篝火焚火は選ばれる
飛び起きた。
最初は何も見えなかった。
電気を点けていなかった部屋にて、私の目は動物とは思えぬほど低レベルな働きしかしなかったのだ。
「……痛い」
フローリングに倒れていたせいで体の節々が軋んでいる。勢いよく起きた衝撃に一拍遅れて鈍痛が広がり、私は暫く呻いていた。手首もちょっと痛いし、足が固まって伸ばすのに時間がかかる。
私は時間をかけて体を伸ばし、頬や髪を冷たい手に撫でられた感触を思い出した。
あれは夢だったんだっけ。影から生えた化け物。人の皮を被った奴。真っ暗な部屋に慣れてきた目は誰も見つけず、部屋には私一人だと教えた。
「……願い、」
呟けば、左目から涙が落ちる。手が床に落ちていた真心くんに当たる。
なんて夢。酷い妄想。なんでも願いを叶えてくれる化け物なんて、現れるわけがないだろうに。私には魔法のランプを手にできる素質はない。誰かに選ばれることなんてないから、真心くんを作ってるんだろ。
「馬鹿だなぁ……」
シャワーを浴びよう、そうしよう。あんな空しく怖いだけの夢、お湯で流してしまおうよ。
重い足取りで洗面所に入る。干している服を適当に見繕って腕にかけた所で、電気を未だに点けてないと気づいた。真っ暗闇で私は何をしているのか。そりゃ頭も冴えない訳だわ。
私は壁を指で撫で、スイッチを押す。数回点滅してから電灯は私と洗面所を照らし、足元には影が伸びた。
「ばぁ!」
「うわッ!?」
肝が冷える。
心臓が喉元までせり上がる。
間抜けな悲鳴が木霊する。
背後から突如声を掛けられた私は、抱えていた服を足元にばらまいた。
洗面台の鏡には私と、私の背面に現れた銀髪の女を映している。両手をお茶目に広げている女はケラケラと腹を抱えて笑っており、私は落とした服を踏んでいた。
「は~、やぁっと電気点けてくれたのね。ありがとう焚火ちゃん。やっぱり光は偉大だわ」
疲労と恐怖が私の頭を突き抜ける。頭頂部が噴火したのではないかと錯覚しながら、私は両手を握り締めた。
夢ではなかった。頭のおかしな化け物は存在した。そいつは私の影にいた。
コイツは人の皮を被った何か。玄関の先にいた男と、両親に成り代わった何かと同じ、人の皮を被った化け物だ。
意を決して影の女と対面する。彼女は未だに笑っており、喉は私の目の前に晒されていた。
白い皮を剥いだら何が出てくるだろう。この皮膚の下には何が隠れているんだろう。コイツに心はあるのかな。あれば冷たそうだけど、それを真心くんに入れたらどうなるだろう。
いや待て、願い、願いは? コイツの願いを叶えたら、私の願いを叶えてもらえるのではなかったか?
ぐちゃりと混ざった思考で、私は女の首を凝視した。
「貴方の願いはなんですか」
問えば女の口角がじっくりと上がる。顔いっぱいに笑みを浮かべた女の両手は、私の頬に触れるか触れないかの距離で漂った。
「聞いてくれるのね、あぁ、聞いてくれるのね! 新しい月、我が光源!」
歓喜に打ち震えるように、女は私の頬を両手で挟む。我慢ならないと言った動作に鳥肌が立ったが、目を逸らしはしないのだ。
教えろ化け物、お前の願いを。
そして、私の願いを聞いてくれ。
覆われた女の目を見つめれば、化け物は明るく声を弾ませた。
「話なら、ご飯を食べながらしましょうよ!」
***
自分で作る食事はどこか味気ない。材料も分量も合っている筈なのにどこか物足りない。私は自分の料理を今まで美味しいと思って食べたことは無いし、今後も美味しいと思えることはないんだろう。なんならスーパーで買った総菜の方が美味しいので癪である。
だがもっと癪なのは、母のような奴が作った食事の方が美味しかったことだ。
