてくれる子。それがまさか、俺が欲する文字を書く子だったなんて。
運命的などと詩人めいたことは言わない。
ただ逃がさないと決めた。
俺を引きつけた字を書く女の子。俺の文字の奥を怖がった子。
篝火焚火。
俺はお前を逃がさない。
「焔天明さんにはお伝え出来ない感想です」
書きやすい笑顔を浮かべた焱ちゃん。交わった視線はすぐに固まり、俺は自分がどんな表情をしているかなど考えていないんだ。
少女は俺に会釈して図書館を出ていく。俺はその背中を見送り、堪えられない笑いが喉からこぼれた。
ここは図書館。だから大きな声は厳禁である。
念じて笑えば空気が漏れる。掠れた笑いが溢れ出る。
目を押さえて笑う俺は傍から見れば変人だろう。近づくべからず、声を掛けるな、気にするな。
笑いが堪えられない俺は、焱ちゃんの黒髪を思い出していた。
「あぁ……いいなぁ、焱ちゃん」
君はいい、とてもいい。やはり俺の目は間違っていなかった。君の文字を見つけたあの日から、見ていることは正しかった。
愉悦に浸った俺はその後、ハイドで風の
俺はこれでもかと業火を上げ、旋風で守りを堅める女王を熱波で巻いた。
どれだけ堅い異形でも焼けば脆くなってくれる。風で身を守ろうものなら、その風すらも焼けばいい。
俺が止まることなく火の海を広げていると、女王の三つ又の矛が風をまとった。火炎と混ざった風は瞬きの間に撃ち出され、俺の鳩尾に激突する。
一瞬だけ呼吸を忘れ、筆だけは離すまいと握り締めた。足が浮いたと思った瞬間には背中に衝撃が走り、袴や着物が焼けている。噎せた俺は無意識に口元を拭い、腹部を押さえる
「いいぜ、気にせず行けよ、天明」
異形が笑う。鋭利な歯を見せ、口から零れた黒い液体を拭いながら。
「承知」
気づけば俺も笑っていた。女王は
俺は素早く袖から紐を出してたすき掛けを行い、勢いよく筆を走らせる。左肩に炎の豪風が炸裂しようとも、矛が吐いた竜巻によって地面に叩きつけられようとも。
筆を決して離さない。書くことをやめられない。負けてなどやれない。
俺は悪鬼を燃やし尽くす。
やっと見つけたあの子を知るまでは、死んでなどいられない。
筆を止められない俺は女王の周りを火柱で覆い、毛先から落ちた玉の汗に笑ってしまった。
触れた地面すら熱い。建物の窓が歪むほど温度が上がっている。吸った空気で肺が焼かれ、喉が拒絶し声が枯れた。
「あぁ、良い火だ」
防具である風が女王自身に牙を向く。お前は自分の風で壊れるのだ。温度を上げ続ける風を纏うなど、自分を痛めつけるだけだろ、異形の影。
レリックは自分の体よりも
何も言わずに伸ばされた手は、
俺は灼熱の中で筆を振るう。
燃えろ、燃えろ、異形の女王様。お前の風は重過ぎる。守りに徹したお前の風では俺の炎を越えられない。俺を殺すことは叶わない。
風の女王は、炭となって地面に落ちた。
「あぁ、ありがとう天明。このまま行こう、燃えていこう、壊して歩こう」
「そのつもりだ」
鋭利な歯を見せて笑う
逃がさない、逃がさない、絶対に逃がさない。
さぁ、あの子とどうやってお近付きになろうか。あの子はどうすれば俺の字を見てくれるだろうか。
ジキルに戻り、焦げた着物や草履を丁寧に処分する。それから何事もなかったようにバクがかかった夕食で腹を満たし、俺は焱ちゃんと距離を詰める作戦を考えた。が、なかなか妙案は浮かばない。
そんな時、ふと零さんから連絡が入った。
〉すごく面白い光源の子と会ったんだ。天明くんにも紹介したいから明日カフェにおいでよ
零さんの唐突な連絡は別にいいが、面白い子と言われても俺の気持ちは微塵も動かん。なにせ俺の中で一番面白いのは焱ちゃんなのだから。あまり興味のわかない誘いだが、しかし相手が光源ならば無視もできんか。
俺は行くと連絡し、カフェに持っていける程度のバクを選んでおいた。
「これくらいなら千切り入れられるな」
「鞄に入れていくのか? 俺がしてやるのに」
「出来る時は自分でした方がいい。その方がまだ食べる気力が湧くんだ」
「んだそりゃ、訳分かんねぇなぁ人間」
「俺もお前のことなど分からんよ、異形」
「あ、天明くんだ〜」
「こんにちは」
道中会った零さんは「面白いんだよ〜」と軽快に歩いている。「そうか」と相槌をうった俺は、今日も焱ちゃんは図書館に行っているだろうかと考えてしまうのだ。俺の中で群を抜いて面白いのは焱ちゃんなので、それを越えてくる奴はいないだろうと高を括っている。
まぁ、そんな考えは数分後に霧散したのだが。
カフェの前、見知ってしまった制服姿で空を見上げていた少女。ぼんやりとした目には光が入りにくそうで、段違いの黒髪は俺がずっと目で追っていたもの。
――焱ちゃんがいた。
そりゃもう、間違うことなく焱ちゃんだった。
俺の気分は途端に高揚し、笑う顔は抑えられないのだ。
おそらく、運命というやつは存在するのだな。
「焱ちゃん」
「人違いです……」
思わず愛称を口にしたのは失策である。なんとなく焱ちゃんの警戒濃度が上がる音を聞いてしまった。零さんは零さんで笑い通しだな。俺と焱ちゃんでは化学反応など起こらないぞ。起こっても大爆発程度だ。
カフェの中では大人しく黙っていた。無意識に焱ちゃんの隣を陣取ってしまったが逃げ道を塞いだと思えばいい。俺はこの子を逃がさないと決めたのだ。まずは道を塞ぐのが定石だろう。
自己紹介をすれば、焱ちゃんの顔は面白いくらい白くなった。大丈夫か? 貧血か?
「昨日は大変失礼な感想を口にしてしまい、」
「いや、あの感想が一番嬉しかったから謝らないでくれ」
唐突に謝罪を受けそうになったので咄嗟に制止する。焱ちゃんの頭上には疑問符が浮いているように見え、遠くから眺めるだけでは見られない表情に俺の気分はうなぎ登りだ。
「ありがとう、俺の字を怖がってくれて。最高に嬉しかった」
素直な思いを口にするが、焱ちゃんは曖昧な表情をする。書いた俺自身が嬉しかったと言っているのだから素直に受け取れば良いのに、何を勘繰っているのやら。
「これからよろしくな、焱ちゃん」
緊張しつつ片頬を上げる。焱ちゃんは曖昧な笑顔のまま視線をゆっくりと逸らし、俺を視界から外した気がした。どうしてだ。年上と話すのは苦手なのだろうか。
まぁいい。
逃がさないから。
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