篝火焚火は怯まない
目の前で火柱が上がる。
レリックの周囲に業火が立ちのぼる。
なんだ、熱い、どこから、なんだこの火。
少しだけ思考が飛んだが、直ぐに合点がいく。
私の属性は風。ならば共に来た彼の属性は?
『俺は焔天明。
脳内で声が繰り返される。爆ぜる火の向こうでは軽快に指が鳴る音も聞き、私は白い着物を探した。
「お前に敬意はいらんだろ」
大筆を振り上げた焔さんが地面に光る文字を書いていく。ハイドで光源となった文字にはバクが引き寄せられ、レリックの周囲の地面も彩られていた。
化け物を囲う形で火柱が上がる。文字が爆ぜてレリックを熱の檻に閉じ込める。
不思議な文字だ。一文字一文字が火種となって爆発し、隣にあった文字の火と絡まって、暴れ狂う業火の柱になるのだから。火柱の高さは揃っていないが跳んで越えられるものではない。火は上に行くほど細くなるから本当に檻のようであり、一種の舞台のようにも見えた。
灼熱の舞台の真ん中をレリックは歩み続けている。バク達は
焔さんの筆は止まらない。笑っている彼は達筆な文字を地面や標識、アパートの壁に綴り、踊るように走っている。躍動感ある体の使い方はなんて言うんだっけ、書道パフォーマンスだったっけ。でもパフォーマンスにしては焔さんの筆の置き方は柔らかい。筆を大事に思って、光る墨の一滴まで無駄にしないような繊細さは書を
地面へ光る文字を置いていき、バクもレリックも眩ませる。光る文字に気を取らせ、自分の姿を隠すように。
「ほら、もっと燃えろよ、堅固な異形」
私の視線の正面。燃えても歩む化け物の向こう側。笑っているのは焔さん。
片目を
私の頬を激しい熱さが殴り、視界は紅蓮に染められた。
文字に集まっていたバクは悲鳴もなく炭となり、レリックはそこで初めて顔を覆う。
歩みの遅いレリックを業火が包んだ。荒ぶる烈火は隣り合う熱同士で混ざり合い、侵食しながら横へ横へと伸びていく。混ざって混ざって広がって、私の目線ほどになった火の壁の熱気は激しさを増し、周囲の影を歪めていた。影が歪むことによってハイドそのものが歪みそうだ。
それでも、レリックは一歩を踏み出してくる。
焔さんよりも近い私に向かって。燃える道を進んでいる。燃えながら見据えている。
私ではない。私に取り付いた
なんて執着、なんて耐久。重たく歩を刻む理由は
焔さんはもう一度指を鳴らし、まだ輝いていた文字が至る所で爆発した。
レリックの足元に亀裂が入る。激しい爆風と熱気は私の元まで届き、思わず片膝をついてしまった。
「ぃたいッ! はははッ!!」
私の横で顔を押さえたユエさんが背中をのけ反らせる。私は自分の顔に触れ、何も感じない現実に顔を歪めた。
私は痛みを感じない。私の痛みはユエさんにある。切り傷も打ち身も、衝撃も火傷も、全てはユエさんに移される。
「ユエさん」
「いいわ、いいの、だぁいじょうぶよ、大丈夫」
ユエさんが細く美しい指で示す。業火の中を進んでくるレリックを。
屈強な鎧は熱に焼かれ、猛火に攻められ、槍の輪郭が歪んで見える。
灼熱の向こうで笑うのは焔さんだ。恐らくレリックとの相性は良くないのに、彼の顔には喜々とした余裕がある。
白銀の瞳が見ているのは影の追跡者ではない。火の壁でもない。
私を見てる。
私の拳を見つめている。
犬歯を見せて笑った焔さんは、私の動きに期待してやがるようだった。
不意に地のレリックが高く上げた足を地面に叩きつける。地表が割れたと同時に火の壁が爆ぜ、私は飛び散る火の粉を振り払った。
砕かれた地面が隆起し、レリックの腕に合わせて大地が競り上がる。炭になったバクは雪のように火の海を舞い、物憂げな哀愁さえ纏っていた。
盛り上がった地面はレリックを囲う壁になる。それは防壁かと思ったが、そんな予想は化け物の左腕に打ち砕かれた。
握り締められた拳が壁となった大地を殴り、倒し、歩行の邪魔になっていた大火を押し潰す。モーセの海割りではないが、瓦礫が炎を押し潰し、私とレリックの間に道を作ったのだ。ただひたすら真っ直ぐに、化け物が化け物を求めるままに。
レリックが一歩を踏み出した。熱気に巻かれた鎧はどうなっているだろう。そろそろ割れたりしないかな。先にユエさんが捕まるかも。そうなれば私の願いが果たされない。
徐々に速度を上げるレリックは槍を構え、業火の向こうでは目が歪むほど笑った焔さんがいた。
あぁ、あの人はもう動く気ないな。
このレリックを殺すのは、私の仕事なんだ。
風を纏った足が地面を蹴る。ソルレットは瞬きの間にレリックとの距離を詰め、黒い槍が鋭く迫った。ソルレットの踵と靴裏から風が噴射して私の体幹が大きくぶれる。
自分でもこの風を制御できてる気がしない。暴れる足では踊れない。やっぱり慣れない武器なんて本番で創るもんじゃねぇなッ、畜生!