何年経っても舌の上に残っている味は美味しいのに苦いから、私は食事の時間が嫌いだ。数秒で食べ終えるゼリー飲料とかサプリに切り替えようかと画策したこともあったが、体育の授業で倒れたので中断したっけ。どうして人間の三大欲求に食欲が含まれているのか認識したな。食べないと死ぬんだ、人って。しかもきちんと栄養を取らないと駄目なんだ。精密に出来ている。
「ぅおえ"……」
「焚火ちゃんの胃って繊細なのねぇ。いや、繊細なのは口かしら?」
ところで、食事を全て台所で済ませたい時ってないだろうか。私はある。なので週の半分ほどは台所で立食してる。今日もそのスタイルでレトルトカレーを準備した。適当に盛った野菜には青じそのドレッシングをぶっかけた。取り敢えず野菜は摂る精神でいなければ、また倒れるかもしれないからな。
「なんで、なに、なにしたんですか、あなた、う"ぇ……」
「だぁいじょうぶよ、大丈夫。そんな悪いことはしてないわ。焚火ちゃんの為になることしかしてないわ」
数口食事をした後、現在の私は便器に縋っている。体が咄嗟に拒絶した野菜を吐き出して、鼻水や涙の落ちた絵面は最悪だ。
嘔吐で痙攣する体を影の女が摩っている。肌の奥まで冷たさの伝わる掌に余計に涙が出て、私の目の周りは痛みと重さを抱えていた。
水を流して女を押しのけ、冷蔵庫を開ける。嗜好品のオレンジジュースを注ぎ、うがいをしてから飲み干したが、私の体は何も感じなかった。
私の舌が、機能していなかった。
「味……」
オレンジジュースは甘くて酸っぱい。
野菜は青じそをかけたんだから爽やかになる筈。
カレーなんてスパイスだらけの刺激物じゃん。
だが、私はその味をどれ一つとして感じなかった。
どれもこれも食感だけ。柔らかい、喉奥に流れる、歯ごたえ、噛める、しかし無味。匂いのせいで余計に頭はバグを起こし、私は気味の悪さに慄いた。
私はどうなった。何が起こってる。これは病気だろうか。病院に行った方がいいだろうか。何科に行くのが正しいのか、消化器内科? 神経外科? 口腔内科? 今の時間はまだ開いてるっけ。夜間診療って何時から? 落ち着けない、落ち着けない、安心できる結果がどこにもない。私、いったい何の病気になったんだ、原因は、経路は、治るのかな、死ぬのかな、怖いな怖い、怖い怖い怖いッ
コップが音を立ててシンクに落ちる。顔を覆った両手は冷や汗と涙を受け止めて、熱く冷たく濡れていった。
「だぁいじょうぶよ、大丈夫。怖がらないで、焚火ちゃん」
一人空しく、震えながら混迷を極めていた時、穏やかな声が降ってきた。
背後から伸びた手が私の頬を撫で、顎を持って、冷気が私を包み込む。
全身から血の気が引いた時、女の手が私の口を塞いだ。長い指が頬に食い込んで、鼻呼吸だけが許される。胃の中は再びひっくり返りそうだ。
「そう取り乱さないで、選ばれた月。貴方は私の称号を得たのよ。だぁいじょうぶ、大丈夫。落ち着いて」
現状に似合わない柔らかな声が私を包む。真っ暗闇の中、仄明るい月光に包まれたような心地だ。眠ることを許されて、休むことを許可されたような、凪いだ気持ち。
私の体からは力が抜けて、暴れ出しそうだった気持ちが強制的に鎮められる。
女は私の腕を引き、足に影が巻きついた。気づけば虚ろな意識で机の傍に座っており、私の前には味のしないカレーと野菜、麦茶があった。影から伸びている女は私の両肩を背後から支えている。体温を感じない青白い手だな。
「味がしないのは当然よ。貴方は変わったの。貴方は
「どーる……ばく……?」
女は私の背後から腕を伸ばし、カレーに黒い海苔みたいなものを散らす。それは微かに鼓動する虫のようにも見えるし、揺れる蠟燭の影にも見えた。
「これがバクよ」
私の背中を冷たいものが流れ、女はスプーンを手に取る。掬われたカレーと、
私は咄嗟に体を引いたが、女の腕によって阻まれた。巻きつくような掌に口を開けさせられ、女の持ったスプーンが近づいてくる。机を蹴り上げそうになった足も、女を殴りそうになった腕も、細い影によって止められた。
