墨に溺れた烈火の少年編
焔天明という少年
篝火焚火が影法師と出会う半年前。
吐く息白い霜月の日、少年の元に影がくる。
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「自分語りは嫌いか? それだけの墨を使って思いや情景を書く癖に、己を見せるのは嫌いなのか」
青天の霹靂。
いつもの如く部屋に籠り、畳の匂いを嗅ぎながら筆を持っていた。
俺の喉奥は文字を書くごとに凪と荒れを繰り返し、鳩尾には粒の大きな砂浜が広がるようだ。
喜なのに怒を感じ、哀を感じながら楽も得る行為。それが俺にとっての書道であり、中断させられると体の一部をどこかに置き忘れたようになってしまう。
だから今の俺は足りてない。恐らく置いてきたのは危機感だ。
筆の落ちた半紙に黒い染みが広がる。俺の前にいる異形から目が離せない。逆巻く業火を思わせる髪色で両目は黒布に覆われた存在。淡いものから濃いものまで様々な黒を縫い合わせた服装は修繕なのか趣味なのか。
節の目立つ十指には黒い指輪が嵌っている。そのうち一本が俺を指し、足が影に埋まった異形は口角を上げた。口が裂けているように見える。歯は全部尖っているな、凶悪なことだ。
泡沫の意識の中、白昼夢のような現象に対面する。そこに危機感があれば俺は抵抗なり応戦なりしたのだろうが、残念ながら置き去りにしたので何にもならん。
「語ればいいのか、俺について」
胡坐をかいて頬杖をつく。袴の裾を正さぬ無作法を叱る者はおらず、影から生えた異形も鏡写しの格好をした。
だから俺も真似をしよう。鬼のように微笑む異形に笑ってやろう。
そうすれば、異形は息を吸いながら笑った。
「あぁ、頼むぜ、語れよ
俺を知りたいなどと、
鼻で笑った俺は、胡坐も頬杖も崩すことはしなかった。
***
俺は書道家の生まれだな。
父は書道に関する物。硯、筆、文鎮、半紙などを取り扱う老舗の九代目。どれもこれも父の目利きで職人に声を掛け、廃れていた家業を立ち直らせた偉い
母は書道家。門下生も抱えるくらいに腕の良い人さ。展覧会や個展の話が休む暇なく来るほどで、この界隈では有名な御人だろう。父と出会ったのも運命というやつかもな。
そんな墨の匂いしかしない家だ。俺も生まれた瞬間から墨に纏わりつかれて、鉛筆より先に筆を握らされた。Tシャツより着物、ズボンより袴。靴より草履。座れば正座で常に冷静さを、なんてな。
ここが古き良き街並みならば浮きもしないだろうが、残念ながら周りに木造の家はそうそうない。三人揃って着物で出かければそれだけで色々な視線を注がれた幼少期だったな。学校のクラスメイトに見られれば次の日には揶揄われたものだ。
学校の課題よりも書の練習。成績が悪くても叱られないが、上手い字が書けないとなじられる。あぁ、あと商業の勉強だな。そこはしっかりしろと叩き込まれているよ、進行形で。
別に人生の岐路なんて今までなかった。俺の道は既に舗装されていたんだから。立派な書道家になって家業を継ぐ。あいにく一人っ子だからな、それ以外の選択肢がないんだ。
『これくらい出来なくてどうするの』
『当たり前のことをしなさい』
二人が怒鳴ることなどないな。静かに淡々と、硯に墨を溜めるように言葉を注いでくる。陸で削った墨は水と混ざって海に溜まる。俺は外側だけでなく、中も墨で満たされた。褒められたことは一度もない。出来れば全てが当たり前。だって俺は「焔」だから。
焔、焔、燃え盛るようなこの名字。それが俺の墨を沸騰させて、粘度を高めた異物に変えた。
物語だと、こういう所に生まれた登場人物は自尊心が高くなるか葛藤するか、反抗するかが多いのかね。碌な友人もいないし漫画を読む時間もなかったんで、学校で読んだ小説あたりからの想像だが。それだと俺はどこに分類されるのか。
周囲から当たり前の基準を上げられ続け、内に言葉の墨を溜め込んだ。墨は昇華もされずに名字で煮立ち、喉に絡みついて呼吸を妨げる。頭から墨をぶっかけられるような育てられ方だが、家族の数だけ子育てがあるんだ。仕方がないと言えば仕方がないんだろな。
親からしたら家業を継げるなら俺と機械が入れ替わっても差して問題はないだろう。薄々感じてはいるが、俺は焔天明と名付けられただけの人形に変わりない。
だが残念なことに俺は人形ではなかった。喉の奥で絡んだ墨を吐く時を
「そうだな、ここに少し嗜好の話を挟もう。俺は文字が好きなんだ。そこには隠せない癖が出る。そいつにしか書けない塩梅があって、真似は出来ても同じにはならない。手書きならこの世に一つとして同じ作品は出来上がらない。だから文字を見るのが俺の楽しみさ」
達筆な母の字が少しだけ柔らかくなる時があった。門下生の子どもの誕生日などを祝う時の手紙だ。自分の子には鞭を、他人の子には飴をってか。罪な御人だ。
凛々しい父の字が荒れる時があった。売上が伸び悩んだり、母と喧嘩をした時だ。あの夫婦の仲直りは文筆なわけだが、盗み見た父の字は感情丸出しの流れをしてたな。
名は体を表すなんていうが、実際に体を表しているのは文字なのさ。
それに気づいた頃から俺は文字を眺めることが楽しくなった。看板、暖簾、表札、書名、名札、答案用紙。どこもデジタル体が多いが、その中で手書きを発見できた時は足が軽くなったもんさ。
別にデジタルだって嫌いではない。フォントは別になんでもいい。俺はとにかく文字が好きで、文字に飢えて、出来る事なら手書きを求めた。国語辞典を擦り切れるまで読み耽り、新版が出ればすぐ買ってまたページをすり減らしたな。
ただし文字を覚えただけで文章の構成はどうでもいい。だから漢字テストは満点でも、国語のテストになると平均点みたいなのが俺だ。作者の心情なんて微塵も分からない。分かってほしければ手書き原稿を問題用紙に載せてくれ。そう教師に言ったら「何馬鹿なこと言ってんだ」と説教だ。あの教師とは一生相容れない。
文字にご執心な俺は、自分の欲求を満たす為に筆で書き綴った。しかし、それは同時に己を晒す危機感を抱く行為だった。
半紙に落とした墨の奥に俺が滲んでいる気がするんだ。この筆から滴っているのは単なる墨ではなく、俺が体に溜めた粘度の高い墨も混ざっているのではないかってな。
それは書に対する冒涜だと憤るのに、俺は俺が溜め込んだ物を表に出していいのだと胸が躍る。
だが出来上がった書を見た時に思うのは、なんて禍々しい文字を書いてしまったんだという幻滅さ。
体を表す文字がこれだけ重く粘り気を含んでいるということは、俺自身もそう言う奴だということになる。
別に俺は清廉潔白や純粋無垢を目指してる訳ではないが、鏡に映った自分が化け物じみていると思ったら嫌になるだろ。俺はいつから人でも機械でもなく、泥のように重たい何かになってしまったんだって。
答えはすぐに出た。この名字と親だ。親が俺に流し続けた墨が筆を通じて書に出てしまった。この墨は書くことでしか昇華できないし、書いてしまった文字は今にも人に襲い掛かりそうな悪逆性を秘めている。焔に煮られた墨は、とうに墨としての性質を越えてたわけだ。
勿論そう感じているのは俺だけだ。段位が上がるごとに親は満足感を得ているようだし、書道の展覧会でもお褒めの言葉を頂戴する機会が増えた。みんな俺の書を見て絶賛するのさ。
『まだ若いのに素晴らしい才能だ』
『この筆運び、心が洗われるね』
『流石は焔さんの一人息子』
『焔天明くんだ』
眼科に行かれた方が宜しいかと思いますよ。
おべっかもここまでくると清々しいですね。
節穴の目と二枚の舌をお持ちだなんて、前世で毒でも盛られたんですか?
『ありがとうございます』
褒められる度に寒気と吐き気がしたが、俺の体は
焔の名字に隠れた奥に、俺が溜め込んだヘドロのような概念が巣食っている。その書をまじまじと見学する奴らにも、顔を緩める親も文字の表面しか舐めてないんだと落胆したよ。
文字は人を映す鏡になる。どれだけ綺麗に書いても滲むものがそこにある。内包されたものがある。
だから俺は、自分の書いた文字を破ることにした。
俺の中で黒く煮立った墨と、それに汚された半紙を破る。大会に出す一筆だけは我慢して、それ以外は書いて破って書いて破って、山になったら燃やして炭に。
これがまたよく燃えた。家の近所の一斗缶にぶちこんで火種を入れたら赤々と燃えるんだ。それは俺の禍々しさを焔が焼きつくすようで、痛くて爽快な矛盾を生んだ。
焔で煮詰めた黒い毒を、天明という光が焼いたんだ。
切っても切り離せないのに相容れない。喪失と快感は完全に俺の趣味になり、繰り返して繰り返して、繰り返してる。
「俺は俺の文字だって好きだ。だが舌を噛み切りたくなるほど嫌いでもある。だから俺が創って、俺が壊す。俺が書いて俺が燃やす」
これは自己愛であり、自己嫌悪だろうよ。
語るに落ちながら目を開ける。途中から伏せていた瞼の裏にあったのは、一斗缶の中で燃え盛る俺の文字。俺が汚した半紙たち。
異形は業火の髪を撫でつけると、盛大に息を吸って笑い出した。日本家屋で声が響くことは少ないのだが、コイツの笑いは耳につくな。これだけ騒がしいのに誰も来ないのだから、この異形は俺の墨が作り出した禍々しさの
ならば俺が破いて燃やさねば。
俺が頬杖をやめて背筋を伸ばすと、異形は俺の鎖骨の間を指さした。尖った爪が皮膚に触れている。俺の墨は、逆に俺自身を破ることをご所望か?
「あぁ~いいな、天明、天明、焔天明! お前はい~い火種になる! 業火で全部を壊してくれる! まさしく、
「あ?」
「俺は
「なんの話だ」
「お前、自分の文字で悪鬼を燃やしたくはねぇか?」
至近距離に近づいた異形が低く囁く。俺は言葉を耳の奥で反芻し、背中が泡立つ感覚を得た。
自分の文字で、悪鬼を燃やす。
異形も俺の反応を汲み取ったらしい。俺の首を掴んだ相手は耳まで裂けた口を開けた。深く黒い舌には白い塔の印が刻まれている。
「俺はお前に与えよう、焔天明。壊すことに特化した俺、
白い塔が俺の眼前に突き出される。魅入るほど美しい刻印と甘美な言葉は、意識を異形だけに向けさせた。
「さぁ、願え人間。願うからこそ、欲するからこそ人は強く貪欲になる」
俺の願い。俺が叶えて欲しい事。
どうすればこの異形を救えるのか、自由にできるのか。そんな話は後回しで結構。
俺の願いが叶うなら、俺の文字が燃えてくれるならば。
俺は何も恐れない。
「叶うなら俺は――俺の文字を分かってくれた人と仲良くなりたい」
食われると錯覚した俺に影が被さり、唇が触れる瞬間、異形は確かに快諾した。
「聞き届けた」
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咄咄怪事:驚くほど怪しい出来事。
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