崩れた体勢を槍が突く。鋭い武器は横腹を引き裂いたが、私は出血もなく痛みも感じなかった。
服が破れて皮膚が裂ける。私は回転しようと風で宙を蹴り、一瞬だけユエさんを見た。
横腹を押さえて口角を上げている
宙で頭が下になる。腕が重くて熱気で目が渇く。
ふと逸れた意識の中、眼球を狙った槍の先端に心臓がせり上がった。
振った足で風が舞い、私の顔が少しだけ横にずれる。それでも顔に槍は当たり、左頬と左肩、左耳まで裂けたようだった。
でもやっぱり痛くない。ようだった、なんて他人事。痛くないから私の感覚はどこか麻痺してしまい、風で宙を思い切り蹴った。
視界を回しながら着地して膝を深く曲げる。一瞬の差で頭上を刃が切り裂き、私は槍の間合いより内側で拳を握った。
傷は治った。手足は動く。頭上で聞こえたのは槍の回される音。レリックの足が槍にとって適切な間合いを取ろうとする。
逃げるな化け物。
お前を倒せば、私は温かさに近づけるんだから。
目を見開いた私の肘から暴風が吹き荒れて、右腕が外れそうな速度でガントレットを打ち出す。肩や理性の限度を置き去りにした拳が鋭くなる。
腰を捻って一点集中。相手は化け物。槍を振り下ろされたらこちらが劣勢。
勝たなくていい、殺せばいい。
だって相手は化け物だから。
化け物の皮を被った正しい化け物だから。
私の拳は、熱されたレリックの鳩尾に激突した。
微かに装甲が剥がれたが凹みもしないし砕けもしない。亀裂は卵をシンクの縁に当てた程度のものだ。貫通なんて持っての他。
硬い。流石は地属性としか言いようがない。
どうやって潰す。どうやって壊す。どうやって殺す。
私が逡巡している間に真上から槍が叩き込まれた。私の右肩を貫通した槍は体に衝撃を与えたが、血飛沫なんて上がらない。
見た目がどれだけ怖くても、意味の分からない事が起こっても、私に痛みはないんだから。
だから引くな。
怯まず進め。
私の痛みを肩代わりしている化け物が、私に助けを求めた化け物が、後ろで待っているんだろ。
私の左肘から突風が吹き、レリックの顔に拳を叩き込んだ。化け物の顎が上がる。亀裂から装甲の欠片が飛ぶ。しかしやっぱり砕くには遠い。奥歯を噛み締めて化け物を凝視すれば、いつかの記憶が脳裏を過ぎた。
『貴方が玄関を開けたから!』
『……気味が悪い』
全身を寒さが駆け抜けて、目尻に自然と涙が浮かぶ。
あぁ嫌だ。勝てないのは嫌だ。寒いのは嫌だ。意味のない涙を流すのに疲れたんだ。
化け物に両親を奪われるのも、化け物が人を襲う姿を見るのも、化け物に勝てないのも、もう沢山だッ!