体中から脂汗が出て息が上手く吸えない。口角を上げた女は私の顔を覗き込んで、バクなるものを乗せた食べ物を近づけてきた。
「はい、いただきまーす」
無理やり開けられた口にスプーンが入れられる瞬間、もぞりとバクが動いたのを見た。
叫ぶ間もなく私の口は塞がれる。何だよコイツは、なんで動いてんのふざけんなッ
暴れる私を影と女が押さえつけ、汗で服が濡れていく。不安定な音がリビングに響いた。
「噛んで、飲むの。だぁいじょうぶ、大丈夫。とっても美味しいから」
目尻に浮かんだ涙を女の指に拭われる。丸のみできない量の食べ物は、しかし飲む以外の選択肢がなかった。これ以上口に入れたままにしていたら酸欠になる。飲まないと、食べないと、私が危ない。
気持ち悪くて眩暈がしたが、それでもひと噛みするしかなかった。
すると、どうだろう。
味がする。口の中に、今まで食べた何よりも濃くて、美味しいと感想が浮かぶ味がする。母らしき奴が作った味を上書きするほどのものを感じる。
無意識のうちに私は何度も咀嚼を繰り返し、女の手は離れていた。
「ほらぁ、美味しいでしょ?」
自慢げな女は野菜用のフォークを指の間で回している。食べさせ方が雑過ぎると言いたいが、バクを飲んだ私はそんなことも口に出来なかった。
「……これ、なんなんですか」
「だからバクよ。
「分かるように説明してください。バクのことも、味覚のことも、願いのことも」
早口になりながら汗を拭う。女は私が喋る間にサラダとお茶にもバクを撒いていた。食卓に並んだのは見た目が最悪な料理たちだ。
「そうねぇ、お話しするなら、そうねぇ~、体験が一番かしらねぇ」
女はのんびりと頬に手を添えてフォークを揺らしている。私はお茶に手を伸ばそうとしたが、浮いたバクを見て気が引けた。
なにこれ。ほんとに気持ち悪い。成分なんだよ、何で動いてんの。昆虫食とかそんなものとも違う気がする。
食欲も気力も失せて、項垂れた手には力も入らない。
かと思えば机と手の甲に衝撃がかかり、私は肩を跳ねさせた。
今度はな――……。
「あぁぁぁぁいッたい!!」
黒い女が右手を押さえて声を上げる。だがそれは言葉と違って悲鳴ではなく、まるで至福の歓声だ。
私の影から体を伸ばし、背中をのけぞらせながら笑っている女。彼女の口角は恍惚と上がり、黒い液体が手の甲から溢れている。
硬直して動けない私は、自分の右手の甲へなんとか視線を向けた。
手の甲を貫通し、机にまで達しているのは銀色のフォーク。
尖った先が私の皮膚を貫いて、血管を傷つけ、骨を折っている――筈だ。
けれども私に痛みはない。
目視するまで、自分の右手に起こったことが分からなかった。女が痛がる状況に唖然としただけだった。
完全に脳が処理することをやめている。現状に対する恐怖が限界突破し、私に考えることをやめさせる。
なんでフォークが手を貫通してるのかとか。
なんで血が出ないのかとか。
なんで私は、痛くないのか、とか。
ぐるぐる回る視界でフォークが抜かれる。女が握る銀食器は汚れることなく、私の手の甲には穴だけ開いていた。
かと思えば、その穴も直ぐに塞がり何もなくなってしまう。
私は呆然と右手を見つめ、女は黒い液体の止まった右手を眼前で振った。
「私はね、貴方にアルカナを与える代わりに味覚を変えて、痛覚を貰ったの。バクって美味しいわよね。貴方が感じるはずだった痛み、とっても刺激的だったわ。全ては私の願いを叶える為に。貴方の願いはその後で」
女がスプーンに掬ったバクを近づけてくる。
私の唇をこじ開けて歯に食器を当てた女は、嬉々として笑っていた。
「今度は私が語るから、聞いてくれるわよね? 私の光源、新しい月。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます