篝火焚火は直面する
焔さんが「良い文字だ」とメモ帳しか見なくなり、夕映さんも珈琲とタルトにご執心の間、私は異様な遅さでカフェオレを啜っていた。喉がこんなにも飲み物を拒否することがあるだろうかというくらいゆっくりと。
見計らっていたのは夕映さんが食事を終える時。彼とも彼女とも言い切れない人のお皿が空になる瞬間。私は離れたかったのだ。隣に座る螺子なし男から。
夕映さんの手と口の動きを見つめて、等々やってきたその時。私は一気にカフェオレを流し込み、「では、」と立ち上がった。同じように「それじゃ、」と腰を上げた夕映さんや焔さんと同じ意見だったわけではない。決して。断じて。
「行こうか、ハイド」
夕映さんの目が細められ、焔さんは大事そうに手帳を持つ。私はまだ共に行動するか検討中なのだが、あれか、お試し期間と言うやつか。返金保証はきかねぇんだろうな。
返事の遅れた私の手首を掴んだのは焔さんだ。彼は片頬を上げて笑い、会計に関しては夕映さんがしてくれた。どうしてだ。奢られたという事実が付加されたら面倒くさいことこの上ないではないか。……伝わらねぇかなぁ。
結局カフェから少し離れた高架下に集った私達は、ハイドに行く方向で話が進んでいた。
「あ、やはり駄目だ。零さん、一時待ったと言わせてくれ。俺たち制服だ」
「あぁそっか。じゃあ着替えてここに再集合しよう。一時間後でいいかな?」
焔さんが私の手首を物のように揺らす。私は自分の予備制服を見下ろして、これがもし解れたり焼けたりしたらと想像するだけで頭痛がした。これ以上出費を増やしたくない。次、もしも朱仄さんに会う事があれば制服代を請求してやるんだ。ちょっと盛って。畜生。
私が脳内で朱仄さんを睨んでいると、焔さんは同意を得るように顔を覗き込んできた。
「制服が汚れたら面倒だもんな」
「はい、まぁ、そうですね」
「それじゃ、連絡先と住所を教え合おう」
「どうしてですか」
「零さんとは連絡先を交換したんだろ? だったら俺ともしよう。顔見知りになったよしみ、住所も知っていたらバクのお裾分けにも行けるだろう。エンちゃんは昨日バク不足を起こしたとも聞いているからな、俺も先輩風を吹かせたいんだ」
絶対嫌だ。
喉まで出かかった台詞をなんとか呑む。焔さんが言ってることは正しいことで、私の反論は駄々と変わりない。夕映さんは良いけど焔さんは駄目ですなんて不平等だよな。……だよな?
私が諦めてスマホを出した時、焔さんが笑っていたのは言うまでもない。
***
ハイドで黒いシャツと黒ズボンというのは馬鹿なチョイスだろうか。あの世界は白率高いから目立つか。いや自分が光源と言うだけで目立ってるだろ。もうなんでもいいだろ。
言い聞かせて着替えをし、まだまだ薄い真心くんを抱き上げる。手触りのいい布地に顔を埋めると、自然と涙が溢れていた。
「泣いてるのね、焚火ちゃん」
影から出てきたユエさんが私の顔を覗き込む。無表情の私は原因の分からない涙を垂れ流し、浮かぶ化け物を見上げた。
「……あったかい心で、抱き締めてくれるんですよね。私が頑張ったら」
「えぇ勿論。焚火ちゃんが私の願いを叶えてくれた時に」
「ユエさんにも、心ってあるんですか」
「私?」
ユエさんは不思議そうに小首を傾げ、自分の胸元や頭を触る。それから顎に指を添えて私の周りを浮遊した。影が私の肌を撫でる。冷たい空気に覆われる。
「……自由になりたいと思うのは、心があるからこその願いじゃないかしら」
化け物が人間らしい解答をする。自分で納得したようなユエさんは、ただただ穏やかに微笑んでいた。
だから、私の視界が滲んでしまう。涙の粒が大きくなる。
美しい影法師の指は宙を惑い、私の周りを右往左往としていた。まるで、どうしたらいいか分からない子どものように。