私はレリックの背後に広がる業火を見る。化け物の周囲で暴れる火の壁も、地を焼く熱波もまだ健全。涙も汗も蒸発させる。
呻いた私は肩を貫通した槍を勢いよく掴んだ。一緒にレリックの手も捉え、足から突風が吹きすさぶ。浮いた体でレリックに体当たりしたが、私の激突では倒せなかった。微かに後ろへ下がった程度だ。
力が足りない、燃料が足りない。ソルレットの形がブレている。
あぁ、ならば、燃料補充ッ
「ユエさん! 熱いの我慢してください! バク食いますッ」
「あぁ、素敵ね焚火ちゃん!」
着地した私はレリックの手と槍を離す。影を伝って背後に現れたユエさんは、私が先ほど千切ったバクの頭を持っていた。
レリックの手がユエさんに伸びる。私は爆風で勢いをつけた拳でレリックの腕を弾き飛ばし、大きく口を開けた。
視界に入ったバクに犬歯を立てる。震える顎に力を込める。
黒い化け物を噛み千切った私は、咀嚼もそこそこに丸呑みした。
ソルレットが原型を固めて風力を上げる。腕を弾かれて重心のズレたレリックに再度体当たりをかませば、化け物は二歩ほど後退した。その間に肩から槍を引き抜き、低いユエさんの呻きを聞かなかったことにする。
もっと吹き荒れろ、私の足。もっと前へ、この化け物を火の中へ。荒れろ、荒れろ、荒れ果てろッ
ソルレットから巻き起こる豪風が地面を力強く押し、私はレリックの肩越しに炎の壁を見た。その向こうで大筆を持つ男に視線を送る。
焔さんは直ぐに意を汲んだらしく、私の背後に走り込んだ。火の壁を直線で突っ切る間に
筆を躍らせた彼は私の背後に文字を綴り、指を鳴らした。
火の舞台が円形に閉じられる。モーセの海割りは終わった。私とレリックだけが火の森に閉じ込められる。
かと思えば頭上から光る文字の書かれた瓦礫が投げ込まれ、私とレリックの間で爆発した。
「あ"ぁ"ぁ"ッ」
悲鳴を上げたユエさんを振り返らない。右目の視界が一瞬おかしくなったけど無視するしかない。
熱波が私とレリックを包み込み、私は肘から風を噴出する。
それから、ただ殴れるだけレリックを殴り続けた。
相手が槍を構える前に、振り下ろす前に、距離を取る前に。
熱が、炎が化け物を焼き続ける。焼ける私の肌は
豪速で突き出す拳はレリックの腹部に亀裂を入れる。暴風が私の腕を弾丸に変えて化け物の装甲を凹ませる。
一瞬だけ足を下げたレリックを見逃がさない。
弾丸の拳はレリックの顎を殴り、体勢を崩した所に熱波が押し寄せる。
顔を覆うレリックに容赦なく拳を叩き込めば、初めて相手の重心が後ろへ傾いた。
ここを逃すな。ここで殺せ。ここで砕け。
コイツを生かせば、私の願いは果たされない。
私が温かい心に触れる為には、抱き締めてもらう為には、お前を殺さないといけないからッ
失せろ化け物。
私の願望の、踏み台であれ。
倒れるレリックに全体重をかけた拳を叩きつける。肘で暴れる豪風は弾丸の威力を上げ、触れたのは一番亀裂が深い場所。
私が創り出したガントレットは、硬いレリックの鳩尾を貫通した。
勢いの落ちない拳が地面を殴ってヒビを入れる。ガントレットに貫かれたレリックの体が跳ねる。
同時に火の壁が消え失せ、私の顔から一気に汗が噴き出した。髪が顔や首に張り付いて気持ち悪い。呼吸が荒くて眩暈がする。喉が焼けた? 肺が変? 平衡感覚が狂ってる?
あぁでも大丈夫。そんなの全部、治ってしまう。
汗みずくになった私は、化け物を追いかけてきた化け物を見下ろす。
重たい体でガントレットを引き抜けば、黒い雫が宙に舞った。
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