私は真心くんを抱き締めて、さめざめと泣いた。目元が腫れるのは嫌なので保冷剤を持ってきて。漏れる嗚咽を噛み締めて。
止まれよ馬鹿たれ。いったい何が悲しいんだ。お前はこれからハイドに行くんだろ。しっかりしろよ間抜け。泣いてる暇はない。泣いたって意味はない。だから止まれと言っている。
言い聞かせて涙を止めた時、不意にチャイムが鳴らされた。
私はユエさんを見て自分の目元を叩く。微笑む化け物は指で丸を作っていた。大丈夫らしい。信じたぞ。
散漫な動きで私は玄関を開けて、立っていた焔さんに瞬きした。
「さぁ、行こうか」
笑顔の焔さんが節くれだった手を揺らしている。私は彼の服装に釘付けになり、首を微かに傾けてしまった。
白い着物に白い袴。中の長襦袢は黒くて、足元は黒い足袋に
「和装」
「あぁ、俺の普段着が着物なんだ」
今どき珍しいとは思ったが、私が口に出すことでもない。「そうですか」と玄関を閉めると前置きなく焔さんに手首を握られた。鼠捕りに掴まった鼠はこんな気分だろうか。
焔さんに引っ張られて足が勝手に歩き出す。この人のパーソナルスペースどうなってるんだろう。
アパートの階段を降りる時、焔さんは上機嫌で問いかけてきた。
「なぁエンちゃん」
「はい」
「俺の字、剥いでみたいか?」
片頬の上がった笑みで見下ろされる。私の背筋には冷たい汗が流れ、焔さんの犬歯に目がいってしまった。
思い出すのは、特別賞を隠れ蓑にした不穏な文字。優しいふりして笑ってるのに、背後に獲物を隠した陰険な雰囲気。
「食べられそうなので嫌です」
素直に答えると、焔さんはやはり満面の笑みを浮かべていた。意味が分からないのでアパートを出て少し距離を取る。この人の手が届く範囲にいると首をもがれる気がしてならないのだ。
夕映さんは焔さんと私のことを面白いと思ったのだろうが、その面白いってまさか同じベクトルではないだろうな。どう考えても私の方が
悶々と考えている時、不意に視界が違和感を拾う。
人がいない。
不思議が私の頬を撫で、非日常に片足を取られる。
肌がひりつきを感じた時、私と焔さんの影が盛り上がった。
「来たぜぇ、天明!」
「頑張ってねぇ、焚火ちゃん」
ユエさんが私を背後から抱き締める。
焔さんの二の腕を掴んだのは黒い布で両目を多い、燃えるような茜色の髪を逆立てた
あれが
「「レリックが来た」」
体温が一気に引く。
同時に、私は地面を這う単体の影を見つけた。
不穏を纏った黒は地面だけに存在し、影を作り出す対象が地上にはいない。
平日の夕方、影の濃くなる時間帯。アパートの周りからは人通りが途絶え、黒い影だけが確実に私達の方へ近づいていた。
あれが、レリック。
頭が対象を理解した瞬間、私達はハイドに落とされた。
顔にかかる髪は白くなり、自分の体だけが嫌に輝く世界。風景は私のアパートと変わりはないが、やはり主体は影の国。
焔さんは目元を紅潮させ、白くなった髪を後ろに撫でつけた。元から
「アルカナ」
彼の右側には長い火の棒が現れ、焔さんが掴むと同時に姿を固定させた。
背の高い焔さん以上に長い、真白の筆。両手で筆を構えた焔さんは白目を微かに血走らせ、私は細く息を吐いた。
戦うのは怖い。怪我をしてユエさんが痛がる姿を見せられるのも怖い。化け物は怖いし嫌い。でも、この怖いを乗り越えた先に私の欲しいものがあるんだから。自由になりたい化け物が聞き届けてくれたんだから。
化け物を殺せ。殺される前に殺せ。
戦って、壊して、ユエさんの願いを叶えるのだ。
そうすれば私の願いも叶えてもらえる。
温かい心が、私に触れてくれる。
それを知る前に、温かさを知る前に、死にたくなんてないんだよ。
私は焔さんと同じ方へ顔を向け、甲冑を着た化け物を見つけた。
黒光りする甲冑と槍を構え、私達を見ている者。バクのような無知さは見えず、こちらを完全に「確認」している。
あぁ、あれがレリックだ。
私からユエさんを引き剥がしにきた兵隊だ。
「アルカナ」
風が私の両腕に纏わりつく。腕を振ればガントレットが私の両腕を包み、焔さんが笑っていた。
「
「いいや、あれは数字持ち、二番だな。いけるぜ」
焔さんの影と繋がった
速度を上げる鼓動を遠くに感じる。頭の芯が冷えて、私の心臓を他人が動かしているような、冷たい感覚。
離れてしまう。私が私を一歩後ろで見てしまう。気づけば全部終わっていたあの時みたいに、私が私を止められなくなる不安定な感覚。
あぁ、だから、抱き締めて欲しい。
抱き締めて、繋ぎとめて。どうか私を、温かい心で。
なんて、望んでも私を制御できるのは私だけなのだ。望んだものは、握り締めた拳の向こうで掴むんだ。
私と焔さんの前にいるのは、鎧を纏った化け物だ。
「属性は地だな。クイーンほどではねぇが硬いぞ、天明」
「硬かろうがなんだろうが、燃やせば全部一緒だろう」
口が裂けそうなほど顔いっぱいに笑っている焔さん。彼が持つ大筆の毛先には発光する白の液体がついていた。
レリックは確実にこちらへ歩を進めている。
だが、
私の耳は不規則な足音を聞く。舌打ちしたくなる思いで振り返れば、キリンの首と人の手首から先が合体したバクが迫っていた。小さな掌と五本の指が地面を駆け、長い首と大きな頭が不安定に揺れている。
奇怪で奇抜で恐ろしい。
あぁ、化け物だ。私を害する化け物がくる。
怖さに背中を押された私は、自分の足が風を纏っているなんて気づかなかった。
早く倒したい。早く殺したい。早く、早く、私の恐怖を潰したい。
私の拳が速くても、足が遅くては意味がない。
だから私の足は、速さを求めた武器を具現化したのだろう。
「アルカナ」
重すぎては飛べないから、軽いものがいい。私が貰った属性が風ならば、軽やかに私を運んでくれ。私の恐怖を潰す台風になってくれ。
想像したのは昨日の夕映さん。猫のような身軽さで建物を超えていったあの人のように、私も自由な足が欲しい。
靴を覆った風が弾けて
ガントレットと一緒に知った防具。足を守る鉄の靴。
新しい武装は靴底から風を出し、私を宙へ飛び出させた。
一歩たりとも地面は踏まない。それでも確実に進んで、走って、飛んでいけ。
私を怖がらせる化け物を、ぶっ殺せ。
突風と共に体がバクの前にくる。光に呼び寄せられたバクは歪な頭を振り回すから、私は目を見開いた。
殴れば終わる。殴れば終わる。殴って潰して終わらせるッ
靴底から風が止まり、私の両足はバクの目の前に着地する。バクの振り回された頭を躱し、体重を乗せて地面を踏みしめる。腰を捻って拳を振り出す瞬間には、ガントレットの肘から突風が吹いた。鋭く加速した拳でバクの頭を殴り飛ばす。柔らかく重心の悪い化け物は呆気なく倒れていった。
地面に伏せたバクを見下ろし、痙攣していることを確認する。
駄目だ、まだ生きてるぞ。
コイツはまた私を襲うかもしれない。
足裏から這いあがってきた恐怖に震え、長い首を踏み潰す。
相手が動かないうちに仕留めないと。
目の縁に熱い雫が溜まり、私の呼吸が浅くなる。左腕はバクの頭部を鷲掴み、力の限り引きちぎった。
バクの痙攣が止まる。私の左手が黒い頭を持っている。黒い皮膚の下から溢れたのは深淵の泥だった。
感じたのは、安堵感。コイツもやっぱり化け物だった。きちんと化け物だった。化け物は死んでくれた。私を脅かす相手は一体消えた。
けれども安堵は持続しない。
ユエさんがバクを回収する間に振り返り、私の視線はレリックと焔さんに焦点を合わせた。
白紙の世界にとつぜん現れたのは、轟々と燃え盛る火柱だった。
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